皆様こんにちは。ご無沙汰しました。毎日毎日しつこく海岸に通った甲斐あって初サケ(67センチメス)をゲットしたり、一年ぶりにエコーと胃カメラの検査に行ったり(異常なし)、パソコンのシステムが壊れて立ち上がらなくなったので、MOにバックアップをとってからHDフォーマットし、バックアップを取り出そうとしたらMOドライブが壊れていたり、長女の小学校で学芸会があったり、1ゲームくらい投手戦が観たかったような気がしないでもない日本シリーズを制してジャイアンツが日本一になったり、ここんとこまあ色々と忙しうございました。参加表明していた雑文祭の文章も難しいお題をなんとかやっつけようと得意の下ネタで書きかけてはいたのですが、パソコンのトラブルで間に合わず、ふたを開けてみたらなんとまあ80人以上もの方が参加されていたので、一気にやる気をなくしてしまいました。ごめんなさいすみません。今日の常識へようこそ。
今年の北海道はサケが著しく不漁でして、例年ならスーパーで買ったスジコをほぐしてイクラにし、各方面にくばったりしている時期なのに、スジコが高いという以前に売ってさえいません。沖で漁師さんたちが仕掛けている「定置網」というのにもかからないそうで、こりゃまたいったいどうしちゃったのだろう、というのが浜の大きな話題になっております。ま、原因は明確で、ようするに海水温が高いせいだそうですが。
しかしこうなると当然増えるのが「密漁者」なのですね。今年は結構捕まっています。警察に捕まってこれほど恥ずかしい犯罪もないでしょう。しかも「たかが密漁」とお思いでしょうが、非常に厳しい罰を受けます。新聞にも載っちゃいますし。
また「カニの密漁」というのがこれまたたまに新聞に載りますが、これは特殊な職業の方々が船を仕立てて大規模にやっておられるそうです。
「北海道のヤクザ=密漁従事者」
雄大なる北海道の海をそういう方々が放っておくわけがないのでした。金になることはなんでもなさるのですね。寒いのにご苦労様です。カタギに戻るときにはやはりキャリアを生かして漁師になるんでしょうね。
最近は海の話ばかりですが、秋は山もアツいらしいです。キノコや山ぶどう、そして栗。今秋は我が家に大量の「栗」が押し寄せ、貰った食べ物は全部おいしく食べる、を旨としている私はあまりに大量の栗の皮を剥いたもので、包丁が食い込む右手人差し指の神経をどうにかしたらしく、いまだに指先の違和感がとれません。保存用にブランデー煮や甘露煮を作ったり、栗ご飯にしたり、ゆで栗でそのまま食べたり、もともと大好物なもんでそりゃ−もう胸が焼けるほどいただきました。もちろん子供たちも1人を除いて大喜びで食べまくっておりました。あまり喜ばないのはもちろん長男です。
「イモ、クリ、カボチャは女の食べ物」
常識ですね。他には「マメ」なんかも女の食べ物と言えそうです。「いやボクは焼き芋に目がなくて、あの軽トラを全速力で追いかけるほどです」とか「パンプキンパイ、うまいっすよねー」とかいう人もいるかもしれませんが、世間一般では男性はこのようなデンプン質のものは好んで食べない、ということになっております。何かに取り憑かれたかのようにゆで栗をむさぼり食う女4人を、ちょっと離れた場所からまるで異星人でも見るような目つきで見ている長男に「ちゃんと男じゃん」とちょっと安心したりしました。
またカボチャに関しては戦時中の代用食の記憶から「とうなすは見るのもいやだ」という年輩男性も多いようです。昔のカボチャは今のように甘くなんかなく、とても美味しいとは言えない代物だったそうですが。
さてそこで、この現象に理由はあるのでしょうか?考えてみました。考えてみると、男性がこれらのものを嫌いというわけではないのですね。イモも栗もカボチャも男性は食べなくはないですが、女性のように「取り憑かれたように」食べはしない、ということです。ですから「なぜ女性はデンプン質の物をありがたがるのか」という風に考える方が正解に近づけるような気がしました。
同じく男性は苦手だとされる「甘い物」に関しては、以前大学のセミナーでアメリカに行った折、連日のドーナツ攻めに辟易した私は「アメリカ人はどうしてあんなに甘い物が食えるのか?」という疑問を口にしました。すると一緒にいた先生が「白人は味蕾(味を感じる器官。舌の表面にある)の数が少ないから」とあっさり教えてくれました。さらに、
「女性は男性より味蕾の数が少ない」
