武田神社 山梨県甲府市古府中町2611 |
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武田神社は、信虎、信玄、勝頼の武田家三代の館であった「つつじヶ崎館」の跡地に大正8年(1919年)に建てられた。 武田信玄公を祭神として祀られ、国の史跡に指定されている。 |
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武田信玄ゆかりの寺 円光寺 甲府市善光寺3−36−1 |
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円光寺は、永禄元年(1558年)、川中島の合戦で信州の善光寺が戦火によって焼失することを恐れた信玄が、本尊を甲府に移し、自ら開基となり始まったお寺である。 現在の建物は、江戸時代中期に再建されたもので、東日本最大の木造建築物である。 国の重要文化財に指定されている。 |
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武田信玄(1521〜1573) | ||||||||
武田信虎の嫡男で、天文10年(1541年)父を駿河に追放し家督を相続する。信玄は風林火山の旗を掲げ、武田騎馬軍団を率い、勢力を拡大。信濃を巡って川中島で上杉謙信(長尾影虎)と5回も戦い、信玄と謙信の一騎打ちもあったというが、決着はつかなかった。 永禄11年(1570年)には徳川家康と同盟を組み駿河の今川氏真を攻め滅ぼす。 元亀3年(1572年)12月、信玄を恐れた家康、信長は同盟を破棄、三方原で戦いを交え、信玄は家康、信長の連合軍を破ったが、翌年病に倒れ、信州の駒場城で息を引き取った。 その後の家督は四男の勝頼が相続。天正3年(1575年)信玄の遺志を継ぎ、西上の兵を起こすが、三河の長篠で家康、信長連合軍の銃の連射を浴び、武田家は滅亡してしまう。 信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と詠み、城や石垣はいっさい持たず、石垣や城よりも領民を信頼していたという。天文16年に「甲州法度」を制定し、交通制度の整備や城下町の建設なども積極的に行っていた。また、文学的な才能もあり、文武両道を備えた名将であった。 |
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1997.08.04 |
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