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第55回(00.8.24)

 皆様お久しぶりです。盛り沢山で遊んだ夏休みの疲れも取れ、ようやく学校も保育所も始まりまして日常のペースが戻ってまいりました。わがジャイアンツもどうやら優勝確定か、といったところですが、ファンというのは実にワガママなものでして、あんまり独走されてもつまらないもんです。ゲーム差は1.5〜3.0くらいにうまいこと調整していただきたいところですね。3週間ぶりの「今日の常識」へようこそ。

 まずは私ごとながら皆様にお願い。先日、お友達夫婦がツーリングの途中で我が家に寄ってくれたのですが、なんとその3日後に、札幌の某ホテルの駐車場で奥様(美人)のバイクが盗まれてしまいました。詳しい情報はこちらに記載されております。もしお心当たりのある方、あるいは犯人の方がいらっしゃいましたら御連絡ください。特に札幌近郊の方、もっと特に犯人の方、よろしくお願いいたします。(「犯人」に「方」はいらんかったな、ちっ)

 さて本題。
 前回ここに書きましたように、1週間ほど東京の実家に帰省しておりました。私が実家に帰ると2人の妹もそれぞれの子供を連れてやってくるので、一般的な人間の許容量を越えたにぎやかさになります。先月、末の妹が2番目の子供を産んだので、今回は赤ん坊も入れて子供が8人という大騒ぎでした。子供の声というのは特別に耳に障る周波数ですし、同じ年頃の子供が一緒に遊ぶとそれぞれがそれぞれにそれぞれの不満を抱くものらしく、親への直訴がこりゃまたひっっっじょーーーーーっにウルサい。まあ、このウルサさじゃあ無理もないとは思いますが、私って子供が嫌いなんだなあとつくづく思いました。それでよく4人も産みましたね、と言われますが、それとこれとは別問題です。子供が好きだから、という理由で子供を産む人もいるかもしれませんが、むしろ、子供は好きでもないけど、やっぱりなんとなく、結婚したら子供を産むものでしょー?、とか、なにより「出来ちゃったから」(←ウチだ)という理由による方が多いのではないでしょうか?私も独身時代は子供なんか大大大の大嫌いでした。今でも、自分の子供はもちろんかわいいですし、子供が成長していく過程は面白いな、とは思いますが、「子供好き」では決してありません。

「人間の好き嫌いはそうそう変わるものではない」

 しかし矛盾のカタマリである私は、「子供」は嫌いでも「赤ちゃん」は好きなのです。いえ、子供を産んでから好きになったのです。

「人間の好き嫌いは簡単に変わることもある」

   石坂啓氏が、そのエッセイの中で「”かわいい”のスイッチが入る」という表現をされてましたが、まさにその通り。しわだらけで変な色で「動いたり泣いたりする肉のカタマリ」でしかない人間の赤ちゃんをなぜ「かわいい」などと思うようになるのか。脳のどこかにあるはずのそのスイッチがオンになった時がいわゆる「母性」の始まりなのかも知れません。スイッチの入っていない人にとっては「変な生き物」、かろうじて「小さくてかわいい、ような気がしないでもない」という感想しかないでしょうが、世間一般で「母性」と言われているその感覚に目覚めた人間にとっては、新生児のはかなげでいて生命力に溢れ、なんとかして生きていこうとする存在そのものに愛情を抱けるようになります。人間の赤ちゃんというのは、極めて未熟な状態で生まれてくるため、自分では何もできません。しかし自分の思い通りに母親を操ることで生きていこうとします。そのことを通じて母親にえも言われぬ幸福感を与えるのは、赤ん坊の世話というのがそうでなければやってられないほど過酷だからです。そしてこの「勘違い状態」こそが赤ん坊の思うツボなのですね。もちろん、事が赤ん坊の思惑通りに運ばないことも多く、中にはスイッチがうまく入らない母親もいるのでしょうが、まあ、大多数の母親は「本家本元」に母性本能をくすぐられる体験をするものでしょう。私の場合も、子供達がまだ新生児の頃、お風呂に入れている時に「この手を離したら、コイツは溺れて死ぬんだなあ」と思ったらなぜかものすごく愛しく思えたものです(え?変?)。その無力さが赤ん坊の武器でもあるのですね。自分を弱く見せて他者の庇護を無言のうちに要求する。人間のみならず、動物の子供はすべてそのテを使っています。そして多くの女性がまんまとそのテにはまっているのは疑うことなき真実でしょう。
 とまあ、このような事を一通り考えた後、私はまだ生まれて1ヶ月の妹の子供を抱いてその乳児湿疹だらけの顔を見つめながら、こういう場合に「スイッチが入っている女性」が言うべき言葉を探していました。まずは「赤ちゃんってホントにかわいいねえ」、次いで・・・・。

