HLA帯広設立記念講演会 1996.11.18 北海道ホテル
『骨髄バンクの理解を求めて』
大谷貴子さん ‥‥ 全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長
皆さん、こんばんわ。十勝というまちに初めてきた訳では実はありません。スキー
に来たことがあります。それは今日、札幌からの列車の途中で駅名をずっと眺めて
おりまして、どこかいつか来たなぁ、しかし毎日毎日あちこちを動いているもので
すから、骨髄バンクのことで来たのか、何で来たのか考えられない。そして雪を見
た瞬間に思い出しました。こちらの方にスキーに来たのは、白血病でお母さんを亡
くしてしまったその子どもたちと一緒にスキーにやってきたのです。その子どもた
ちといろいろな話をしながら、移動中は飛行機に乗り、バスに乗り、いろいろなこ
とをしながらスキー場にたどり着き、そして夜になって彼女のボストンバッグから
はお母さんの写真が出てきました。そしてお部屋の中で外に向かって写真を立てか
け、お母さんも一緒にスキー場に来ているよということを表していた、そんな事を
今日思い出しながらやってまいりました。白血病や再生不良性貧血といわれる血液
の難病で苦しむ多くの患者さんたちが世の中にはいらっしゃいます。今日は、そう
いった患者さんたちを助けたいという皆さん方の熱い思いで、こういった骨髄バン
クの運動の輪を広げるということで、ここ帯広にもこういったことができるように
なりました。
今日、私は「骨髄バンクの理解を求めて」というテーマでお話をさせていただき
ます。私のプロフィールが書いてありますので、それを見ていただきますと、何故
私が骨髄バンク運動をしているのか、それだけでもう分かっていただけると思いま
す。私自身が白血病で、そして骨髄移植をしなければ助からないという状況に陥り、
その時に骨髄バンクが世の中にはなく、しかたなくというか本当に泣くような思い
で骨髄バンク運動に携わり始めました。それは発病したのが今からちょうど十年前
のことです。十年前といえばまだまだ白血病、骨髄移植という言葉すらもあまり知
られていない時でした。私の父などは、小さな医院を大阪で開業しておりますけれ
ども、父の知識の中では「白血病」イコール「死」で、ガンを告知するなんてもっ
ての外、という感覚だったようです。もちろん母も、白血病になったことを私に告
げるのはとてもためらいがあり、私の姉が私にすべてを告げてくれました。しかし、
姉に告げられたのは病名だけであって、病気を告知された訳ではないと思っていま
す。病気というのは、自分で自分に勉強して、そして白血病がどんな病気であるの
か、骨髄移植が何たるかということを勉強してやっと分かった、そんな感じでした。
私がなりました慢性骨髄性白血病は、ご記憶に新しいかと思いますけれどもお相撲
さんの蔵間さん、後はタレントさんでしたけれども、上手にダイエットされるなぁ
なんてと思っていると、白血病でした。彼も慢性骨髄性白血病で命を落としてしま
いましたが、私もそういった病気でした。
骨髄移植という治療法があるということを知ったのは、一筋の大きな希望の光だ
ったんです。私もテレビドラマなどで白血病は必ず死ぬと思っておりましたから、
一つでも生きる方法があるというのはとても嬉しいことでした。移植というからに
は、提供者が必要、提供者となりうる確率は兄弟姉妹からで四分の一という確率で
あるということも知りました。骨髄を提供すること、骨髄移植ということは後に笠
井先生がお話しをいただきますので詳しくは触れませんけれども、兄弟姉妹から提
供者を見いだすことができるんだということ、そこがぐらいまでは分かりました。
私はガンを告知してくれた姉がおりますので、きっと姉が私を助けれくれると信じ
ていたんです。最初のその検査をした時なんですけれども、十ccほどの採血で姉
が適合者かどうかとが分かるということを知ったとき、あまりにも簡単なので、簡
単過ぎてすごく恐かったのを覚えています。骨髄バンクに登録をするということも
十ccほどの採血で済みますからどうも簡単なんですけれども、私の運命がその十
ccの採血の結果で移植を受けることができるか、受けることができないかという
ことが決まるというのはとても恐いことだったんです。A型、B型、O型、AB型
と、四種類の赤血球の型がありますけれども、一方、白血球にはたくさんの型があ