とも教えてもらい、なるほどー、それで男性は女性に比べて甘い物が苦手なのかー、と納得したのをよく覚えています。甘い物の好きな男性も時々見かけますが、もしかしたら味蕾の数が女性並に少ないのかもしれません。しかしそれが「デンプン質」にも通用するかと言うと、どうもそうではないような気がします。そこで対象物の方に目を移すと、イモもクリもカボチャも、そしてマメも、すべて「食物繊維」であることに気が付きます。食物繊維、すなわち女性の宿命である「便秘」に効果のある食べ物であるわけです。
「動物は無意識のうちに体にいい食べ物を選んで食べている」
胃に毛玉ができた猫は、自主的に草を食べて吐き出すということをやりますが、あれと同じことなんだなあ、きっと。
ん?そうすると、
「焼き芋の軽トラを追いかけている男性は便秘症」
ということになるのかもしれない、いや、きっとそうだそうに違いない!・・・・と、ぴくりとも動かない竿先を見つめながら頷く秋晴れの海岸。今年のサケ釣り人はみんなヒマです。「釣れない釣り」は哲学にうってつけ。皆さんもぜひどうぞ。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。文化の日が今年もやってきて、ひとつ年をとりました。長女と次女が空き箱で「ロボット」を作ってプレゼントしてくれたのですが、やはり女の子の作るモノにはたとえロボットであっても「小物入れ」がついているのでした。いやー便利便利。ダンナからは「4億円だ」とロト6をもらいました。そういや今日抽選だな。楽しみだなあ、4億円。今日の常識へようこそ。
「知ってるつもり!?」で「永田洋子」を放送した直後、日本赤軍の「女帝」が逮捕され、そのタイミングのよさにびっくりしておりますが、ところで皆様。「アジト」ってなんの略かご存じでしょうか?
「アジテーション・ポイント」
の略なんだそうです。しかしそれなら「アジポ」と称するのが妥当だと思うんですが、やはり「ポ」じゃ活動員の志気にかかわる、ということなんでしょうかね?そういえば先日某掲示板で「Gスポットの”G”って何?」という話題になり、ささいな疑問はすぐに調べないと気が済まない私としてはすぐさまネット検索。いやー、いい時代です。答えはすぐに得られました。かの部分の正式名称は、
「Granfenberg-Spot」
と言うのだそうで、発見者の頭文字なのでした。Granfenbergさんとしてはどんな気持ちだったのでしょう?彗星に自分の名前がつくのとはまた違った感慨があったことでしょう。その後その掲示板では「バルトリンさんとカウパーさんはどっちが恥ずかしいか?」という話になり、私は「カウパーさんの方が断然恥ずかしいと思うっ!」と主張しましたが、皆様はどうお考えでしょうか?(←相変わらずヒマらしい)
さて小学校に続いて保育所でも学芸会がありました。今年はアフリカの昔話「ワニとニワトリ」の劇でした。あらすじを説明しますと、ワニに襲われそうになったニワトリが「食べないで、お兄さん」と呼びかけます。ワニは「あれ?ワニとニワトリは兄弟だったかな?」と考えているうちにニワトリに逃げられてしまいます。そこへ物知りのカワウソがやってきて、首を傾げているワニに「ワニもニワトリもタマゴから生まれる。タマゴ生まれの兄弟だよ」と笹川会長のようなことを言います。ワニは「もう少しでかわいい弟妹を食べてしまうところだった」とほっとし、「それからというもの、ワニはニワトリを食べなくなったと言うことです」と締めくくられています。
元気なワニを演じた次女。地味ながらきちんとニワトリの演技をしていた長男。練習ではセリフを言わなかったのに、本番では大声でセリフを叫んだ末っ子(←理解不能)。子供たちのがんばりを目の当たりにして、母親モードの私は大きな拍手を送ったのですが・・・・・。
「へ?ワニってニワトリを食べないの?」
拍手をしながら私の頭は大きなクエスチョンマークに占拠されてしまいました。そんなワケはない!ワニなんかあーんなデカい口してるんだからなんでも食うはずだ!と思う傍ら、この話が「昔話」であるというところに引っかかりを感じます。「それからというもの、ネコはネズミを追いかけるようになったということです」 とオチがつく十二支の話などは有名なので皆様ご存じでしょう。同じ伝でもしかしたらアフリカでは「ワニはニワトリを食べない」のではないか?もしそうだとしたらこれはすごいことだ。あの獰猛なワニがニワトリだけは食べないとしたら、そこには一体どんな秘密があるのだろう?