 たとえば、1人子供を産んで、もうひとりどうしようか迷っている女性。同様に2人産んで、3人目を迷っている女性。こういった女性の場合は、

「赤ちゃん見てるともうひとり欲しくなっちゃうね〜」

と言うべきところです。実際、このセリフ言う人多いんですね。実際には、他人の赤ちゃんを見たからといって、その晩から子づくりに励んだりということはないのだろうと思いますが。

 一方、2人、あるいは3人、うっかり4人も産んで「もう子供は産まない!」と堅く堅く決意していて、その決意のあまり低容量ピルなんぞを飲んでいる女性。こういう女性の場合は、なんと言うべきなのでしょうか?私の口を突いて出た言葉は、

「あーあ、早くが欲しいなあ」

 世の母親はよく「もうひとり産むべきか」で迷っているようですが、迷うくらいなら若いウチに続けて産んでしまうのがお利口だし正解だと、私は確信しております。2人でも3人でも、納得するまで産めば、もう夢は一足飛びに「孫」へ。「孫」は私のような子供嫌いでも無条件にかわいいと言いますし、あたりまえですが自分で産まなくてもいいし、夜中に起きてオムツをかえなくてもいいし、泣いたら母親に「ママー」と返せばいいし、こっそりアメ玉でもやって手なづけるお楽しみなどもあるそうです。楽しみですね、「孫」。しかし、

「孫がかわいいのも2人まで」
「孫は来てよし、帰ってよし」

という常識もあります。8人のかわいい「孫」に侵略された実家はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。父も母も「こりゃたまらん」と逃げ回っていたのでした。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第56回(00.8.31)

 皆様こんにちは。「今日の常識」へようこそ。
 北海道はいよいよサケマス釣りのシーズンです。密漁者の方々も「北海道の密漁 9月号」(←そんな雑誌はない)の「特集 本当は教えたくない密漁スポット Enjoy catch and dash!」(←くどい)を読みつつ手ぐすねを引いていらっしゃることでしょう。我が家から車で1分の厚賀漁港にも小さいサバがアジを連れてわーっと入ってきました。生きているサバというのは、本当にピッカピカで、見事に浮かびあがった背中の不吉な模様に食欲をそそられてしまいますね。
 あ、そういえば「手ぐすねの引き方」を教えて下さったイシハラさん。ありがとうございました。お返事もしませんで大変失礼いたしました。勉強になりましたです。
 実は7、8月は暑いので(←言い訳ヘタ)メールのお返事も半分くらいはすっぽかしていました。メールくださった皆様本当にごめんなさい。そろそろ涼しいので、メールの返事は確実です。皆さんメールくださいね。

 話題になったついでに「手ぐすねを引く」ですが、イシハラさんのメールから文章をお借りしますと、

漢字では「手薬練ひく」と書き、武士が手のひらに薬練(くすね)を塗ることを意味します。薬練は松脂(まつやに)を油で煮て練ったもので、弓弦や糸を強くするために用いました。また、矢を射たときの衝撃で、弓が手のひらから飛び出さないように、左手にも塗ったのです。そこから、薬練を引いて、すっかり準備万端整えて、機会を待つことを「手ぐすねをひく」というようになったのです。