り、それを合わすだけのことだったんですが、私はそんな気持ちでした。しかし最
初の検査、幸いにも姉との白血球の型が合っていると言われたので、父、母、姉は
手放しで喜んでいました。実は私だけがあまり喜んでいなかったんですね。移植を
受けたら八割の患者さんが助かりますと、私のその時の状態で、しかも兄弟から移
植を受けた場合、八割も助かりますと言われたんですけれども、すかさず「私は二
割に入ったらどうするの」と反論するような、そんな私だったんです。しかし、そ
れが大変贅沢なことで、ものすごいもったいない考え方だということに後々気づか
されました。まず、入院しておりますと多くの患者さんたちと知り合えます。一人
っ子の患者さんに出会ったとき、そして兄弟がいても提供者がいないという患者さ
んに出会ったとき、生きるチャンスがあるかないかということを考え始めました。
同じ医学の進歩の中に白血病になっており、兄弟がいるかいないか、提供者がいる
かかないかというその違いで人の運命が分かれてしまう、すごい悲しいことだと思
いました。二十年前、三十年前に白血病になっていたら、「今の人だったら助かっ
たのにね」っていう言葉がでるかもしれませんが、同じ医学の進歩の中に生きてい
るのに、医学とは関係のないところで人の運命が分かれる、そのことにようやく気
がつき始めていました。
私は多くの患者さんたちと知り合い始め、そしてある一人のそれこそ妹さんがい
たんですけれども、お兄ちゃんが白血球の型と合わない、「だから助けて下さい」
というほとんどの今までのお母さんやお父さんだったら、もうSOSを発すること
なく子どもたちの死を見ていたんですけれども、あるお母さんの立ち上がりから骨
髄バンク運動にもしかしたら第一歩、足を踏み入れたのかもしれないと今思ってい
ます。その患者さんのお母さんは、泣き寝入りという言葉はとても表現が悪いかも
しれませんが、提供者が家族にいないということ、じっとしておられませんでした。
週刊誌に「私の息子を助けて下さい」と叫ばれて、そしてその週刊誌の記事を見た
のがきっかけです。その週刊誌にはなんと、兄弟姉妹から提供者を見つけることが
出来なかったら、一万人に一人だという非常に低い確率であることを知りました。
一万人に一人しか自分と同じ型を持つ提供者がいないんだということに気が付いた
とき、自分に置き換えてみますと、一万人の友達は絶対にいないなと思いました。
そういった多くの患者さんたちが世の中にいるということも、それをきっかけに知
ってしまったわけです。週刊誌でSOSを求めますと、例えば白血病を薬や骨髄移
植などで治したのではなく、民間療法やはたまた宗教などで白血病が治りましたと
いうようなご丁寧な情報を入れて下さったりする人がいるんですけれども、その中
で、「アメリカで骨髄バンクができたらしいよ」というすばらしい情報を入れてく
れた人がいたんです。まず骨髄バンクというものから私たちは勉強しなければなら
なかったですが、多分今日お集まりの皆さん方は骨髄バンクというものに興味を示
して下さって座っていただいていると思うのですが、当時、骨髄バンクがアメリカ
で出きたらしいと言われても、まったく分かりませんでした。どなたにでも骨髄液
を提供してもいいよという人の善意の心と、その人自身の白血球の型をコンピュー
タに入れておく。すると当然患者さんも白血球の型を持っていますから、必要なら
コンピュータにかけて、そして検索をして提供していただくという、私から見れば
簡単なすごくシンプルなシステムだなと思ったので、日本のどこかに骨髄バンクは
あると思っていました。骨髄バンクを探してあげることが多くの患者さんへの助け
になるのなら、と私は自分のガンを忘れるかのようにしてあちこち動き始めていま
した。
しかし大勢の患者さんたちと出会っていきますと、自分が白血病を抱えながらそ
のような運動をしていくということがとても無理なことではないかなと思い、よう
やく骨髄移植をやろうと決心をしたんです。移植を受けてから元気になって、多く
の患者さんたちを助けてあげてもいいな、そのように思っていたんですね。で、私
はようやく骨髄移植の決心をして大阪の病院を訪ねました。姉との白血球の型を持
っていって、すぐにでも骨髄移植をやって欲しいというような話をしたんですが、
なんとその日、検査が間違っていたというか、まったく姉と型が合っていないとい
