皆様こんにちは。見には行きませんがこちらも桜が咲いたようです。単なる3連休はいかがお過ごしだったでしょうか。私は毎年恒例、畑の作付けを行いました。今年は足腰が痛かったもんで、ものすごくテキトーに耕してものすごくいいかげんに植えましたが、ちゃんと根付きました。人生そんなもんです。
今年5年生になった長女が、ついに「あの授業」を受けてきました。そう「生理」についての授業です。男女別だそうですが、今は男子もそういう授業を受けるそうです。つい最近まで、ナプキンのコマーシャルを観て「どうして大人の女の人はおしっこを漏らすのか」とトンチンカンな質問をしていたのですが、学校では非常に具体的かつストレートに教えてもらったようで、「お母さんも生理があるんだね」と言われた時にはちょっとドキッとしました。
親が獣医だからなのか、昨日は長女から「人間以外の動物にも生理があるのか」という質問を受けました。実はわれわれ夫婦は「獣医臨床繁殖学研究室」で知り合った仲。そのへんは得意とする分野なのでした。
母「犬は生理があるけど、発情出血と言って人間の生理とは機序が違うんだよね」
父「牛は排卵後に出血があるけど」
母「それは排卵出血だから出血量は少しでしょ?」
父「黄体の退行に伴って出血するなんつーのは人間だけじゃねーの」
母「毎月子宮内膜を更新してるんだから、よく考えるとなんかすごいよね」
長女は無言で立ち去っていきました。よくわかったカナ?
ちなみに後で調べたところ、サルには人間と同じような生理があるそうですが、毎月というのはおそらく人間だけだと思います。人間には避妊の知恵があるのでなるべく繁殖のチャンスを多くしないと絶滅してしまう、と神様が危惧したのだと思います。わあ、すごくもっともらしいなあ。
さて先日、子供達に今年の誕生日プレゼントの希望を聞きました。ぽぽちゃんがノーパンなのを気に病む末っ子は「ぽぽちゃんのパンツ」、あきれるほど物欲の薄い次女は「ノート」(←こいつはクリスマスも”ねりけし”だった)、何が欲しいのか自分でもよくわかっていないらしい長男はさんざん考えたあげく「持ってないトミカ」とつまらなそうに一言。ただひとり、幼少時から並々ならぬ「計算高さ」を誇る長女は「誕生日が近くなってからじっくり考えて決める」というコメントでした。
その後、末っ子に「お母さんは?お母さんは何が欲しい?」と聞かれちょっと考えましたが、もともと無機物にあまり愛情を持てない私は、さんざん考えたあげく、もし神様が欲しいモノをひとつくれるとしたら、「よくできた秘書」が欲しいと、こう思いました。我ながら非常に賢い選択だと思いました。
「優れた人材ほど貴重なものはない」
「つかえる」「つかえない」とよく言います。はじめっから「つかえる」人間を求めるという考え方もありますが、日本の社会ではたいていは新米を「つかえる」ように教育していくもので、どんな組織においてもこれは非常に重要な「要の仕事」のひとつだと思います。しかしながら、生まれ持った素質による限界というのはやはりどうしてもあるもので、「何をやらせても上手」な人間がいる一方、「何をやってもダメ」な人間もご存じのようにいるわけです。「つかえないヤツ」というのはやっぱり母親がそういう風に育てちゃったんだろうなあ、と子育て真っ最中の私は確信を持ってそう考えたりしているわけですが。
この「つかえる」というのは具体的にどんな能力であるのか。少し考えてみますと、それは誰もが学べる技術やセオリーではなく、成長期に養われた「カン」としか言いえないものではないか、と思います。いくら語学や専門分野に優れていても、だから「つかえる」かと言えばそうではないですし、今自分に期待されていることを的確に理解し、それに応える能力というのは学校のお勉強とはまるで無縁なところで養われる「反射神経」なのではないかという気がします。実際、勉強しかしてこなかった大卒の人間などは、実社会で全然「つかえない」場合も多いと聞きます。そして今の世の中、こういう「つかえない」人間が異常に増殖しているのもご存じの通りですが、さて、一体「つかえる人間」は子供のうちから無意識にどんなトレーニングを積んできたというのでしょうか。