とまあ、こういうわけだそうです。このコーナーとしてはエビのサイズ(常識第46回)に次いでためになる知識ですね。イシハラさん、重ね重ねありがとうございました。

 さて、現代のAV社会で育つ子供達は当然ビデオもたくさん観る訳ですが、5才くらいまでの子供というのは大人と違って同じビデオを呆れるほどくり返しくり返し観るものです。我が家では「子供が何かをくり返す回数」を便宜上「100万回」に統一して表現しておりますが、「はなまるくん」も「きかんしゃトーマス」も「くまのプーさん」も全部100万回ずつ観るのです。ストーリーもセリフもすべて覚えてしまってもしつこく観ています。「面白いか?それで?」と思うのですが、面白いかどうかは別として、これは子供の習性なのではないか、と思いました。そもそも、子供に付き合うのがなんで大変かというと、それこそ「100万回同じことに付き合わされる」からなのですね。
 「くり返す」という行為にはおそらく大量の「確認」が含まれているのだろうし、さらに「確認」という行為には実は結構な満足感があるのですね。次はエドワードが、こう言うハズだ。ほーら、言った。そいでパーシーがこう答える。ほーら答えた。ヤツらはこの「ほーら」にかなりの充実感を感じてるのではないでしょうか。よく考えれば大人にもこの「ほーらの法則」はばっちし当てはまるのです。これは100パーセントのリーチ目だから、入ったハズ、入ったハズ、入ったハズ、ほーら、揃ったあ〜!!!。とまあ、喩えがちょっと偏ってますが、人間と言うのは本来「確認済みのことをくり返し確認する」ことによっていくばくかの快感を得ている生き物なのでしょう。もちろん成長と共に「未知への欲求」が膨らんでいくものなのでしょうが、そう考えると子供が自分のテリトリー外のことに、大人が期待する程の反応を示さないのは、この「未知への欲求」がまだまだ未熟だからなのだろうと思います。もちろん、大人になっても自分の知らない世界にはなかなか飛び込もうとしない人も多いように思いますが、むしろその方が人間としては自然なことなのかもしれません。特に「守る性」である女性は。
 もちろん、ビデオをくり返し観る、というのは決して褒められたことではありませんが、積み木でも絵本でも「くり返す作業」には膨大な時間が必要です。人間の正常な発育に「くり返すこと」が必須だとしたら「子供にはヒマが必要」ということになりませんかねえ。まあ「子供のヒマは親の多忙」なので親としてはどうしても予定を入れてしまいがちですが。

 ウチでは今「第2次ハイジブーム」が吹き荒れています。ハイジといえば、私も「干し草のベッド」や「ヤギのチーズ」にあこがれたものですが、今朝次女に「おかあさん、干し草のベッドで寝てみたい」と言われ、 「○○ちゃんちや○○ちゃんちに行けばたくさん干し草があるよ」と自分で答えて愕然としました。

「干し草のベッド」は手の届くところにあっちゃダメ〜〜〜〜!!(じたばたじたばた)

 保育所のお友達はウチを除いてみんな牧場の子供です。都会育ちの私には叶わぬ夢だった「干し草のベッド」がすぐ身近にあるウチの子供達。イカンイカン、そんなことじゃ。まあどっちにしろ「ヤギのチーズ」は依然「夢」だろうからよしとするか。というか、普通に「牛のチーズ」の方が美味しいんだろうけど。

 最後になりましたが、しつこくお願い。前回お友達(美人)のバイクが札幌のホテルで盗まれた話をしましたが、まだ見つかっておりません。車種、ナンバー、盗難状況など詳細はこちらをご覧下さい。引き続き情報をお待ちしております。
今日の常識。

「群馬ナンバーのバイクを見たら盗難車と思え」(←そんな〜)

道内の方、 よろしくお願い致します。特に犯人
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第57回(00.9.12)

 皆様こんにちは。9月も半ば、さすがに北海道はもうパーフェクトな秋になりました。サケ(こっちではアキアジと呼びますが)釣りのシーズンなハズなのですが、今年はサケの岸寄りが遅れているようです。仕掛けもエサも用意して待ちかまえているんですが、サケにはサケなりの事情があるのでしょう。じらされると燃えるのが人の常。お願い、早く来て>サケ。 今日の常識へようこそ。

 前回「アルプスの少女ハイジ」の話題で「ヤギのチーズにはなかなかお目にかかれない」と書いたところ、複数の方から「結構ポピュラーです」とのメールをいただきました。フランス料理屋やギリシャ料理屋などで食べられるし、またわりと普通に売られているとのこと。私も知らずに食べていたかも知れません。安い赤ワインと一緒に食べるとうまいそうですね。教えてくださった方々、ありがとうございました。
 我が家に吹き荒れた「ハイジブーム」もようやく東の海上に抜けたようですが、今朝長男に「ビデオをデッキに入れてくれ」と頼まれた次女が「いまヤギの乳飲んでるのっっ!」 と強い態度で拒否。驚いたことに次女のそのあまりに「当然」という姿勢に臆したか、いつもは靴下の泥汚れのようにしつっこい長男があっさり撤退。さらにその数分後、長男にオンブをせがまれたダンナが「いまヤギの乳飲んでるのっっ!」 とまたもや「彼」を諦めさせるのに成功。・・・・いいのかそれで?