そんなワケで、ささいな疑問はすぐに調べないと気が済まない私としてはまたもやネット検索。しかし今度は答えが得られませんでした。ダンナに「ワニってニワトリを食べないと思う?」と話しかけて適当にかわされたり、脇にいた子供たちに「食べないよ!だって兄弟だもん!」と教えられたりもしましたが、ここで普通の人は諦めるのでしょうが、こと「謎の解明」に関しては私ってちょっと偏執狂気味なのかも知れません。サルのことならモンキーセンター、ヘビのことならヘビセンター。そしてワニのことなら、そう、あそこ!(←実は「名前を出さないでくれ」と言われた)
事の次第を簡単に書き、あそこにメールで問い合わせをしたのでした。
親切なあそこの方はすぐにお返事をくれました。客観的にはすんげえくだらない質問なのに、それはそれは丁寧に、ワニの分類や生態なども詳しく説明してくれたのです。動物が好きで獣医になった私にとっては非常に嬉しい知識でした。
さて、肝心の疑問の答えですが、
「野生のワニがニワトリを食べないというのは考えられないことです」
とこれ以上はないくらいに力強く否定されておりました。しかもその後、
「当園ではエサとして鶏肉を与えております」
と続き、あまりの身も蓋もなさに思わず大笑い。ワニはテリトリー意識が強く、それを犯されると同族でも容赦なく攻撃するのだそうで、しかもお話の舞台であるアフリカには獰猛な種類しか生息していないとのこと。ま、予想通りの解答だったのですが、するとあのお話は、あのオチは、一体なんだったんだああああ!(ぜぇぜぇ)
「昔話に何かを求めてはいけない」
伝承民話には「納得できる」お話がほとんどありません。語り継がれる話が実話だとしたらまず間違いなくエキセントリックな部分があって、だからこそ伝承されてきたのでしょうし、架空の話であれば設定自体に「ついていけない」ものです。先日も「浦島太郎」の絵本を見ていたダンナが読後「玉手箱ってぜんぜん”おみやげ”じゃねえな」とつぶやいていました。このように大人が大人の頭で読んでしまうとまず間違いなく釈然としないものが残るはずです。ま、最初から「道徳教育を目的として」作られた民話もあるように思いますけどね。
私が人生のごく偏った一部分に関して師と仰ぐはるかさんのところには、そういう世界の伝承民話のうち「脱力度A」のモノを集めた「ズキズキ童話館」というステキなコーナーがあるので、皆さんぜひ一度行って読んで異空間に迷い込んでみようではありませんカ!!(←アジテーション)
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様お元気ですか?北海道はいきなり冬になりました。夏は暑い。冬は寒い。子供はうるさい。自然にはかないません。実はここ数日間「今日の常識プレミアム」(ただの書きかけ)がアップされていたようです。本人も知りませんでした。たぶんポルターガイストのせいだと思いますが、いやホント、自然現象にはかないませんな、はっはっは。ごらんになったラッキーな方はぜひ年末ジャンボを買ってみてください。当たると思います(300円が)。「今日の常識(完成品)」へようこそ。
さてこのコラムもおかげさまでたくさんの方に読んでいただいております。「今日の常識」という偉そうな題名を掲げたこのコーナーですが、筆者はなんといってもただの主婦(←この身分、楽だあ)です。皆さん了承してくださっているとは思いますが、たまにもっともらしいウソや明らかなマユツバが混ざっている場合があるので、他人にここの内容をしゃべったりする場合は細心の注意を払っていただくようお願い申し上げます。
