OMPのコラムでトーク


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 今回のお題は  「ITを農から見ると」
                               2001.08.23
     
     IT革命を唱えた森政権から、圧倒的「改革人気」という期待感に支えられ
    た小泉政権に変わって、半年が経とうとしている。前政権への支持率の低さ
    は、またしてもはじけたバブル経済(ITバブル)とデフレ不況の中で、救世
    主の出現への切なる願いとなって、小泉人気を生み出している。口悪く言え
    ば、これも確かに「IT革命」の落とし子現象なのかもしれない。IT、この
    二文字に技術立国と経済再生への願いを賭けた人たち、それぞれの思惑とは裏
    腹に、現実はその実像を容赦なく私たちの前に突きつけている。ITに経済の
    存亡を担わせる底力があるかのように演出してきた人たちには、こうした顛末
    が訪れるであろうことは折り込み済みのシナリオなのかもしれない。今尚、
    「IT革命」を叫び続けているオピニオンリーダーたちは、やはり泡沫経済に
    つかの間の「バラ色社会」を夢魅させる確信犯とも言えるし、実はITの本質
    をよくわきまえた人種に違いない。
    
     ITは何を生み出すのか。テクノロジーに頼るばかりに、社会が生きている
    人間によって支えられ、その人間は生物の営みによって生かされているという
    本質を忘れてしまう。ITが創出するとされる「雇用」とは、仮想現実にサー
    ビスという付加価値を提供しながら、熾烈な価格競争にしのぎを削る泡沫経済
    の奉仕者のことじゃないだろうか。土と光と水のおかげで、日々の糧を与えて
    もらっている私たち農民の目からは、これだけサービスの提供によって暮らせ
    る人口が増えながら、社会・経済が成立しうる「構造」そのものに、驚きと矛
    盾さえも感じてしまうのだ。ものづくりが衰退し続けながら、それでいて、モ
    ノと情報の流通の付加価値で経済が成り立っていくしくみとからくり。舗装さ
    れた農道を高級外車に乗った若者が走り抜けていく時、その傍らで雑草と格闘
    している私たち農民とドライブを楽しむ若者の車は同じ価値基盤のもとに成り
    立つ社会の部品として併存している。私たち農民は、自らが取り除く雑草一本
    に費やす手間と時間がいくらの所得となって評価されているのか、おおよその
    見当をもって理解している。もちろん、時間単価として補償されているもので
    はもちろんないし、ある時は農産物価格の暴落によって最悪、圃場廃棄という
    憂き目にも遭遇する。それでも、田畑という生活基盤と田舎暮らしというスタ
    イルを守りながら、作物や家畜たちを育てている。そんな中、IT(情報技
    術)がもたらすインターネットのうねりを否応なしに浴びつつ、それがパソコ
    ンという道具との出会いのきっかけであったり(彼らは、パソコンを農具の一
    つとして利用している)、あるいは、これまで届く事のなかった生産者の思い
    を消費者に伝える手段として利用し始めている。忘れてならないのは、IT革
    命がいかように存在しようと、農村は農産物を育み、子を育てながら、日々の
    糧を得ていくという生活の姿を失わずに持ち続けているということだ。農村も
    技術の変革によって、労働も以前からみると本当に楽になったし、生産性も格
    段に向上したが、そのほとんどがその間に培われた技術体系の延長線上に屋上
    屋のように構築され、付加価値の積み重ねに対して多大なコスト負担を続けて
    きているわけだ。その結果として、今の暮らしがあることは否定のしようもな
    い。家族が食べていくために、その時々で行われた現実的な選択があったわけ
    だし、結果として、離農という選択を余儀なくされた人もあれば、農地拡大と
    いう農業経営の選択をなし得てきた人もあった。農業機械はますます高性能化
    し、作業を快適なものにしてくれた。農薬は、病害虫による減収から農村経済
    を救い、労働力不足を除草剤が助けてくれた。国内農業の衰退はあっても、曲
    がりなりにも今の農業人口でここまで農村を支え続けてきた大きな力であった
    と言える。けれども、技術変革は農業人口と在来農法というかけがえのない財
    産を失わせ、エネルギー消費と資源の海外依存という代償を背負ってしまっ
    た。もちろん、国内では高コスト体質という汚名をかぶりながらも、流通・資
    材・機械・土木という幅広い潜在雇用人口を支え続けていることは言うまでも
    ない。技術は利便をもたらし、必要は発明の母であることに変わりはないが、
    それがどれ程の人の生活様式に影響を与え、そして、その結果としてどんな社
    会がもたらされてきたのか。実は、技術にとって必要なのはその時々の経済効
    果ばかりではなく、その技術開発が屋上屋のように積み重ねられていって、ど
    れほどの利益と代償をもたしたのかという評価ではないかと思うのだ。その評
    価が取り返しのつかない代償をもたらしていると判断したとき、社会はその技
    術を捨てる英断を下す機会を得る。もし、その機会を逸してしまえば、利便に
    勝る損失が取り返しのつかない不幸をもたらしてしまう。知恵のある社会と
    は、絶えず、ある技術が成立しえなくなった時に替わりとなる技術ベースを確
    保している社会といってもいい(巷では、セーフティーネットと言っているら
    しい・・・)。情けない話、今の農業生産技術体系がそうした「評価」を行う
    つもりがあるのか、そうした試みを僕は知らないし、また、今の技術体系に替
    わる(化石燃料資源と化学物質依存の生産技術)生産が今の農業の現状で可能
    なのかどうか、悲観的にならざるをえない。IT革命が叫ばれて、程なくIT
    バブルがはじけるという構造的不況が待っていた。人々が「雇用」という経済
    原則に身を委ねる社会には、ITが語る夢いっぱいの暮らしに、本当に「雇
    用」は担保されうるのかという現実が待ち受けている。もともと、ITは従業
    員への賃金負担を減らすというコスト対策を土台に発展してきた技術ではな
    かったのか。屋上屋を積み重ねる「技術」体系の脆弱さは、その土台が構造基
    盤としての強度を失った時にもろくも瓦解するという宿命を背負っている。
    人々の暮らしの変化とそれを成り立たせている自然環境へのダメージの大き
    さ、それすら肯定させてしまう理屈とは、「エゴ」以外の何者でもない。
    