 さて、今時期の北海道は日が暮れると急に冷えるので、風呂にゆっくりつかるのが結構な楽しみになります。最近の我が家では早い時間に子供達だけで風呂に入ってくれることもあるので、私やダンナも週に1回くらいはゆっくりと足を伸ばして湯舟に入れるようになりました。こないだも長女がチビ達を仕切って入浴してくれたので、久々にダンナと二人でレッツ・バスタイム。がしかし、4児の両親はそう簡単にくつろがせては貰えないのでした。
 洗い場の隅にはおそらく末っ子のほほえましいシワザであろう「置きウンチ」。そのせいでバスルームには芳しい薫りが充満しています。みんなで仲良く水遊びでもしたのでしょう、温水プールのようにヌルい湯舟からはほのかなアンモニア臭が立ち上ってきます。そんな生命の息吹き伝わるムードの中、ツーカー能力を徐々に獲得し始めた結婚9年目の夫婦はさらなる精進を求めて「センテンスの短い会話」を楽しむのでした。

「馬って秋になると肥えるの?」

 「天高く馬肥ゆる秋」。あまりに有名なこの言葉ですが、あまりに芳しく、あまりにヌルい風呂に触発されてか、私はふと「ホンマかいな」と思ったのですね。大体が馬の食料である「草」が一番美味しいのは「初夏」であるはず。人間界における「食欲の秋」は当てはまらないのです。しかしながら、シャンプー真っ最中のダンナ(獣医)の答えは非常に力強くシンプルなものでした。

「”繁殖”は太る」

 「繁殖」とは「繁殖牝馬」のこと。すなわち子馬を産ませる為に飼養しているメス馬です。馬の発情期は年一回、春。妊娠期間は約1年(330日)なので、春先に子馬を産んで、しばらくすると次の発情が来ます。よく考えると馬って産んですぐまた次の子仕込まれるんですねえ。御苦労さまだなあ。(←心の底から同情している)
 さて「メス馬の秋太り」ですが、ダンナの説明によると、春に生まれた子馬は秋に離乳するのだそうで、そのために母馬のエネルギー消費量ががっくり減り、少しばかり太るのではないか、とのこと。人間も断乳後は少し(人によっては盛大に)太ったりしますからね。加えて、ほとんどの母馬は春に受胎もしているのでお腹もちょうど目立ってくる頃。十分納得できるこの2つの理由により、私は「疲労回復に効果絶大」なアンモニア風呂(うそ)の中で満足げに頷くことができたのでした。

「秋は子供を産んだメス馬の太る時期である」

 これで声高に「天高く馬肥ゆる秋っっっ!」と断言できますね。しかしだからと言って「子供を産んだメス人間」の皆さん!「なあんだ、秋はやっぱり仕方ないのねえ」と安心しないように。馬は生理的な理由で太るのです。アナタとは違います。収穫したばかりのおいしいジャガイモをいっぱい貰ったからといって、バターをつけて胸焼けがするまで食べたりしていると、あっという間に「ジーパン→両サイドゴム→ウエスト総ゴム」と転落の一途を辿ってしまいます。女の人生、いたるところに落とし穴。気をつけましょう、自分。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第58回(00.9.24)

 皆様こんにちは。ATSUYOX(←改名?)です。特技は受胎と胃潰瘍。今日の常識へようこそ。

 いえね、私が悪いんです。自業自得なんです。それは分かってます。でもね、人間って頭で「こうしなければならない」と分かっていても、それをそのまま行動に反映させるにはあまりに肥大し過ぎた複雑な大脳皮質を持っている生き物なもんでね。ほら、よく言うでしょう、「わかっちゃいるのにやめられない」と。良く考えると賢いんだかバカなんだかよくわからない生き物ですよね、人間。少なくとも他の動物は自分に不利なことはしないですからね。

 こりゃ言い訳ですけどね、小さい魚しか釣れないんですよね、最近の私。小さい魚ってどうやって食べるかといえば、こりゃもう「カラアゲ」「フライ」「天ぷら」ひねって「南蛮漬け」とどうしたって油方面に偏るわけですね。必然的に「ビールビール」となるのもこりゃいたしかたのないことでして。

