私はよく考え事をします。ぼーっとしているようでも、頭の中はフル回転です。野菜を切っている時とかフライの衣付けとか、そういう単純作業の時もまるっきり別なことを考えていて指を切ったりパン粉をぶちまけたりします。車の運転中などは格好の考え事タイムです。よく別世界に飛んでしまうので、非常に独り言が多いです。いきなりなんの脈絡もない言葉を口走るのでダンナや子供に不気味がられています。自分で考えていることに「そんなわけないな」とか「なるほど」などとコメントをしてしまうのです。これはやはりハタから見ていて不気味だと思うのですが、いくら気をつけていても考え事をしだすとダメです。頭がどっかおかしいのかもしれません。
考えてみると、テレビを観ている最中は考え事が出来ません。テレビを観るとバカになるという説は一理あると思います。子供がヒマそうにゴロゴロしているのを嫌うお母さんもいるでしょうが、私はむしろ推奨します。ああいう時間に、子供は子供なりの「人生観」を築いているのだと思うからです。
人生観。これほど人によって千差万別なものもないでしょう。もちろん私もこれについて過去に散々考えました。政治や恋愛やプロ野球に対する考え方などは、大きく分ければいくつかに分類できるものですが、人生という漠然とした、なおかつその時点時点においては確かな像を結ぶ、老若男女、白黒黄色、大富豪もホームレスも、地球上のどんな人間もが背負わされているこの広大な空間を短い言葉で表現するのは非常に難しく、どんなに親しい間柄でもそれを共有するのは至難の業と言ってもいいでしょう。しかしだからこそ「人生とはなんぞや」という問いかけに対する答えは、その人を理解するための大きな手がかりとなる可能性があります。どの方向から見ているのか、主観なのか客観なのか、理想なのか現実なのか、過去なのか現在なのか未来なのか、そういった大きな傾向はこの質問である程度わかるような気がしますが、さてどうでしょうか?
ネットで仲良くしていただいているまりさんのHPには「人生はヒマつぶしだ」とあります。ウチのダンナなどはまず間違いなく「人生は勝負である」と言うことでしょう。「人生はおもちゃ箱だ」というのも昔漫画で読んで印象に残っています。さて、あなたはどう答えるでしょうか?
実はこれ、考えて答えが出る問題ではありません。表現として当てはまりそうなのは「悟る」かと思います。その「悟り」がいつやってくるか、これはわかりません。人生のうちで何度もその「悟り」が更新される場合もあるでしょう。死ぬまで悟れない人もいるでしょう。そんなこと考える気もヒマもない人も多いでしょう。
さて、私は今年37才の若輩モノですが、先日若輩モノなりの「悟り」を得ました。曇り空が一気に晴れたような、そんな爽快感のある「悟り」でした。たくさん
妄想にふけった考え事をしたご褒美として、 一足先に「不惑」がやってきたのかもしれません。いろんな人がいて、いろんな価値観に基づいて生きています。私には理解も同感もできない人生観、価値観で生きている人もいるし、私自身も他人から見れば「妙な人」である場合ももちろんあります。この差はどこからくるのか。生まれつきの性格、親から受け継いだモロモロの素養、そしてその人が生まれてから今現在までの時間が紡ぎだしたものですが、特に幼少時の親との関係や育てられ方によるところが大きいと思っています。こういうことを言う人は多いですが、決して他人からの受け売りではなく、自分が子供を育ててみての実感であり確信です。「そういう意味では、親の責任は実に重大」と軽くビビってしばらくした頃、その「悟り」はやってきました。
「人生は”指しゃぶり”である」
私には、人間は常に「何かを埋めようとして」生きているように見えます。それは寂しさだったり、自分には足りない(と思っている)何かだったり、一見単純な欲望だったりしますが、酒乱も果てしない物欲も浮気癖も幼児虐待も必要以上に食べることも、資格を取りまくるのも勉強ばっかりするのも友達を増やすことに熱心なのも他人のために一生懸命になるのも、そういった特徴的な人間の行動にはすべて理由付けができるのではないか、と思います。そしてその理由は、よく言われることですが「子供の頃」を探すと見つかる場合がほとんどだと私は考えます。赤ちゃんや幼児は指をしゃぶって自分を満足させようとします。指しゃぶりは遅くとも小学校低学年には治りますが、人はその後も形を変えた「指しゃぶり」を続けているように思えてなりません。
そう考えてみると結局のところ、どんな人生も「同じこと」だと、「他人や家族を傷つけさえしなければ」どんな人生も他人に賞賛されたり否定されたりするべきものではない、と、これは以前より感じていたことですが、あらためて思いました。上を目指す人はそうしない人をバカにしがちですが、どんなに社会的地位があろうと、どんなに多くの人に尊敬されようと、所詮は「指しゃぶり」に過ぎないのです。収入の多い少ない、結婚するしない、子供を持つ持たない、定職に就く就かない、友達の多い少ない、自己主張するしない、こういった観点で人間を評価し意見するのはありがちなことですが、それは無意味なことなのだ、と思いました。どんな生き方も本質的には同等。なんだかすっきりしました。
「そりゃ違うぞ」と思われた方もいらっしゃるかと思います。これはあくまで私の個人的見解、と言うほどでもない「思いこみ」で、それこそ人生観の相違はいかんともしがたいですから、反論されても困りますし不毛です。ただ、この考え方は「母親としては」理想的であると自負しております。「他人や家族を傷つけさえしなければ」どんな風に生きても同じことだ、と本心から子供に言えるし、認めることができるからです。さらに、もし我が子が重大な問題行動を起こした場合、それはまず間違いなく、そういう「指しゃぶり」をさせた親である自分の責任であると納得でき、そこから逃げずに済むからです。子供を育てるということがわかっていなかった頃の責任を何年も後でとらねばならないということは想像以上に辛く大変なことだと、三田佳子さんあたりを見るとそう思いますが。
さて、「”他人や家族を傷つけさえしなければ”どう生きてもいいのだ」、と書きましたが、実は「他人や家族を傷つけない」ということは実質不可能なんでした。残念ながら人間はどうしても誰かを、肉体的にはともかく、精神的に傷つけずには生きられないようです。「他人の精神的痛みが自分の快感につながることがある」というのは誰しもが感じている事実ですし、結局人間はそういう業を背負って生きて行くしかないわけで、やったりやりかえしたりに人生の大半を費やす人もいるようですが、きっとそれも「指しゃぶり」なはず。そう考えるとそういうバカバカしいことに巻き込まれずに済むような気がしますが、いかがなもんでしょう。