そんなわけで時折内容に関して「あそこは違うのでは?」とか「少々補足を」といったメールをいただくことがあります。大変ありがたく勉強にもなるのですが、それをHPに反映させるのは結構手間なので、このたび今日の常識BBSを作ってみました。これなら私の吹いた大ボラにもきっちり突っ込んでいただけますし、本当にためになるご意見なども皆様にお伝えすることができます。まあ私のページにそこまで期待なさっている奇特な方などいらっしゃらないとは思いますが、時々本当に「なるほどー」と思うご意見などもいただくので、今後そのような「役に立つ」もしくは「笑える」ご意見ご感想経験談などはぜひ今日の常識BBSの方にお願いいたします。
さて私は数ヶ月に1度のペースで「読書熱」を発症するのですが(更新が遅れている時は発熱しています)(←さりげなく言い訳)、この「読書熱」、その時々によって求めるジャンルが異なるのが面白いところ。昨シーズンは「それほど有名ではない作者のホラー小説」で、その前は「ベストセラー長編小説」でしたが、今シーズンは「心理学系の実用書」でした。もともとこのテは好きでして、こういう本からの受け売りで人にエラそうに講釈をたれるのが私の人生最大の楽しみでもあります。いやなヤツですね、はい。
このような非小説本は少々読み飛ばしても大体のところは理解できるため、小説と違って一日に3冊も4冊も読めてしまいます。もちろん図書館で借りてくるので、つまんなさそうなところは平気でびゅんびゅんすっとばして読んでしまうのですが、先日借りた本の中にあまりに面白いので隅々まで読んでしまった本がありました。
「おまえはうちの子ではない。橋の下から拾ってきた子だ。」
という題名の本です。著者は精神科のお医者サマなのですが、表題の言い慣わしについて「言われたこと、言ったことがありますか?」「誰から言われましたか?」「拾ってきた(と言われた)場所はどこでしたか?」というアンケートをとり、その結果について考察している、といういささか変わった趣旨の本です。著者は「自分が言われてものすごくショックだったから」という非常に分かりやすい動機によってこのようなユニークな題材を研究テーマに選んだのだそうで、そこが素晴らしいと思いました。実際、この著者は偏執的とも言える熱心さでこのテーマを追求していますが、それは自分のトラウマを解明したいという欲求に基づいているからかも知れません。 学問のみならず、社会というものは、実はこういった個人的で一見些細な、しかし本人にとっては根深いきっかけによって発展していくものなのですね。
さて、今の若い親には到底言えそうもないこの言い慣わし。しかしこの言い慣わしを言われたことのない私でもやはり「子供を拾ってくる場所」といえば真っ先に「橋の下」が思い浮かびます。それほどこの言い慣わしは、少なくとも我々の世代までには、よく知られています。なぜ「橋の下」なのでしょうか?また昔の親はなぜこんなにヒドイことをわざわざ我が子に言ったのでしょうか?その答えが、結局は推測の域を出ないながらも、きちんと納得できる、さらに非常に興味深い形で示されていたので、ここに書かせていただきたいと思います。