 いくらブラックコーヒーをカフェオレに代えても、いくら薬を漫然とおまじない的に使用していても、本人に摂生の気持ちがなければ特に内臓関係の病気というのは、そりゃあもうてきめんに治りにくくなっちゃうわけですよ。手足の骨折なら、その部分をしばらく使わない、という最善の方法が取れますが、内臓は「使わないでいる」ということが不可能ですからね。ま、もちろん消化管の病変であれば「絶食」というテもありますが。ビ−ル飲んで絶食したら余計胃に悪いですしね。(←何か根本的に間違えている)

 我々新人類世代にとって、自分の年を「的確に」認識する、というのは非常に難しいもんです。誰しも感じていることでしょうが、我々の世代以降は実年齢より格段に精神年令低くなっちゃってるんですよね。私はもうすぐ36ですが、正直、冗談のネタぐらいにしか思っていません。すなわち年相応の行動、生活、というのが私にはきちんと理解出来ていないわけで、年々ひどくなる一方のそのしっぺ返しとして、「上腹部が常に痛い」という状況に陥ってしまいました。とりあえず今世紀末まで禁酒という目標を掲げ、泣く泣くワイン抜きでヤギのチーズをなめたりしております。

「人間、痛い目に遭わないとわからない」

 どんな人間でも「痛み」の前にはただただひれ伏し、ひたすら懺悔するしかありません。痛みのある間はとにかく自分の不摂生を反省し、これからは心を入れ替えて謙虚におとなしく生活します、酒は飲み会の時だけにします、釣りの仕掛けをムヤミに買ったりしません、と2割増しで自分に誓ったりします。こういった時の人間というのは本当に「迷える小羊」のように震え、怖れ、受容しているかのように見えますが、しかし。

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」

 どんな人間にも「忘却機能」が備わっています。私のは特別強力です。去年の今頃も同じ症状で、同じように痛みに苦しみ、同じように懺悔し、同じように「年内禁酒」と誓っていたのをたった今思い出しました。やー「忘却機能」ってホントにすごいんだなあ。

 しかし「痛くないのに節制する」というのはとても難しいですね。痛くない慢性病の方が、実はタチ悪いのかもしれません。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第59回(00.10.2)

 皆様こんにちは。わがジャイアンツも劇的なゲームでリーグ優勝を決め、数々の話題で盛り上がったオリンピックも閉幕。あとは日本シリーズで「スポーツの秋」も終了ですね。今日の常識へようこそ。

 先日実家に帰った時に、妹に子供を預けてドームに野球を観に行きましたが、その時に妹が、実家にあった「長女が赤ん坊の時のビデオ」を子供達に見せたそうです。子供達の感想は「お母さんの声がやさしい」というものでした。

「母親も声変わりをする」

 わりと知られていることだと思います。ひとり目の赤ん坊を育てている時、母親は実に幸せそうな、優しい声をしているものです。私も後でそのビデオを観ましたが、確かに別人でした。何かが取り憑いていたのでしょう。そのうち、子供が大きくなり、下の子が生まれたりして余裕が無くなってくると憑き物も落ち、「聖母」から一気に「鬼」へと進化します。命令口調や怒鳴り声もサマになり、こうなって初めて、ある意味「一人前の母親」と言えるのかもしれません。子供達は「お母さんあのままだったらよかったのに」などとイヤミを言いますが、「それならアンタたちもかわいい子供でいてくれないとねえ」と当然の反論をしました。最近などは子供達が夢中で遊んでいるところに「何してるの?」と声をかけると声を揃えて平然と、「息してるの」などとホザくんですからね。末っ子に至っては、叱られると「へんなかお!」と下の子特有の低レベル反則技で対抗します。まあ、人間である証拠なのでしょうが、こっちは真剣にムカっときます。中学生くらいになったら一体どんなナマイキを言うのでしょうか?その時にきっちり言い返せるようにシナリオ作っとかないとね。

 さて、「スポーツの秋」の次は当然「読書の秋」になるわけですが、今日は「お役立ち本」の話など、ひとつ。といっても「安くて簡単 150円おかず」とか「暮らしの道具 ピカイチ事典」といったものではありません。

 御存じの方も多いでしょうが、松谷みよこさんの代表作に「ちいさいモモちゃん」シリーズがあります。松谷さんには2人のお嬢さんがいて、御主人とは下のお嬢さんが生まれてから離婚されました。その頃のことを児童文学として書いたものなのですが、私は子供の頃この本が大好きでした。絵本や童話の中に出てくる食べ物というのは実に美味しそうに思えるものですが、この本も例にもれず「とろとろのシチュー」や「おかゆに卵の黄身だけをぽん、と落として」とか「厚切りの食パンの耳を落として、真っ白なふくふくのところにアンズジャムを塗って」など、匂いがしてきそうな表現で食べ物が描かれていました。また子供の言動や母親の心理などはさすがに現実を描いているだけあって、子供心に響くものがあったのだと思います。そしてもうひとつ。「おわかれ」という表現で離婚をきっちり書いていること。きれいごとだけではない、「大人の事情」がこの本をきりっと引き締めるスパイスとなっているのだと思います。

