とき/1997年7月26日(土曜日)午後1時30分〜4時 ところ/北海道新聞帯広支社2階大会議室(帯広市西4条南9丁目) 参加費/1,000円(高校生以下無料)
主催/とかち非核・平和フェスティバル実行委員会
後援/ |
第1部 |
第2部 |
●被爆の実相報告
本日、ここにわたしをご招待くださったみなさまに、感謝いたします。私は、ここでみなさんにお話しをする機会を与えられまして大変光栄に思っています。
1945年8月6日、人類史上はじめて広島に原子爆弾が投下され、一発の爆弾で一瞬にして十四、五万の命が、4、5千度の炎の中で焼かれました。鉄が溶ける温度が1,500度だそうですから、あらゆる人、物が焼かれ、突然無抵抗な非力なもの達を無差別に、無分別に焼き尽くしました。私の愛した、お父さん、お母さん、お兄さん、おともだち、すべてを失った悲しみは今もなお消えることはありません。人間の歴史の中でこんなおそろしいことが起こったのも戦争という人間の営みのもとで、人間の意志と手によって引き起こされたことであっただけにおそろしいことです。遠い過去の出来事ではありません。当時11歳のわたしは、爆心地より2.2km離れた学校のグランドに立って、無心に空を仰いで機影を追っていました。その時、突然光と熱が何千本の針の束となって私の体を突き刺して、ああーもうだめなのか。死ぬのだ。どのくらいの時間が経ったか私にはわからないのですが気が付いた時には立っていた地点よりも5、6メートル爆風で飛ばされ、渡り廊下の下敷きになっていました。私は泣きながら這いずり出て、おともだちのところへいきました。みるみるまに私に顔はゴムまりのように腫れ、口の中まで火傷をして腫れ上がりました。声も出ません。手はワカメをぶらさげたように焼け、焼けた皮膚がぶらぶらと下がっていました。中からザクロの実のように赤く腫れ、下がった実が見えました。わたしはもう一歩も歩くことこはできませんでした。先生におんぶしていただき、夕方7時頃、避難場所にやっとの思いでたどり着きました。そこは、お寺の本堂で、ぎっしりと被災者がそこに倒れて放置されていました。みんなのうめき声と悪臭で、わたしはまたも意識を失いました。薬はなく、じゃがいもとかきゅうりの汁、キャベツの葉っぱなどで傷につけられそれが熱をとってくれとても気持ちが良いと思ったのが今でも記憶に残っています。原爆が投下される直前、仲良しのまさこちゃん達とわたしはお手玉遊びをしていました。非難場所へ行く途中、まさこちゃんのことが気がかりで、おんぶされていてもとてもとても本当に気がかりでしたが、後でわかったことですけど、まさこちゃんは爆風でセメント瓦が頭にささり、放射能をたくさん浴びながら、放射能とも知らずに死んでったまさこちゃん。まさこちゃんの分までわたしが訴えなければ生き残ったわたしにも..むことがありましたけれど、50年ぶりに私をおんぶして助けてくださった先生にお会いすることができました。それは、わたしの娘と一緒に、お会いすることが出来て、先生はもう本当に良かったね。っと一言あと、娘は先生にもう涙で何も語ることが出来ず、ただ原爆で何もかも失い、消えかけたお母さんの命から、私達二つの命が引きつがれた、この命を本当に宝です。大切にしてっと涙を流しながら先生にお礼を申し上げました。わたしはもう、この娘の言葉を聞いて、何もいらない、生きていてよかったと先生にお礼を述べました。人の命の大切さや、生きることの素晴らしさは、人間が人間として生きること、核兵器のない、安心して生存できる地球をつくるため、過去の過ちを悔いて、再び被爆者を作らないことが、人間として生きる証明だと思います。 本当に、原爆で亡くなった広島、長崎の人達、また核実験などで命を奪われた人たち、また苦しんでいる人たち、その人たちのためにどうかみんなで、..の核兵器がなくなるまでがんばりたいと思います。
●質疑応答
●全員合唱
青い空はの合唱 指導 帯広青年合唱団 |
●閉会挨拶 芳滝 仁(実行委員会代表委員・幕別町顕勝寺住職)
Peace Wave |