その晩は近来まれに見る寒さだった。
街路灯のない真っ暗な国道はドライブには最悪の状況となっていた。ヘッドライトに浮かぶ凶悪なまでに黒光りしたその路面は、一見濡れているだけのように見えるが実は表面の水分がつるんつるんに凍結し非常に滑りやすくなっているという、いわゆる「ブラックアイスバーン」というヤツである。さすがにこんな晩は皆外出を控えるらしく、擦れ違う車もほとんどない。つい先刻の病院からの知らせに、はやる気持ちを理性でこじ抑えながら普段以上に細心の注意をはらって車を走らせる。今夜あたりは氷点下10度を切っているだろう。間違いなくこの冬一番の寒さだ。我が子の誕生エピソードの出だしがすんなりと決定した。思いがけなくドラマチックで美しいイントロだ。こういうのはありがたい、というのだろうか。と、車のすぐ前方で2つの緑色に光る目がこちらを向いた。とっさに頭の中で自分に言い聞かせる。ねこハ、よけテハ、いけマセンっと。
何かが破裂したかのような音と結構な衝撃の後、猫の体が後方へ飛んでいくのが見えた。ゆっくりと減速し、一旦停止の後、少しバックして車を止める。車のドアを開けた途端一斉に付き刺さってくる鋭利な冷気の中、ぴかぴかに光る凍結路上で猫はその美しい被毛だけをそこに置かれているかのように、くにゃり、と横たわっていた。明らかに死んでいる。足を滑らせないように気を付けながら猫の骸に近づき、つまみ上げる。まだ若い虎猫だ。
「すまん」
猫の背中に詫びる。顔は見ない。飛び出してくる猫をいちいち避けていたら、こちらの命がもたない。特に冬場はブレーキさえ踏まない、いや、踏めないのだ。滑ったらオシマイである。猫を道路脇の草むらに投げ捨てると、車に戻った。すでに耳と指先がじんじんしている。はあ〜と指先に息を吹きかけてから、ゆっくりと車をスタートさせた。
10分後、それ以外には特に何事もなく病院に到着した私は、看護婦に案内されて深夜の病院の廊下をときおり小走りになりながら歩いていた。看護婦の履き物が立てる「ぎゅっぎゅっぎゅっ」という妙な音に、我が子との「ご対面」に向けて長い廊下を歩く私の気持ちはより非日常的な方向へと向かっていった。つまりは、滅多にない、いや生まれて初めてのこの状況にさすがの私も興奮しているのだ。いくつか角を曲がり、いくつか扉をくぐり、その妙な音を立てる足が止まった。
「こちらです」
両開きの扉を入ると、そこはタイル張りの、なんとも硬質でさむざむしい部屋だった。いくつもの金属で出来た器具や装置が天井の蛍光灯に反射して光っている。あまたの生命が誕生する神聖な場所であるはずのこの部屋は、現実に実物を目のあたりにしてみると「医療の現場」以外の何物でもなかった。おどろおどろしい、という印象さえ抱く。その雰囲気にすっかり呑まれ、入り口で呆然と立ち尽くしていると、中央に据えられた分娩台と思われる変な格好をした台の上で、緑色の布を下半身に掛けられた妻がこちらを向いた。
「ああ」
妻がため息のような声を出した。白い顔をしている。
「うん」
これでもせいいっぱいの会話である。もっと何か言わなくては、と言葉を探していると、
「はい、あかちゃんですよ〜。ハジメマチテ〜」
と、背後から妙に明るい声がかかった。振り向くと白いタオルに包まれた、赤紫色の小さなかたまりがこちらにずいっと差し出されている。
えっっ?思わず一歩後ずさる。そ、それをオレに、どど、どうしろと?え〜と、あそうか、「だっこ」だな。うんうん、わかってます、「だっこ」ですね。つんのめるように二歩前進し、それを両腕に載せてもらう。
「ちいせぇ〜〜」
心の中で叫ぶ。なんだこの人間としてあるまじき小ささは。これで生きているのか。あ、動いた。左目はまぶたがくっついている。右目はほんの少し開くようだ。そのわずかなすき間から、こちらを見ようと必死で眼球を動かしている・・・ような気がする。一瞬、その動きが止まり、こちらを見た!・・・ような気がした。
「ひえぇ〜〜」
またもや心の中で叫ぶ。今度はタオルの中でぐにょん、と全身が動いた。
「ぎょえぇ〜〜」
「うげぇ〜〜〜」心の中で騒々しく叫び続けていると、そいつは急に顔をしわだらけにして口をせいいっぱい開けた。同時に鼻の穴も全開。一人前に、あくびをしている。
「あんまり、かわいいとは言えないなあ」
思わず本音を口に出してしまった。言ってすぐ、シマッタ!と思った。ここはウソでも「かわいい」と言うトコロではないか。しかし妻の反応は思いもかけないものだった。私の問題発言に対し、平然と、
「そうね」
と微笑んだのだ。つい数時間前には、病院へ向かう車の中でフガフガホゲホゲ言って大騒ぎしていたくせに。あの時とはまるっきり別人にでもなったかのようなこの余裕。妻の周りでは2人の看護婦が、時折妻を気遣いながらもきびきびと出産の後片付け(なのだろう)をしている。気丈な女たちが作り上げるこの異空間では私ひとりがなんだかみっともなくオロオロしているのだった。
居心地の悪さにそわそわしつつ30分ほど妻の傍にいたが、母子共に特別問題もないようだし、明日も仕事なので、と帰宅することにした。外に出たとたん顔面がピッと強ばる。猛々しいまでの冷気がおそらく緩んでいただろう我が表情を一瞬にして引き締める。早いとこ車に乗り込もう、と歩を速め、ふと立ち止まって振り返る。
真夜中の総合病院。
大きな影となって厳寒の夜空にそびえるその建物の窓にいくつかの明りが灯っている。その場でせわしなく足踏みをしながら、あの明りのひとつひとつにドラマがあるんだなあ、とめったにしない感動を少しばかり味わってみる。たった今出てきたばかりの分娩室の明りをしばし探してみるが、結局見当もつかないままその強烈な寒さに負けて車に向かう。
容赦のない狂暴な冷気にジャケットのフードを被り、背中を丸め、「h〜〜〜」とうなりながら歩く。
とにかく寒くてたまらなかった。