 そんなわけで、長女が4才になる頃、このシリーズを全6巻揃えました。子供に読ませたい半分、自分がもう一度読みたい半分です。大人になり妻になり母になった私の心にこの本は大音響で響き渡りました。赤ん坊が運んでくれる幸せ。何気ない日常のエピソード。病弱な母親の苦労。家に帰ってこない夫。親の事などおかまいなしに育っていく子供。そして晴れ晴れとした決断。あくまで「児童文学」としての形を崩さず、作者が母としてだけではなく、人間として悩み、苦しみ、成長していく様が、淡々としていながらも優しく感性豊かな表現を通じてドキュメンタリーのように読み取れる素晴らしい作品でした。

 さて、この本に思わぬ効用があるのに気付いたのは長女が小学生になってからでした。

「りこんって何?」

長女の友達にもひとり親家庭は多く、この質問は当然でしょう。私の説明を聞くと長女は、

「じゃあ、モモちゃんちと一緒だ」

と意を得たように頷きました。「ちいさいモモちゃん」における離婚は、2人の生き方が噛み合わず「おわかれ」は仕方のないことなのだ、という風に描かれています。こういう事情を説明するのは難しいものですが、この本は子供に「世の中にはどうしようもないこともある」ということ、さらに「離婚は必ずしも”不幸”ではない」ということを現実だけが持つずっしりとした重量感によって解らせてくれる力があるのだと思います。

 ちなみに「ちいさいモモちゃん」では「パパとママの生き方のくい違い」が実に傑作な表現で描かれています。まだ読んだことのない方は、ぜひ御一読ください。もちろん主婦の味方、図書館で。

「今年の秋はママも子供も『ちいさいモモちゃん』を読もう」

 ずいぶん前ですが、長女に「もしお父さんとお母さんが”おわかれ”したらどうする?」と聞いたら「それはしかたないとおもう」という答えが返ってきました。親に似てどうにも醒めた子供でして。いえ、今のところ夫婦仲は問題ないと思いますが(←油断)。
それでは今日はこのへんで。次回をお楽しみに。


第60回(00.10.10)

 皆様こんにちは。秋も深まりましたが、厚別川のサケはまだ帰ってきません。魚類の分際で「帰宅拒否症」というヤツでしょうか?エラ呼吸してるクセに「結婚しないかもしれない症候群」なのでしょうか?ま、結婚は本人の意志に任せるとして、とりあえず帰ってきて欲しいものです。今日の常識へようこそ。

 先日車で接触事故を起こしました。たぶん世界中で一番多いパターンであろう、バック最中の事故です。はい、後方を全く見ていませんでした。事故現場が厚賀農協の駐車場という非常にマニアックなところだったので、相手はやはり近所の方でした。ひとしきりペコペコした後、相手の知り合いの自動車修理工場の方に来ていただき修理の見積りをしてもらいました。バンパー交換15万円也ということで保険を使うことに決め、事故証明が必要になるので空腹でぐったりした子供4人(土曜日の昼食前だった)を乗せたまま駐在所に。イナカの駐在さんは留守がちで、本署から警官を呼ぶ、というので一旦家に帰り、30分後にあらためて駐在所に出向きました。事故の報告の最中に、警察の人が「じゃ、安藤さんの車も見せて下さい」と言ったので3人でウチのタウンエースの後ろに回り、バンパーに注目しました。 

「・・・・」
「・・・・」
「・・・・ど、どの傷でしょう?」

いやー、あれほど気まずかったのは獣医師時代、後肢骨折のパグにギプスをして返したところ飼い主の方に「折れてない方の足にギプスが付いてるんですけど・・・・」と指摘された時以来です。ワンボックス車ってとにかく死角が大きいもんで、まあ、人間こそ引っ掛けてないですが、見えないところにあったガードレールとか見えないところにあった鉄柱とか見えないところにあったダンナの診療車とか、結構ヤッてましたからねえ。ま、「バンパーに歴史あり」ってとこですか、はっはっは。

「バンパーはぶつけた時の為にある」

傷があって当たり前なんですよね?ね?