うことが分かりました。先生から大阪弁で「あれ、お姉さんと合うてへんよ」と言
われた瞬間に、本当に奈落の底に突き落とされたような、実はその後の記憶が全然
ないんですけれども、かろうじて先生に言った言葉が「先生、一部適合ですか」っ
て、一生懸命笑みを作りながら言いました。「大谷さん、一部適合なんて日本語や
あらへん。適合ていうのは、合うとるか合うとらんか二つに一つや。こんな状態で
お姉さんと骨髄移植するんやったら、あんた身の回りの整理してからおいで」。そ
う言われた後はどのようにして実家に帰ったのか覚えていません。それからは泣き
叫ぶ毎日が始まりました。兄弟姉妹から提供者がいないと思うと、もう一万人に一
人を探さなければならないんです。他の患者さんを助けであげるなんてもう言って
いられません。とにかく自分の提供者を探すために走り回りました。そして、本当
に真剣に骨髄バンクというものを日本の中で探し始め、その骨髄バンクがもしあれ
ば、またそれも一筋の希望の光です。しかしながら、骨髄バンクは日本にまだない
ということをあるお医者さんから知らされました。私はその先生が骨髄バンクがな
いということをおっしゃった時、本当にその先生が悪いわけでも何でもないのに、
いきなりその先生の白衣の胸ぐらをぐっとつかんで、「私を見殺しにするんですか」
と泣き叫んでいました。私の姉がそこにおりまして、「骨髄バンクがないのはこの
先生のせいやない。まぁこうなったらしゃーない、あんたが作ったらいいやん」、
そんなことを言ったんです。「私の命には間にあわへん」、大反論しましたけれど
も、「そうやね、あんたの命には間にあわへんかもしれん。でもね、年間六千人も
の人が新たに発病する白血病、小児ガンの半分が白血病。だったらあんたが骨髄バ
ンクを作る運動をしといたら、多くの人たちがあんたが死んだ後に助かるかもしれ
へんよ。そしたら、あんたも生きてた値打ちがあるやん」。私は正直言って「生き
てた値打ちはいらないから自分さえ助かったら」と思いました。しかし、そんなこ
とはもう言ってられません、本当に自分の命を助けるためにも骨髄バンクを作らな
ければならないという状況まで追い込まれました。姉は泣きながら死んでいくその
妹を見るのが嫌で、何か大きな目標をもって生きることによって、その目標を定め
て、人にお願いをすること、人から知恵を授かることによって笑いのある日もある
だろうし、涙を拭く日もあるだろうから、そう思ってそんな励ましの言葉を言って
くれたとあとでは教えてくれました。確かに姉の言うとおり、本当に人間というも
のは前向きになりますといろんな人がいろんな手をさしのべて下さっていることが
よく分かります。
白血球の型というものは非常に人種間に差がある、そして日本の中でも地域間に
差があるということがわかりました。「関西地方で私の白血球の型を探した方がい
いだろう」、そう思い大阪で白血球の型の専門家を訪ねた時に、私は一つ道が開け
ました。姉との白血球の型は合っていないけれども、両親のどっちかと合っている
かもしれないと教えられたんです。親子の間で白血球の型が合うというのは非常に
珍しいんですね。それは、父親と母親は当然他人ですから、その夫婦の間が同じ白
血球の型を持っていないと子供と同じ白血球の型を持つことはありえないと言われ
ています。両親と私たちの間で血がつながってなくてもいい、他人であってもいい
何でもいい、と思いすぐに採血の検査に行きました。父などは、「**学者の端く
れや、お前らはほんまにわしらの子やから合うとるはずないって、やる必要ない」
と言って採血検査を拒みましたけれども、無理やり採血をしてもらいました。十日
後採血結果が出るというので、私はその当時東京にいたんですが、東京から大阪へ
帰って参りました。でも、蔵間さんが急性転化で亡くなられたように、急性転化を
起こされてから二十一日間で亡くなられたように、私も体の中は急性転化というと
てもとても病状が重い状態になっていました。もう起きあがることもできず、当然
病院に検査結果を見に行くことももうできませんでした。しかし母が検査結果を見
に行き、それはとてもいい知らせを持って帰ってきたんです。「私と合うてたよ」
と母が玄関で叫んでくれ、そして私は骨髄移植を受けられるかもしれないという幸
運に恵まれるということが分かりました。両親と子供とは合う確率はないと言われ
