平影清ゆかりの
影清洞
秋吉台には見学できる洞窟が三つある。そのうちの大正洞と秋芳洞はすでに行ったことがあるので、まだ行ったことのない影清洞に行ってみた。
この洞窟の中で、秋芳洞を思い出した。「やっぱり秋芳洞にはかなわないな。」
「あのすごさをもう一度」と思い秋芳洞に行こうかと思ったが、1年前に行ったばかりで感動が半減してしまいそうだったので、今回はやめた。「秋芳洞はすごい!!」のイメージを崩したくないから。
何度来ても感動的な
関門海峡
再び来ました関門海峡。
しかし、何度来ても感動的な場所だ。「ここまで来たぞ!」って感じがする。
ここに来るたび思うことは、「日本って広いな・・・」
この旅の目的地の一つ
太宰府天満宮
学問の神様菅原道真公がまつられている神社。去年、3年生の担任を持っていたため、ここに訪れ、全員志望校合格を祈願し、お守りをかって帰ったところ、この春には、おかげさまで100%の合格率で、すばらしい春を迎えることができた。だから是非お礼参りがしたいということでこの旅が計画されたという経緯があった。
ということで72人を代表して、お参りをしてきた。
学問の神様
菅原道真
平安時代、学問に励み、貴族に学問を教える文章(もんじょう)大臣となった道真。そしてそれが、宇多天皇に認められ右大臣までに出世する。ところが、実権を握りたがる藤原時平は、学者上がりの道真の出世をねたみ、後醍醐天皇に仕組み昌泰4年(901年)都から太宰府に追放されてしまう。
その後、道真は権力だけで、罪もない自分を家族から引き離し遠く後に追いやった藤原氏や、後醍醐天皇らを憎み、恨みながらも、とうとう都に戻れることなく太宰府の地で生涯を終えてしまう。
道真の死後、都では日照りや伝染病、大嵐などの災害が続き、たくさんの豪族が死に、館も雷に燃やされ、それをきっかけとして後醍醐天皇が病気でなくなってしまう。それ以来、人々は「道真の怨霊だ」と恐れるようになり、霊の力を沈めようと太宰府天満宮や、京都の北野天満宮にまつった。
それからも、道真のことを「天神様(雷神様)」と
呼ばれ、さらになおも恐れられていたし、鎌倉時代になってからはその学問に励んだ生前をたたえて、「学問の神様」としてまつられるようになったのである。
とびうめ
飛梅
道真が京都から太宰府に出発する際、離ればなれになる愛する妻子との別れを惜しみ、梅の花に思いを込めて詩を詠んだ。
東風吹かばにほいおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ
意味:梅の花が咲く季節になったら、おまえの梅のような匂いを東風にのせて私のもとまでおくってくれ。梅の花よ、主人がいないからといって春を忘れてはいけないよ。
その梅は道真を慕って、一夜のうちに京より太宰府まで飛来したといわれる。今でも、妻子の道真を思う気持ちが東風にのって太宰府まで届き、花を咲かせているといわれている。
それが「飛梅」である。
弥生時代を思わせる
吉野ヶ里遺跡
佐賀県神崎町、三田川町および、東脊振村にまたがる遺跡。
昭和61年の文化財発掘調査により発見された場所。環壕集落や墳丘墓、物見櫓などが発見され、『魏志倭人伝』に記されている邪馬台国の姿を彷彿させるものとして注目を浴びている。
邪馬台国は「九州説」と「畿内説」の二つの説があり、「九州説」であると、この地は「クナ国」ではないかという説や「邪馬台国」そのものだという説に分かれている。いずれにせよ、『魏志倭人伝』の記述が曖昧なため、はっきりしたことはわかっておらず、現在研究中だそうである。