 とまあ大したことない事故でしたが今回は相手がいい方だったので本当に助かりました(そういえばパグの飼い主さんもいい方でした)。免許取りたての頃、父が「オマエ頼むからベンツとかBMWにはぶっつけてくれるなよ〜」と言っていたのを思い出します。なんでも父の経験上、特殊な職業の方が乗っておられることが多いそうで、事後処理でたいていハデに揉めるのだそうですね。皆さんも気をつけましょう。

 さて、今日は珍しく「役に立つかもしれない経験談」など。
 実は私、ここ2年程胃とは別の部分で闘病生活を送っておりました。完治は極めて困難、医者がサジを投げることもしばしばという根深い病、TMDです。そもそもこの業病に気付いたのはびしさんのHPがきっかけでした。彼もまたそのストレス多い職業柄かTMDを発病。日記(99年3月20日参照)に記されたそのくだりを読みながら、私は自分にも彼と同じ症状が現れているのに気付いたのです。

「口を開けたり閉めたりすると顎がぼりぼりと音を立てて鳴る」

 そう、御存じの方も多いでしょう、不治の病「顎関節症(TMD)」です。私の顎関節も口を開ける度に「ぽくっ」と音を立てていたのです。へえ、これってビョーキなんだあ、というわけでネット検索。それによると、音自体はそれほど問題ではないが、顎が変位していて痛みを伴う、あるいは口が開きにくいなどの場合は治療が必要だとのこと。確かに当時の私は「チキンフィレサンドが食べにくい」という程度の不都合を感じていました。
 そんな訳でさっそくネットで知った自己診断の方法を試してみました。鏡の前で、イーをしつつ口を開いていきます。これで歯の噛み合わせを基準に、顎がまっすぐおりるかどうかチェックするのです。

「うわー、ま、曲がってるぅぅー」(←ムンクの「叫び」のポーズで)

驚いたことに、私の下顎はなんのためらいもなく斜めに下りていき、「ぽくっ」を音を立てて今度は反対方向へ下りていきました。(イメージのわかない方はこちらをご覧下さい)小さい頃から姿勢が悪く、母に「背骨が曲がるよっ」と脅かされて育った私は「骨が曲がる」ということに潜在的な恐怖があるのでしょう。ちょうど「く」の字をなぞるような異常な動線を描く自分の顎になんとも言えない嫌悪感と危機感を抱きました。

「放っておくとシリツが必要になる」などの記述にさらなる焦りを感じ「医者医者医者あ〜」と叫んでいたわりにはまるまる1年放っておりましたが、末っ子が保育所に入った今年の春から、車で20分ほどのところにある歯医者で待望の治療を始めました。でかいノギスに挟まれたり、歯型を取られたり、マウスピースをくわえたりしながら、4ヶ月ほどでハッキリと曲がっていた顎がまっすぐ下りるようになり、大変珍しいという「完治」の御墨付きをいただきました。なんだか褒められたみたいで嬉しかったです。

「顎が鳴るのはビョーキかも知れない」

あなたも鏡の前で一度チェックしてみましょう。骨格のゆがみは万病の素、なのかどうかはわかりませんが、ビッグマックやモスフレッシュバーガーを分解して食べるのはちょっとみっともないですしね。ちなみに治療は「口腔外科」ですが、今この病気は多いので歯医者さんでも診るところが増えているようです。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第61回(00.10.18)

 皆様こんにちは。前回「帰宅拒否症」とか「結婚しないかもしれない症候群」などと散々ケナした厚別川出身のサケですが、あれからすぐに大挙して帰ってきました。帰りたてのサケは淡水に体を慣らす為しばらく河口付近に留まっているのですが、川にうようよとサケの群れが泳いでいる様は実に壮観でありました。しかしだからといって釣れるとは限らないのがサケ釣りの面白いところです。地元の強みで毎日のように偵察に行き、何度か竿も出しましたが、私が今までに釣ったサケは(腰に手を当て胸を張って)0匹です。ま、この件に関してはちょっと文章が長くなりそうなので、エッセイとして近々書くことにいたしましょう。今日の常識へようこそ。