ていたんですが、その父と母が同じ白血球の型を持ったもの同士がすごいご縁で結
婚していて、そして私が生まれたものですから、ラッキーにもわが家の家族関係も
証明され、そして母からの骨髄移植を受けることになりました。すぐに骨髄移植の
専門病院もまた探して、名古屋に私は移植を受けに行きました。京都から名古屋に
出かけていったわけです。その後、多くの先生方や看護婦さんたちの治療の甲斐で、
私は本当にぎりぎりのところで母から骨髄移植を受けることができました。母と私
はA型やB型という赤血球の型が違いましたから、母から八百七十ccの骨髄液が
出たんですが、私には必要な部分だけを点滴でもらうという、本当にいとも簡単な
骨髄移植で命がよみがえりました。しかも、血液型は退院する時にはA型からB型
に変わって、まさに起死回生という言葉がぴったりかもしれません。母からの骨髄
液がこの腕の中から入って体の中にきちんと戻って、私はB型で今生きています。
後々、骨髄提供の話はありますし、実際に骨髄の提供をして下さった人がこの場に
出て下さいますので、提供するということは生きている間に命を与えるとものだと
いうことをご理解いただけると思いますが、母も私への骨髄提供の翌日には退院し、
その翌日にはもう自転車に乗っているくらい元気な提供者でした。
私の方は退院後、すぐに骨髄バンク運動を本格的に始めました。一人っ子で闘病
していた患者さんが亡くなったり、多くの患者さんたちが亡くなっていくのを見て、
いてもたってもいられない、私は骨髄バンク運動に本格的に乗り出しました。それ
は退院から四ヶ月ほど経ってからのことでしたが、その時に多くの人たちがこんな
にいろんな形で手をさしのべて下さるのだということを知ったんです。「骨髄バン
ク運動をやりたい」といって初日に新聞に載せてもらった時に、忘れもしません、
八十八人の人がお電話を下さいました。骨髄バンクに登録してもいいという人から、
寄付を持っていってもいいという人、それから私が忙しそうだからご飯を食べてい
ないでしょと言ってお弁当を持ってきてくれた人。本当にいろんな人がいろんな手
を差し伸べて下さって、骨髄バンク運動を本格的に始めてから一年二ヶ月後に、民
間の骨髄バンクでしたけれども「東海骨髄バンク」というものを設立することがで
きました。東海骨髄バンクで、目の前にいる患者さんが一人、一人と命がよみがえ
っていくのを目の当たりに見たとき、本当に毎回感動していました。しかし、大き
な組織でやっていかなければやはり信頼性にも乏しいし、経済的にも大変です。あ
ちこちでこのようなシンポジウムをしたり、またあちこちで報道に載せてもらった
り、署名活動をしたり、国会議員さんにお願いに行ったり、厚生省に陳情に行った
りしている間に、「九州骨髄バンク」「北海道骨髄バンク」とどんどん民間の骨髄
バンクがいろんな人の手で立ち上がり始めていました。そして、民間の骨髄バンク
「東海骨髄バンク」から遅れること三年で、ちょうど今から五年前ですけれども、
ようやく「日本骨髄バンク」がこの世に誕生いたしました。その陰には多くの人た
ちが自分にできる範囲ことを一生懸命手を差し延べて下さって日本骨髄バンクの設
立となったわけです。お陰様で日本骨髄バンクが出来て五年経ちました。
しかし、この間にも多くの患者さんが提供者を待たずして亡くなっていきました
が、でも十年前には多くの患者さんたちが亡くなっていって小学生になれない子供
のランドセルが残ってしまうというような、そんなそんな悲しいことがありました
けれども、今では骨髄移植を骨髄バンクから受けて命をもらった方が九百十二人も
いらっしゃる時代になりました。間もなく一千人になるわけですけれども、一人の
命は地球より本当に重いと思っておりますが、一千人の命、どれだけ貴重でどれだ
けすらばしいものかということ、いろいろなところで体験させていただいています。
例えば、先ほど申しましたように十年前ですとお仏壇の所に行きますと、ピカピカ
のランドセルが置いてあったりするんですね。とても悲しく思いました。しかし、
この頃四月になりますとたくさんお写真をいただくんです。実はみんなかわいいん
ですね、もちろん抗ガン剤で髪が抜けてしまっているからカツラでしょうけれども、
かわいい子供用のカツラをつけてもらって、両手いっぱい広げて、その後ろには平
成何年度入学式って書いてあるんですね。そのして添えられてお手紙には、「骨髄
