「農薬・無農薬のはなし」 1999.06.22我が農場では、畑作物と野菜栽培で生計を立てている。小麦、砂糖原料とな る甜菜(てんさい)、小豆・菜豆(金時豆)の採種、食用馬鈴薯(メークィン) などの畑作物、大根、ゴボウ、南瓜といった野菜などを作付けしている。これら は、連作に伴う土壌病害や嫌地現象を避けるために、毎年、それぞれの圃場に 作付けする作物を交代しながら栽培を行うようにしている。基本的に連作が永続 的に可能な作物は水稲だけと言ってもよく、その他の作物は連作(一つの圃場 に同じ作物を続けて栽培すること)を続けると、土壌病害の増加などで収量や 品質が低下してくる。それを回避する有効な手段の一つが、三〜八年間隔で作 付け作物をローテーションしていく輪作という栽培法なのだ。今、十勝のよう な大規模畑作専業地帯では、この輪作体系が崩壊寸前にある。輸入農産物との 競合に伴う価格下落のために、単位面積当たりの収入が低い豆類が敬遠され、 根菜・野菜類の作付け割合が偏って増加しているためである。増加する病虫害 は農薬で対応する、次世紀の食料供給基地を嘱望され、自負する割に、抱えこ んだジレンマの根は深い。我が農場も豆作の割合の低下を野菜類とのセットで なんとか補いながら、極力連作をしない努力を続けている。もちろん、減農薬 に努めながら、一昨年からは環境ホルモンの疑いのある農薬は代替農薬に替え るよう心がけている。環境ホルモン問題に漠然とした不安を持ちがちな消費者 の方々のために断っておくが、環境ホルモン(外因性内分泌撹乱物質)農薬の 問題を我田引水の如く「農作物の農薬残留問題」に置き換えないでいただきた い。法的な農薬残留基準が、内分泌撹乱毒性の今後の解明によって改訂される こともあるかもしれないが、残留農薬よりももっと大きな健康リスクに曝され ているのは、農薬を使用する農民および散布地域に暮らす人たち、特に子供た ちであるということ。この点が視野の外にある生産者、消費者がまだまだ多い。 農民たちは、農薬残留は気遣うけれども、自分たちの環境ホルモンに対する曝 露環境そのものにほとんど気が付いていない。これは、本当に残念な事だと思 う。「農薬がなかったら、作物なんて作れないべさ」、「長年農薬使っている けども、子供だっているし、ガンにもかかってないしさ」、これは本音には違 いない。ただ、環境ホルモン(内分泌撹乱物質)がどんな「毒」であるのか、 理解していない上での「本音」であることが、いかにも口惜しい。何故に、世 界中で「奪われし未来」が環境毒物の毒性の再評価のきっかけになったのか、 それは「子供たちの未来」が環境ホルモンによって奪われてしまうかもしれな いことが分かってきたからなのだ。 先日のことだが、「環境ホルモン農薬のことをいつも口にしているあんたは、 農薬は使わないのかい?」と同業者から尋ねられた。農薬は使ってはいるが、 環境ホルモンの疑いのある農薬については、できるだけ避けるようにしている と答えた。すると、農薬を使いながら、農家に環境ホルモン農薬のことを話す のはおかしいとやり返された。「ここに挙げてある農薬が使えなくなったら、 (畑作)農業なんてできないしょ」、にも関わらず、なんであんたは環境ホル モンの疑いのある農薬の話をするのか、氏の言い分である。ずらりと成分名が 列挙された二十数種の農薬商品名、農家にとっては馴染みのものばかりである。 それだけに、事態は深刻の度が大きいとも言えるのだが、自分への具体的な健 康影響が自覚できないこと、なにより「農薬登録制度」によって市販されてい ることへの信頼感が、「何をくだくだ言っている」という受け取り方に導いて いるような気がする。低用量摂取効果、相加作用、相乗作用、体内に入り込む 内分泌撹乱物質の種類が多ければ多いほど、単独の毒性評価では計りかねる影 響が懸念される。しかも、それは胎児期の神経系、免疫系、内分泌系の発達に 後戻りできない影響(不可逆性)を及ぼしかねない。もちろん、リスクとベネ フィット(社会的恩恵)のうえでリスクの大きさを評価する冷静な姿勢が求め られるべきだが、農薬を使用しないと販売所得をあげられないという論法と取 り違えてはいけない。環境ホルモンの疑いのある農薬を避けることは誰のため でもない、農家とその家族の「未来」を守るためであり、結果的に食料自給機 能を保持することにもつながっていく。販売所得という対価は、今の段階では 「内分泌撹乱リスク」と何等連動することなく存在している。農業生産者たち に今、最も必要なのは「内分泌撹乱毒性、何が分かっていて、何が分からない のか」という正確な情報だろう。