小さい子供が病気であっけなく命を落としていた昔、「この子が無事に育ちますように」と願う親の気持ちには切実なものがあったと思います。その切実な思いは数多くの風習となり、子供の病死が激減した現代にも受け継がれているのは皆さんご存じの通り。そんな風習のひとつに「子捨て」というのがあったのだそうです。これは「親の厄年に生まれた子供は親との縁が薄いので、いったん縁を切って”接ぎ木”する」という理論(か?)に基づき、実の親が子供を一旦捨て、後から知り合いが拾いに行って「あそこにこんなかわいい子が捨てられていたけど、あんたんとこいらんか?」「ほんなら貰います」と言ったしらじらしいやりとりをする風習だそうです。で、その「捨て場」として橋の下がポピュラーだったということらしいのです。橋の下は雨風を防げますし、太い橋桁が安心感を与えてくれるからではないか、とは著者の推測です。この風習を全く知らなかった私は、このほほえましい茶番にささやかな感動を覚えました。昔の親は今とは比べようもないほど忙しい最中に、子供の無事を願ってこんなしちめんどくさいことをしていたのですね。七五三なども元を辿れば「3歳になりました。神様ありがとう」「7歳まで育ちました。これもご先祖様のおかげです」といった感謝の風習だったのに、今では安全で贅沢でヒマな親の為のコスプレ行事と化してしまったのは嘆かわしいことです。神社にお参りしないで写真だけ撮る、という本末転倒な親(すいません)も増えているようですし。
さて、本当に「拾われっ子」だったら「あんたは拾ってきた子だ」などとは言わないでしょうし、我が子だという安心感から子供にとっては「シャレにならん」ような冗談を昔の親は結構平気で言ったようなのですが、このタチの悪い冗談には意外な効用があるようだ、とこの本には書いてあるのです。
「普遍的な言い伝えや迷信などには隠された意義がある」
「妊娠中に便所掃除をすると器量のいい子が産まれる」という罪作りな言い伝えがありますが、これは「腰を落とした動作が安産に繋がるから」という根拠に基づいている、というのが定説になっております。それなら素直に「安産」と言やーいいのに、と思いますが、この場合、非科学的でありながらもオイシイ「エサ」が人間の心理をうまーく突いていたりするのですね。誰だって自分の子は出来る限り器量よしであってくれた方が嬉しいですし。もちろん、言い始めた人は適当に言ったのであって、解釈は後付けなのかもしれませんが、こういった言い伝えは日本のみならず、世界中に掃いて捨てるほどあるのだと思います。しかしそれにしても「おまえは拾ってきた子だ」などというブラックジョークに一体どんなメリットがあるというのでしょう?
これは今も昔もそう変わらないことだと思いますが、子供の成長に伴い、その時々でさまざまな「親子間の揉め事」が発生します。これは避けられない問題であり、親子の諍いは血が繋がっているだけに深刻なものになりがちですが、そんな時子供は、「どうせこの親は本当の親ではないのだ」「本当の親はもっと優しくてお金持ちで今に自分を迎えに来てくれるのだ」と思う(これを「継子ファンタジー」と言うのだそうです)ことでこういった危機を乗り越えることができる、と言うのです。また親の側でも、ウソだと分かっていながら「本当の子ではない」とわざわざ伝えることで子供と心理的な距離を持つことが出来、いくらか冷静になれる。このような「効用」があるようだ、と書かれています。
もちろん、親のウソを見抜く子供も多いのでしょうし、反対にショックが後々まで尾を引いて「継子ファンタジー」に浸る余裕さえなくす子供もいるのでしょうが、「ちょうどいい愛情」を注げなくなってしまった現代の親たち(含自分)に、この話はちょっとしたカルチャーショックになるのではないでしょうか?