バンクを通じて命をいただきました。そして自分の子供は小学校に入学することが
できました。入学式に間に合いました」というかわいいかわいいお嬢さんのお母さ
んからの手紙であったり、また、ピカピカの背広姿で「新入社員になりました」っ
ていうお写真をいただいたり、そしてこの十二月の二十三日には骨髄バンクから命
をもらった患者さんが結婚をされます。その患者さんは高校生の時に発病いたしま
した。本人は病名も何も知りません。主治医の先生が骨髄バンクこと、とても理解
のある先生だったので、一生懸命骨髄バンクから提供者を探すよう努力されました。
そしてその後、骨髄バンクから提供者が見つかった時、ガンを告知し、そして貴い
方から命をいただくことをきちんと説明し、そしてつらい骨髄移植の治療にも彼女
は耐えて元気になったわけです。先生は、骨髄をいただいたその提供者の方、そし
てその間、例えば輸送の時に飛行機やタクシーやいろんな方にご援助いただいた訳
ですけれども、それぞれの方に先生はお礼状を書きました。「必ず助けてみせます」
と先生は書いておられました。その患者さんは本当に助かって、今年の春くらいで
しょうか、知り合った素敵な男性とこの十二月の二十三日に結婚式を挙げられます。
私と主治医の先生、喜んで参加させていただきますけれども、一人の命がよみがえ
るということは、一人の家族、そこの家族全員の人生がよみがえって、そしてまた
新たな家庭が作られる、そしてその新たな家庭がまた喜びに包まれる、そんなこと
を学ばせていただけましたし、そんなことを私が知って本当に骨髄バンク運動をや
っていてつくづく良かったと思う最近の出来事でした。
そんな嬉しい出来事がどんどん続くような時代になりました。そして、いろんな
方々がいろんな協力をして下さる時代になったいうふうと思っています。もちろん、
小さなお子さんが自分のおこずかいを両手に握りしめて、私たちが募金活動をして
いるとそこにチャリンとこう入れてくれる子もいます。かと思えば、いろいろなご
企業さんでご協賛をいただいたり、そんなこともして下さる会社も大勢出てくるわ
けです。今日は一人の芸能人の話をちょっと最後にさせていただきたいなぁと思っ
てます。このCDジャケットと同じなんですけれども、これを見てお若い方は「あ
っ、X−JAPPANだ」っていうふうに分かるかもしれません。しかし私は、X
−JAPPANなるものをもうこの年ですから全然知りませんでした。そしてX−
JAPPANの音楽を聞かされた時というか、聞いてしまった時、「へぇ、こんな
ものが音楽なのか」とか、ごめんなさいね、X−JAPPANのファンの方がいらっ
しゃったら。もう「うるさくてうるさくてたまんない」と思ったんですが、「メイ
ク ア ウイッシュ」という、子供たちの願いをかなえるというシステムが日本の
中にはあります、まぁ、世界の中にある訳ですけれども。そこで一人の白血病に寝
た患者さんがいます、「X−JAPPANのヒデに会いたい」、「闘病していて何
も出来ないから、少なくともヒデさんに会いたい」という願いを「メイク ア ウ
イッシュ」に手紙を出しました。そうしましたら、ヒデさんは「じゃぁ、自ら」と
いうことでお見舞いに行ったり、骨髄バンクのことを知って登録に行ってくれまし
た。「僕は言葉では何も説明できないから、行動に移すよ」と言って、バンドのメ
ンバーたちと登録センターに行ってくれました。バンドのメンバーたちも熱心にビ
デオを見て、登録をしてくれたと後で聞きました。そしてそれだけに留まらず、彼
は登録するのは自分一人のことだけで、でも、もっと多くの人に協力を得られるか
もしれない。でも、登録をするということは、それは理解を示した上での最後のこ
とです。そして二十歳から五十歳までの登録ですから、年齢の問題で登録できない
人も大勢いる、自分のファンなどはもっと若いし。ということで、「じゃ、募金活
動に協力しまししょう」っていうことで、実はこれはCDではなくコンドームなん
ですね。CDのジャケットと同じものを使い、ここには「日本骨髄バンクチャリティ
商品」とあります。これ実は七百円なんですけれども、七百円の五パーセント、三
十五円が骨髄バンクに自動的に寄付されるようになっております。これはセブンイ
レブンとイトウヨーカドーで売っているそうなんですけれども、実は私、先程ちょっ