存外、農薬に対して無頓着な男性に比べて、 子を持つ若い農村女性たちの方が環境ホルモン農薬の話を真剣に聞いてくれる。 紛れもない「性差」だろう。 内分泌撹乱毒性が懸念される農薬成分、苦しいのはなんといっても代替農薬 が見つからない場合で、特に大規模省力化が進んでいる今の農業生産の現場で は、除草剤などでこのケースが多い。安易に「無農薬」を生産者に求める消費 者は、日本のような温暖湿潤な気候で、雑草や病害虫の発生を「有機」や「微 生物」が完全に抑えることが可能だと信じたいに違いない。そう思いながら、 ひょっとすると身の回りにはたくさんの抗菌グッズをはべらせていたりするの ではなかろうか。生産者は、たぶん「好き」で農薬を使用する者などいないに 違いない。お金もかかるし、やはり毒性(致死毒性や発ガン性)も恐い。けれ ども、生計を立てていくには収量と品質が必要なために、「使用基準」を信じ て農薬を使用する。減農薬栽培でいつも心配するのは、「もし、効果がなく、 経済的損失につながってしまったら・・・」ということだ。「有機栽培」を 「勇気栽培だ」と言った人がいたが、けだし名言だと思う。そこに登場した環 境ホルモン農薬の問題、もはや「減農薬」だけでは克服できない「質」の問題 につながる可能性すらある。わが家は現在、両親と私の三人で二十五ヘクター ルの畑を管理しているのだが、手がける作物の数、播種や除草などの作業の時 期などの点から、やはり農薬を使用しなければ生計が立てられない環境にある。 先の「あんたは、農薬を使わないのかい?」ではないが、使用する農薬の選択 肢が限られる場面では、本当に困ってしまう。連作ではないが、農薬、特に殺 菌剤では「連用」すると耐性菌の発生を助長してしまうために、輪作同様に成 分の異なる農薬のローテーションが推奨されている。菌類や細菌、ウィルスの 感染を予防する目的の葉面保護を行う農薬、感染した病原菌の生理活性に作用 し治療効果のある農薬など、効果の点でそれぞれ特徴に違いがあるのだが、基 本的には保護作用のある農薬を用いるようにしている。浸透移行性の農薬には、 やはり恐さを感じる。恐さという意味では、成分と効能、使用基準、それに簡 単な毒性区分しか表示されていない「農薬」のラベルもいかにも「ブラックボッ クス」的で、メーカーと行政の傲慢さを覚える。何故、農民が農薬毒性に無頓 着になっているのか、その原因は恐らく情報公開のあり方にあるような気がす る。まして、「環境ホルモン農薬」など知る由もない。これが農薬を巡る農業 現場の実態とも言える。 気の滅入るような農薬とのつき合いからの逃避という訳でもないが、昨年よ りわずか二十五アールばかりの大豆を無農薬・無化学肥料、堆肥のみで栽培し ている。もちろん、大きな流通ルートに向けてのものではなく、知人からの依 頼で無印の納豆用に作っているものだ。手間もかかりはするが、砂漠の中のオ アシスで喉の乾きを癒す動物たちの心地だ。これ以上の面積を手がけるのは、 多分労力と収入という意味から無理だろう。失敗したとしても(病害虫)、目 をつぶることができる程度の栽培。にも関わらず、作っている本人にはすこぶ る清涼感が湧くのは何故だろうか。芽生え、そして成長する葉の一枚、一枚に 新鮮な生気を感じる。わずか数ミリの芋虫を見つけては、「成仏」と念じなが ら他界していただく。殺虫剤で一気に「一網打尽」を企てる近代農法から見れ ば、穴の開いた葉を見つけてはしゃがみこんで、芋虫をつぶす様は滑稽かもし れない。もちろん、見逃した芋虫は容赦なく大豆の葉をボロボロにしてくれる。 見逃すまいと思いつつ、後日、大穴を開けられた葉を見ては、「やられたな」 とくすくす笑う自分がいる。「全部は喰い尽くせないだろうよ」という妙な満 足感にひたったりする。二十五アール(業界用語では二反半)ほどの大豆栽培 で癒されるというのもおかしな話かもしれないが、無農薬栽培の効用とでも言 おうか。大豆には、ベト病という厄介な病気がつきものだが、そんな心配をよ そに昨年はそこそこの収穫を収めることができた。雑草と害虫とのつき合いも それなりにあったものの、懲りずに今年も大豆畑にしゃがみこんでは芋虫つぶ しに追われている。この大豆、大袖振大豆といって、大粒の大豆なのだが、こ の大豆でつくった納豆の食感は病みつきになる。知人が手がける無印の納豆、 はと麦も入っていたりで、知る人ぞ知るという珍品だが、いずれ当ホームペー ジの【電直】で紹介したいと思っている。ちなみに、店頭では販売されていな いそうなので、悪しからず。 COPY RIGHT 1999 Seiji.Hotta |
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