「オマエハウチノ子デハナイ。橋ノ下カラ拾ッテキタ子ダ」
いやいや、私にはとてもじゃないですが言えそうにないです。頭でっかちではありますが、その分親としての自信がないのかも知れません。まあそんな私も「そんな子はうちの子じゃないよっ」とはよく怒鳴ってしまうのですが。(←十分言ってる)
それでは「今日の受け売り」はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。お寒うございます。こちらは連日マイナス気温が続いております。昼間一人で家にいるときはどうしても灯油をケチってストーブを「微小」にしておりますもので、寒い寒い。家が古くて広くて変な造りなので、ストーブの周りしか暖かくないのです。ところで、諸外国のあの大きな家というのはどう暖房しているのでしょうか?やっぱり廊下は寒いのでしょうか?ご存じの方教えてください。今日の常識へようこそ。
先日ピアノを買いました。私も中学3年まで習っており、それがあとあと(遊びに)非常に役に立ったようなので、興味があれば娘達にもぜひ、と思っておりました。今まで習わせなかったのは「送り迎えがイヤだから」です。私の住んでいる近辺にはピアノ教室がないので、ピアノを習わせる場合は当然親が車で送り迎えすることになるわけですが、それってなんだかすごく「恥ずかしいこと」のような気がしていたのです。「さ、○○ちゃん、おピアノの時間ですよ!」とムスメを車に乗せる自分がどうもむずがゆくて避けていたのですが、ここ2〜3ヶ月、6歳の次女が毎日毎日おもちゃのピアノを弾き狂っており、レパートリーが次々と増えるのに親バカながら感心しておりました。「習いたいか?」と聞いたら「うん」と控えめに答えたのでこれは思い切り時だろうと踏んだわけです。買ったのはカワイのアップライト、中古で運送調律付き88000円という破格値でした。運送代と調律代だけでもそのくらいかかるので、ま、本体はタダと思えば多少の難(けっこうある)はガマンできようというものです。早速弾き狂っております。私が。
「昔取った杵柄」
という言葉がありますが、まさにその通り。こないだちょっと実家に行ったので昔の楽譜を持ってきてほぼ20年ぶりに弾いてみたのですが、体が覚えているのにびっくりしました。楽器に限らず、余裕があれば若いうちにいろいろかじっておくと老後のヒマつぶしに役立つかもしれません。
しかしながら、若いうちにやっておかないともうダメかというとそんなこたぁないようで、実家の父は還暦を過ぎてからギターを始めたのですが、最初は全く指が動かず「やっぱり年取ってからじゃダメかねえ?」などと思っていたのですが、なんと1年ほどですっかり弾けるようになってしまったのです。父は今までに楽器を習ったことはなく、今でも5線譜はまるっきり読めないそうですが、とにかく何事もやる気と根性なのだなあ、と思いました。正月にはピアノとギターで合奏しようと楽譜(コード)を送ったところです。大音響のフルバンドもいいですが、こういう静かなバンドもいいもんですよね。
さてそんなわけで、今日は「臨界期」のお話など。
「臨界期」という言葉の正しい定義はちょっと調べがつかなかったのですが、人間が何かを習得しようとする場合、それを習得しうる時期(年齢)があり、それを過ぎると習得が非常に難しくなる、というようなことで大体合っていると思います。バイオリンは3歳、ピアノは9歳、言語は12歳などと言われています。反論も多いようですが、確かにこの「臨界期」というのはあるようです。たとえば「文盲」と言われる人々がなぜ今からでも勉強しないのか、大人ならすぐに覚えられそうなものなのに、と不思議に思いますが、現実には臨界期を過ぎている為に「覚えたくても覚えられない」のだそうです。そのことを知ったのはかなりの驚きでした。それから視力などもかなり厳密に「臨界期」があるそうで、6歳までにきっちり「見る力」をつけておかないとその後の視力は望めないそうです。また小学校に英語教育を取り入れるかどうか、という議論にもこの「臨界期」説が論じられているようです。
さて、日本のまともな親なら子供に話しかけないとか物を見せないとか字をわざと教えない、などということはないでしょうから、こういった「臨界期」はそう気にせずともいいのだと思いますが、どうにも罪作りな「臨界期」もご存じのようにあるのですね。 私はいわゆる「早期教育」はでーーーーーーっっっきらい (ぺっぺっ)です。今の日本における早期教育はそのほとんどが「母親の判断」のみで始められているようで、「才能のある子を伸ばす」という純粋な意味での「英才教育」ではなく、「才能を無理矢理つくりましょう」という、どう見ても異常な教育方針だと思うのですが、そのキ○ガイ母たちの心の支えになっているのがこの「臨界期」というヤツなのですね。
「子供の脳は3歳までにほぼ出来上がってしまう」
確かに組織学的にはそうらしいです。脳細胞は生後わずかの間に瞬く間にあちこちと繋がって、複雑な神経回路を構築します。ですからその間になるべく良質な刺激を与えるのがよろしい、と、ここまではわかります。しかしこの場合の「良質な刺激」とは「だっこされると嬉しい」「オムツを取り替えると気持ちいい」「お日さまは暖かい」「雨は冷たい」とか、そういうことじゃあないんでしょうか?「良質な刺激」が「漢字カードを見せる」ことだとはどおぉーーーーぉしても思えないのですが、私、間違ってます?