もちろん、そんなこたあ皆さんお気づきだろうと思いますが、やはり月並みながら「人とたくさん関わる」ということなのだと思います。人と関わる、というよく考えると非常に抽象的に表現されるこの行動は具体的にはどういうことであるのか。ちょっと考えれば、これはもうただただ「おしゃべり」ということに尽きるわけです。こう解釈してみると、意外にもさまざまな事柄が非常に単純に見えてきます。よく言われることですが「勉強」や「ゲーム」は普通無言でします。ということは「人と関わらない」ということですが、たとえば友達と同じ部屋にいても、おしゃべりをしないのでは「お友達と遊んだ」とは言えませんし、クラブ活動などでも、ひたすら個人競技をしているだけでは体と精神力を鍛えているだけです。逆にゲームをしながらでも、その内容や進み具合に関して会話が弾むのであれば、それは「人と関わっている」と言っていいと思いますし、思春期の女の子の長電話も、あれはああやって会話のスキルを高めているのかも知れません。私は長電話は嫌いですが、こう考えると決して「くだらないこと」ではないのかなあ、と思えました。少なくとも毎晩の長電話で培われた能力は「電話でのセールス」にはとっても役に立つような気がしますし。
「子供はなるべくしゃべらせよう」
そんなわけで、最近の私はきょうだい同士の口ゲンカなども極力遮らず(うるせえんじゃガキども!!!)と思ってもひたすら黙ってネットマージャンで一発フリコミやチョンボ(←イライラしているので)などをしているわけですが、きょうだい同士の対話というのは友達との対話と違って「常にケンカ腰」ですから「聞いていて非常にイヤな気持ちになる会話」になることも多いのですね。幼児のくせに相手の最も嫌がりそうな単語をわざわざ選んでいるとしか思えない言葉の応酬。しかしながらよく聞いていると子供なりに「脳みそ使ってるなあ」と思えるうまい表現があったりして、たとえ「ものすごい悪態」であっても日本語表現の勉強にはなっていると思います。そのうちに友達と遊ぶことが増えてくると、「きょうだいに言うこと」と「友達に言うこと」をきっちり分けているという興味深い事実が観察されます。どうしてきょうだいにはイヤなことを言いたくなるのか。どうして友達とはなるべく仲良くしようと努力をするのか。いったい何が彼らをそうさせているのでしょうか。
「きょうだいというのは、あまり仲良くても困る」
そう、異性のきょうだい同士というのは少なくとも「コイツとは結婚したくない」という程度に「嫌い」でないと、同じ屋根の下に暮らしているだけにヒジョーに困ったことになってしまう可能性があるわけですね。他の家庭を見ていても、年が近ければ異性のきょうだい同士でも非常に熱心にケンカをしますし、お互いがお互いを「大嫌い」と公言してはばからない場合もありますが、ま、生物学的にはそれでマルなわけです。もちろんお互い「大嫌い」であっても、きょうだいですからなぜか仲良く遊ぶんですけども。ウチの長男のように「圧倒的に形勢不利」ですと3歳にして「女性全般」に失望してしまうという例もあるわけですが、いずれは「この姉やこの妹以外」なら結婚してもいいと思えるようになってくるのでしょう。ならなかったら困ります。
余談ですが「釣り針タマちゃん」を見ていてあることを思い出しました。
「子供は目のフチを怪我することが多い」
あれってやっぱりとっさに急所である目を避けているのかなあ、とよく思いました。現代人は本能が壊れていると言われますが、人間にもまだまだいっぱい隠れた本能があるわけで、そういうのを日常生活の中で発見しながら生活していけたら楽しいなあ、と思います。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。本州は梅雨入りしたそうですね。こちらは毎日実にいい天気ばかりで、雨不足が心配される今日この頃でございます(ちょっと優越感)。1ヶ月ぶりの「常識」へようこそ。
実は今月に入ってから10年ぶりに獣医師に復帰いたしました。静内町で開業している同級生の動物病院を無理言って手伝わせてもらっているのですが、久々の臨床にすっかり熱中しております。頭の奥の方からズルズルと引っぱり出される10年前の知識のほとんどが今でも通用することに驚きと嬉しさを感じています。もちろん10年前も今も、イヌはイヌだしネコはネコであるわけで、ま、当然と言えば当然なのでしょうが。
そんなわけでここんとこ毎日静内町に通っているわけですが、私は殺ってません!(←誰も疑ってないって)
「光あるところには“必ず”影ができる」
