Fujiki Masanori

Criticism about my work 


 FENCE: コバヤシ画廊、東京/fujiki masanori 1985 photo credit: 柏木久育

   田野金太  美術手帖 1985/9

フランクフルト学派は、われわれの外的自然と内的自然が合理性によって支配・管理・破壊されている、と訴えていた。前者は公害や自然破壊など比較的とらえやすいのだが、人間の内的自然の破壊となると各自の身に迫った深刻な問題だけに、かえって捉えにくい面がある。藤木正則の作品は、後者の問題に深く食い込んでいたように思われる。                        藤木は今回、芝生・柵・階段等を持ち込んで、公園の一画を思わせる、一見自由で開放的な場を創設した。しかし実際にその内部に入ってみると、この空間はかなり窮屈なものであった。入口の階段を昇ると画鋲の置かれた階段があり、侵入者はやむを得ず画鋲なしの階段を使って降りなけらばならない。また奥の階段を昇りつめると、鉄線が頭にぶつかり、慎重にひとつ内側の階段に移り降りざるを得ない。こうして内側の回廊を歩いていると。自分がすっかり柵に囲まれてもはやその狭い回廊を行きつ戻りつするしかないことに気づかされ、やがてその拘束性に苛立ってくるのである。                       たとえば、画鋲の階段を降りたり柵を跨いだりしてもっと自由にふるまうこともできた。しかし<柵><芝生><画鋲>といった日常的な意味と「理性的にふるまえ!」という自己命令とが、おのれの内的自然(衝動・感情)を抑圧し、それを禁じていた。またこうした意味の自由は他のより強力な抑圧を呼び起こすだけで根本的な解決にはならないだろう。                   これまでイヴェント性の強い作品を展開してきた藤木の真骨頂は、こうした日常的な抑圧装置の仕組みをひとつひとつ明らかにしつつ、その仕組み全体を問いかえすところにある。画廊奥に設置された青い椅子や石(無意味な存在)とその塗料の削りカス(執拗な行為性)が、抑圧装置全体を揺り動かすような力をもっていた。無意味な存在と濃密な行為性が、侵入者の苛立ちを、<このわざとらしい仕掛けとあの突き上げる執拗な作用性とはどのように結びつくのか>という創造的な問いに止揚し、抑圧装置自体を根本的に相対化する働きをもっていたのである。日常性の上に安住した作品が多い中で、藤木のこの切り口は新鮮味をもって出色だった。

 

 ホワイトライン:札幌三越前スクランブル交差点/ fujiki masanori

真鍋 庵  "高柳和子・藤木正則 Group show" leaflet 1982/8

藤木正則の仕事は単なるパフォーマンスという言葉で表するのは適切ではない。彼の行為は決して狭義の身体性の強調などではなく,種々の事象との関わり合い,その関係図の中に流動的展開をする記号論的方程式であり、生きた関係の演劇、現象としての美術、行為立体である。彼は様々な場で行為をする。美術館、画廊などの表現空間にこだわらずライブな場所へと向かう。彼の行為は意味の集束を目論んではいない、寧ろ事物、意味との適当な距離をもちながらそれらを活性化する。彼には思わせぶりなもっともらしさや、見せかけの深淵さは無縁である。彼は表現の重さと表象の軽さとの微妙な稜線を遡行し日常性に軽いジャブを撃つ。彼の行為に差し示められた何ものかを求めることはあまりにも近代的と云わざるをえない。彼の志向は、世界のモデル化でも内在の純化でもなく世界への割り込みだからである。

 

Conversation : 北海道立近代美術館、札幌/fujiki masanori

浅川真紀  "HOKKAIDO BIENNIAL 1996-97" Catalog 1996/10

藤木正則は、本道においては数少ない、パフォーマンスを中心とした活動を行う作家である。身体を最大の表現媒体とするその活動を、藤木は自ら「行為」( koi ) と呼ぶ。それは、身体を軸としながら、その周辺にある様々な要素を巻き込み、それらとの関わりにおいて意味づけられていく。例えば、椅子に身体を縛りつけ、警察署や市役所前に座り込む。白昼、街の歩行者天国の横断歩道上に、無数の白い線を引く・・・。こうした一見突飛で過激ともとれる行為はいずれも、我々が普段生活する日常的な空間の中に非日常を持ち込み、瞬間的に空間を異化しようとする試みである。そこには、日常的であるがゆえに我々の意識の中に埋没してしまっている何かを、身体を媒介として顕在化させようとする藤木の目論みがひそんでいる。「TAPE STROKE IN SAPPORO CITY 9210」は、札幌市内の四カ所(路上パーキング、公園、路面電車内、住宅地)において、作者とRED WOMAN なる女性が、テープで人や物をぐるぐる巻きにする行為である。この模様は絵ハガキとして記録され、後日市内のギャラリーに展示された。卷かれた人々はテープの存在により、身体の自由を奪われるとともに他者から“見られる”状態を体験し、そこで改めて自らが身を置く空間、ひいては社会を意識することになる。「その進行の過程で“人と人”“物と物”“規制と自由”などの関係がつくられる。<その延長線上に都市や社会の機能とか制度が見えてくれるならば、ある意味でそれが目的となるだろう>」と藤木は言う。また、絵ハガキと同じ空間に70年代の古家具を置くことで、オリンピックを機に飛躍的発展を遂げたかつての札幌を現在にオーヴァーラップさせ、移りゆく都市風景そのものへの問いかけも行っている。

一方、2人の人間が棒の両端を持ち続ける行為「CONVERSATION」は、藤木が大学院に在籍した '95 〜'96 年にかけて行われ、やはり絵ハガキとして記録された。付された数字は学籍番号、すなわち大勢の学生を管理するための番号であり、ここにもシステム化された社会の一端を揶揄する意図がかいま見える。互いの視線や微かな動きを感じとるうちに、2人の間には身体感覚のみによる無言のCONVERSATION(対話)が生まれることになる。さらに今回、藤木はこの作品に絵ハガキの自動販売機をつけ加え、鑑賞者の身体をも取り込もうとしている。日頃何気なく利用している自動販売機が美術館の展示室に作品として出現することで、ここでも空間が異化される。現代の合理的かつインタラクティヴなシステムを象徴する自動販売機を仕掛けとして、鑑賞者は売る・買うという行為やそこに生じてくる心理までもがシステムの中に組み込まれていることに改めて気付かされのである。このような藤木の行為には、大仰な身振りや声高な主張はみられない。あくまでも淡々と、どこか滑稽さすら感じさせながら、我々の意識の間隙に確実に忍び込み、身体の覚醒を促すのだ。それはまさしく、現代社会の見えない力にコントロールされた身体を人間自身のものとして取り戻そうとする、巧妙かつ果敢な抵抗である。

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