まあ赤ちゃんに漢字カードを見せているうちはまだ微笑ましくていいと思いますが(そうか?)、子供というのは教えれば覚える動物なのがこの場合は災いするのかもしれません。
「うちの子は天才かも知れない」
冗談のようですが、親というのは大真面目にこう思うときがあるものです。希望的盲目的観測、というやつですが、私もいまだにしょっちゅう思います(←おめでたい)。なんにも教えてなくてもそう思うのですから、何かを教えてそれに子供がどんどん反応すれば、そりゃーもうさぞかし間違った期待を抱くことでしょう。そもそも子供というのはなんでも吸収してしまう生き物なのですから。しかし、普通の親は知っているはずです。
「天才=幸せではない」
世の親子を観察していると、親の「幸せとは何か」という観念はそのまま「子供の教育方針」に反映されるようです。いい大学に入れば幸せ。自分の好きなことをするのが幸せ。平凡に生きるのが幸せ。お金があれば幸せ。信仰を持つのが幸せ。本当に人それぞれですが、親自身が幸せかどうかで太い線を1本引けるように思えます。自分がいい大学に入れなかったから、子供をいい大学に入れようとする。自分が貧乏だったから、子供は金持ちになって欲しい。こういうのはやはりどこかに無理があるような気がします。早期教育に熱中し、子供を天才にしたい、と真剣に思う親というのは果たして幸せなのでしょうか?
中崎タツヤという漫画家がいます。非常に優れた洞察をする人で、大好きなのですが、その人の漫画にこういうのがありました。
「幸せとは、”根拠のない自信”である」
自分には絶対に災いは降りかからない、という根拠のない自信。これさえあればもう幸せをつかんだようなものだ、と父が息子に諭す、この漫画を読んだときに、私は大きく頷き、子供達にもぜひこの「根拠のない自信を」と思いました。要するに極端な「楽天主義」ですが、不思議なもので、こういう考え方をする人には本当に災難が降りかからないものです。ウチのダンナなどもかなりハイレベルの楽天家ですが、そのおかげでこんなにいい女と結婚できたというわけですしっっ!(←なぜか語気を荒げる)
というわけで、カミナリを怖がる子供達に「大丈夫、ウチは絶対にカミナリの落ちないウチだから」と根拠のない自信を植え付ける教育熱心な私。見習いたい人はどうぞ遠慮なく、ホントに遠慮なく見習ってくださいまし。それでは今日はこのへんで。次回をお楽しみに。
明けましておめでとうございます。昨年はこのHPのアクセスが劇的に伸びた一年でした。お友達や知り合いにここを紹介してくれた皆様、たいして更新もしないのに毎日アクセスしてくださる皆様、本当にありがとうございました。加えて本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ついに21世紀ですが、皆さんの周囲では何か変化がありましたでしょうか?だいたいが「100年に一度の世紀越え」とか「今日から21世紀です」とか言われたところで、結局のところ家庭レベルでは普通の大晦日、普通の正月ですもんね。そう考えると普通の大晦日じゃなかった昨年の方が盛り上がっていたような気がします。
ところで「20世紀」という梨がありますが、こうなると「21世紀」という品種名が出てくるのか、出てくるとしたらどの作物になるのか、ちょっと楽しみだったりします。品種名の申請はやはり早いモノ勝ちなのでしょうが、私としてはその輝かしい響きにそぐわない「サトイモ」とか「ゴボウ」などの土にまみれた地味な野菜についた方が笑える気がしますので個人的に根菜関係を応援したいところです。農業試験場根菜開発班(←あるのか?)の人、がんばってくださいね。