 相変わらず釣り三昧な生活をしておりますが、さすがに北海道は寒くなってきました。特に釣りは海でするものなので余計に寒いのですね。ハイネックにフリースを重ね、首にタオルを巻き、ナイロンのジャケットのボタンを全部閉め、毛糸の帽子を深ーく深ーく被り、手には釣り用の手袋+軍手。こんないでたちで漁港のテトラ周りにブラーを落とし、20センチくらいの小さいアブラコやカジカを釣っておりますと時折漁船が側を通過します。先日そのエンジン音に振り返って、漁師さんの服装に眼球が眼窩から逸脱しそうな位ぶったまげてしまいました。ばびょーん!「シャツ一枚」(←声、裏返ってます)です。かろうじて長袖ですが、それをひじのあたりまで捲りあげ、船の舳先で腕組みをしつつ仁王立ち。その勇姿に冷たい風をびうびうと浴びながら漁に出かけて行きます。沖はもっと寒いだろうに、あの人たちの体温調節機能には一体どんな秘密が?ま、私は特別に寒がりなのですが、それにしても、です。 

「北の漁師はレプリカントである」

間違いありません。もともとレプリカントなのか、徐々にレプリカント化していくのかは不明です。もともと人間だったはずなのに、いつしかレプリカントになってしまう例としては、熱い鍋を平気でむんずと掴んでしまう「主婦」が報告されています。ウチの母によるとあれは「気合い」だそうですが、私などはまだまだ「なべつかみ」という軟弱なものを愛用しておりますからかわいいもんですな、ははは。(←誰も言ってくれないので自己申告)

 さて、ついでなので今日は魚のお話など。御存じの方も多いでしょうが、ヤマメという大変美味しい渓流魚がいます。刺身によし。塩焼きによし。唐揚げなどはもうこの世で一番美味しい揚げ物ではないか、と思うくらいよし。この魚、北海道ではヤマベと言いまして、水のきれいな川の上流〜中流に住んでいる非常に警戒心の強い魚です。札幌などの都市部ではほとんどが放流魚で、しかも解禁から1週間で全部釣られてしまうのだそうですが、自然だらけのこの辺ではぼーっとした天然ヤマベが結構釣れ、我が家から車で30分くらいの「ダーリンと私の秘密のポイント。」に行けば日によって入れぐいだったりして、北海道の懐の深さを思う存分味わっております。しかし、私の住んでいる地域にはいくつか川がありますが、見た目は同じようにきれいな川なのにヤマベのいる川といない川とがはっきりしていて、なぜだろう?と思っておりました。先日漁港で会ったキ印付き釣り人(目の色が違うのですぐわかる)のおじさんの話でその謎が氷解し、さらに考えるところあったのでそのあたりを少々。

 水の澄んだ上流で生を受けたヤマベは、成長しながら少しずつ下流に移動し、その一部は海に降りて大型(5〜60センチ)の「サクラマス」という魚になります。このサクラマスこそがヤマベの成熟した姿でして、この魚、サケと同じくまた川に遡上してから産卵するのだそうです。ですから、ここが大事なのですが、川の途中に「堰堤」があると、それだけでヤマベの自然繁殖アウト。人間が自分の都合で川に段差を作った時点で、その川に住む天然のヤマベは絶滅してしまう、とこういうわけなんだそうで。そういえば近くの「ヤマベのいない川」にはいくつか「砂防ダム」があったのですね。サケはちょっとした滝くらいなら上る、と聞きましたが、その川にはサケもいないのです。やはり人造構築物はダメなのでしょうか。

 調べてみれば海と川を行ったり来たりする回りくどい生態の魚は結構いるようで、数年前に長良川の河口堰がどうのこうのでハデにモメていたのを「そういうワケであったか」とあくまで外野の立場で理解し、ああホントに

「人間は地球のガン細胞」

 なんだなあ、と思った次第。人間が何かを必要とするたびに、確実に何種類かの生き物が滅びてしまうのです。いずれにせよ、自分の楽しみの為に魚を釣り、ちょっと小さめでも「1度釣られた魚は結局死んじゃうから」とリリースせず食べてしまう私のような人間には何も言えませんが、どんなに徹底したエコロジストでも私と同じく「ガン細胞」であるのは間違いないとも思います。こんなことを知っていたからと言って、考えたからと言って偉いというわけでもないのでした。
 しかし趣味というのは確かに新しい世界への扉ですね。これでまた一層「物知り」になってしまうなあ。そうそう、キ印おじさんによれば「札幌と旭川の釣り人にポイントを教えてはイケナイ」という常識があるそうです。なんでも魚より多い人数でやってきては根こそぎ釣りあげていっちゃうそうで。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。

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