     あまねく携帯情報端末が普及してしまった時、人々はその端末から何を引き
    出せるだろうか。情報通信技術、溢れかえる「押しつけコンテンツ」からの利
    便に恩恵を感じる程、私たちの持ち合わせる「時間」は長くなっているのだろ
    うか。脳のしくみのように、神経単位であるニューロンは、互いに求め合うよ
    うに神経回路を接続していく。情報とは、それを求め合うところにこそ、系と
    しての真価が発揮されていくのだろう。農という営みから、ITが何をもたら
    すのかという関心よりも、いかなる「情報」がその回路に行き交うかという本
    義を何よりも優先させたいものだ。革命と呼べるだけの変化を社会は自ら欲し
    ているのか、コマーシャリズムは往々にして「社会ニーズ」を頭ごなしに押し
    つけてくる。雑草一本と対峙する農民もまた、そうした「社会ニーズ」の幻影
    に翻弄されている。本当に「自らが求め合う情報」のネットワークスタイルが
    誕生していけるなら、道具としてのITは声高に叫ばれずとも社会を変えてい
    くに違いない。生産者や消費者と自らを決め込みがちな私たちに、ITは「求
    めるもの」と「与えられるもの」の選択の機会を与えているような気がする。
    生活者としての自覚も、ひょっとすると、そんな葛藤の中から芽生えていくる
    のかもしれない。
                       COPY RIGHT 2001   Seiji.Hotta
    
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