さて、今はお金さえ出せばいくらでも手抜きが出来る、いわば主婦に優しい(甘い)時代です。クリスマスや正月のごちそうを外注した人も多いのではないでしょうか?ウチも去年は年越し用に近くの食堂に8000円のオードブルを注文しました。ちゃんと美味しくて豪華で凝っていてよかったのですが、今年は長男も飛行機代がかかるようになり(4歳を2歳とごまかすのはさすがに辛い)、正月帰省の飛行機代がものすごいことになってきたので、年末から気分は緊縮財政。。しかたなくポテトサラダを作り、冷凍枝豆を解凍し、冷凍の揚げ物を揚げ、100円のオレンジを切り、レタスを敷いた銀皿に盛ってミニトマトを飾ってみたら、あーら不思議、どう見ても5000円くらいのオードブルが目の前に現れたではありませんか。
「ごちそうは”彩り”と”盛りつけ”である」
どんなに高価な食材であっても、盛りつけがヘタでは「ごちそう」に見えません。逆にたとえ冷凍食品であろうとも、昨夜の宴会の残り物であろうとも、賞味期限を1週間や10日過ぎていても、ちょっと酸っぱいニオイがしていても(←こりゃダメだろう)、盛りつけ次第で十分「すごいごちそう」になりうるのです。このトリックに気付けばしめたもの。誕生日だろうがお雛祭りだろうがクリスマスだろうがすべて、
「レタスを敷いた銀皿とミニトマト」
これに何か「黄色いモノ」で経費が大幅に削減できるのですね。少々センスはないですが、子供にはこういう「原色」こそがウケるものです。ウチの子供達も「おかーさん、こんなごちそう作って、すごーい」と大喜びでした(しめしめ)。自分で「パーティー用ごちそう」を盛りつけてみると、根幹を担う「銀皿レタス」には非日常性ゆえのありがたみを強く感じますが、なんといっても「ミニトマト」に長嶋茂雄並みの影響力を実感します。これがあるとないとでは大違いという意味で。ごちそうに限らず、毎日弁当を作る私などはもう「ミニトマトなしではいられないカラダ」になってしまっていますし。ミニトマトを開発してくれた人。ありがとう。前言撤回。「21世紀」の品種名は「ミニトマト」に決まり。農業試験場ミニトマト開発班(←だから、あるのか?)の人、がんばってくださいね。
ところで昨日のニッカンスポーツの占い欄に「美食ざんまいで体調下降気味」と書かれていましたが、今の時期に「美食ざんまいで体調下降気味」でない人がどれだけいるでしょうか?私などは素直なので「うーん大当たりだなあ」などと危うく頷くところでした。ま、占いというのはそういうものなのかもしれませんが。
というわけで今夜(1/5)の最終便(23:10羽田着)で東京に帰ります。毎年恒例の「7泊8日お年玉回収ツアー」です。なぜ最終便かというと「おやすみ割引」で安いからです(泣)。それでも往復の飛行機代は15万円を軽く越えています(号泣)。私は決してケチではありませんが、たかだか実家に子供の顔を見せにいくだけにこの金額はくやし過ぎます。そろそろ真面目に「車で帰省」「フェリーで帰省」を考える時期なのかもしれません。いえ、言ってみただけ。絶対ヤです。
それでは今日はこの辺で。次回の更新はいつなのでしょう?それは私にもわかりませんが、お楽しみに。