と裏で待っている時にですね、計算してみましてた。三十五円入ってくるんですね、
一個売れれば。そして先ほどちょっとスタッフの方に急いで買ってきてもらいまし
たが、とりあえず三十五円がまた帰ってくる訳です。一ヶ月に五個売れたとします、
そうすると百七十五円なんですね。十二ヶ月と、ずっと計算していきまして、セブ
ンイレブンは日本の中で七千店舗あるそうです。計算しますと、計算間違ってたら
ご免なさい、電卓がなかったんですが、一千四百七十万円というお金が入ってくる
計算なんですね、三十五円でも。まぁ、使われる方も大勢いらっしゃるそうですね、
ぜひ使われる方はセブンイレブンかイトウヨーカドーへ行って買ってきて欲しいな
と思うのですけれども、そんな協力をヒデがしてくれているということをちょっと
お知らせをしたいなと思いました。
いろんな協力の方法があるということをつくづく、特に若い人から教えていただ
くわけです。私どもは「骨髄バンクに登録して下さい」というのが元々のもちろん
基本ラインかもしれません。しかし、私は登録して下さいということは言いたくな
いと思っているんですね。協力をして欲しいというふうに思います。そして理解を
していただきたい、と思います。骨髄バンクに登録をしたいという人、その人を心
から応援していただきたいと思うんですね。例えば、一人の人が登録をしに行くの
で、ここですと帯広では登録センターもあるんですけれども、とても不便な所だっ
たら、今日、私は札幌から帯広まで来るのに列車であれだけかかりました。その途
中、雪深いところでは全然登録場所なんてないわけですね。その人たちが帯広に来
る時間の時、会社を休むかもしれない。その時にその仕事を替わってあげる、上司
は休みをプレゼントする、心よく行ってらっしゃいと言ってあげる。それが理解と
協力を示すことだと、つくづくそう思います。私は残念ながら骨髄バンクにもう登
録することはできません。一度ガンになった白血病患者ですから、登録することも
できません、献血もできません。でも私にできること、いろいろと考えてみました。
川でおぼれている子を例えば白血病の子としましょう。その子に、川に飛び込んで
助けることは助けることはできないんですけれども、手を差し延べることはできる
訳ですね。木切れを投げたり、ロープを投げたり、救急車を呼びに行ったり、私は
川の流れととも走って「今、助けが来るからね、頑張ろうね」って言って励まして
あげることができる。患者さんにはこのように言うようにしています、「今日を信
じていてちょうだい。そして、明日信じたら、明後日もしかしたら誰かから手を差
し延べられるかもしれないよ。そしたら、その手をしっかりつかんで、その後には
こんなに元気になるかもしれないよ」っていうことを伝えるようにしています。そ
のためには、私が心身ともに健康でないといけない訳ですけれども、お陰様で毎日
毎日飛び回っていても、こんなに元気にしているということを皆さんにお伝えした
いと思っております。そして十一月にはもう一回、北海道に来るチャンスがありま
す。ここから釧路までは、車で二時間足らずと伺いました。女優、東ちづるさんが
骨髄バンクのボランティア活動をして下さっています。もちろん、お仕事の合間で
すからなかなかスケジュールが取れません。しかし、今度釧路に来るというスケジュー
ルは日帰りですけれども、取ることができました。十一月の二十九日ですね、四時
からでしたね、はい、釧路のバンクのメンバーが来ているので今ちょっと目で合図
をしていただきましたが、四時から釧路市内でさせていただきます。後で場所等を
もう一度きちんと確認してからインフォメーションしたいと思っておりますけれど
も、十一月二十九日、午後四時から東ちづるさんとの骨髄バンクのトークをさせて
いただきたいと思いますので、ミーハー的な感覚でも結構ですので、是非足をお運
びいただきたいなぁと思って、それだけ最後にご案内をさせていただきたいと思い
ます。後にパネルディスカッションでも私が進行をさせていただきますけれども、
骨髄バンクというものの理解を深めていただけるために私の体験を少しお話させて
いただきました。今日は本当におじゃましにくいこの時間帯に、これだけ大勢の方
が来ていただきまして、心から感謝し、そして帯広に来て本当につくづく良かった
と思いました。皆さんにお会いできて嬉しく思っております。どうもありがとうご
ざいました。