皆さんご存じかと思いますが、静内で牧場を経営していた武騎手の親戚が殴り殺されました。テレビなどでも報道されているように、なかなかスキャンダル満載の人だったようです。アムロちゃんのお母さんが殺された時も思いましたが、光が強烈であればあるほど、その影も濃いのでしょう。殺された彼もやはり地元ではやはり真っ先に「有名一族の血縁」として認識されていましたし、それだけに人も、イナカだから特に、ハンパじゃなく注目する。注目されたことのない私などにはわかりませんが、「人の視線」というのは実はもんのすごいストレスなのだそうです。これにうち勝てるだけの度量を「光源」である本人以外の、いわば「凡人」が培えるのかと考えれば、やはり「影」は出来るべくして出来ているのだなあ、と思います。私もあまり有名にならないように気をつけようっと。(←いらん心配)
さて、前述しました「人の視線はストレスである」というのは、実は少し前にある「一人息子」のコメントを聞いて気付いた「常識」です。その彼曰く、幼少時から「両親の視線を一身に浴びるのが苦痛だった」そうです。私のように3姉妹でしかもほったらかしで育った人間にはまるっきりわかりませんが、確かに子供が何かをしている時に、じーーーーっと見つめていると子供は非常に嫌がります。長男などは軽く顔面が痙攣したりさえします。やはり何らかの「ストレス」を感じているのは確かなようです。
実は仕事に出ようと思ったのは、そろそろ臨床に戻りたい気持ちも強烈にありましたが、子供のため、という目的もありました。このあたりはそれぞれの考え方に非常に差がありますし、まるで考えの違うお母さんを否定するわけではありませんが、私は「子供は基本的に放っておくべきだ」と確信を持って思っております。私は家で専業主婦をしていても、決して「子供にかまける母」ではなかったと思いますが、やはり視界に入れば子供を見るし、余計な口を出してしまうわけです。「実は私も過干渉母だった!?」と思いました。結構ショックでした。もし物理的に母が不在であれば、子供は自分の行動や、かかってくる電話、来客などに自分の裁量で対応しなければならない。自分で考え、自分で決め、自分で行動してこそ、その体験が実になるわけで、否応なくこういう状況を作り出さなければ、現代のヒマな母親というのは、どーーーーしても口や手を出してしまい、無意識に確実に子供の「生きていく力」を奪っているのではないか、と危機感さえ感じたのであります。まあ、私の場合はいずれ本格的に仕事を始める予定ですし、そうなればこれ以上はないというくらい「十分に」放ったらかしになるんでしょうけれど。
「今の子供はすべてにおいて“受け身”である」
近所の年輩の方からのコメントです。実にその通りだと思いました。病院などでは、すっかり育ちきったデカイ子供が、「ありがとうございました」と医者に頭を下げる親の後ろで挨拶もせずにぼーっとつっ立っている光景をよく見ます。変です。おかしいです。特に息子を持つ母親はこの件に関して早急に対策を打ち立てていただきたい、と思います。「変な娘」より「変な息子」の方が起こす問題が大きいと思うからです。
まあ、こういうのも要するに「加減の問題」でして、放っときゃいいというもんでもないし、もともとデキのいい息子に、夫婦関係が円満である母親が適切に手をかけるのであれば、それはさぞかし自慢の素晴らしい息子に育つであろう、とも思いますが、小学生以上の子供を持つお母さんはぜひ、自分が「過干渉」ではないかどうか、今一度自分の行動をチェックしてみてください。案外と余計な手や口を出してる自分に愕然とする人が結構いるんじゃないでしょうか。
最後に私信。ついに携帯電話買っちゃいました。裏切ってごめんね、はるかさん。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。北海道は寒いです。どのくらい寒いかというと、夏祭りで夜ビールを飲んだらこの私がお腹を壊しました。子供達もプールで唇をパープルにしているそうです。“北海道なのに”暑い夏もイヤですが、“北海道だからと言って”寒い夏はもっとイヤです。なんとかしてください。(しかし毎年夏は文句ばっかりだな)
プチ獣医師生活も軌道に乗りまして、長のネットご無沙汰とは裏腹に日々充実しております。避妊や去勢手術のために全身麻酔をかけた猫をなで回して「やっぱり若い猫はいいのう」とそのジュリちゃんとは違う手触りを堪能したりしてますが、これって人間でやったら完全にセクハラだね犯罪だね、アッハッハ、と相棒と「獣医師に生まれた幸せ」(←いや別に生まれたわけでは)をかみしめております。また私は以前から塗抹標本(血液や組織などをスライドグラスに載せて染色したもの)が三度のゴハンより好きで、「今日は標本が3つも!わーいわーい!」と無邪気に喜び、顕微鏡を覗きながら「うをををを、骨髄だああ、巨核細胞だああ〜〜〜〜」などと逆上気味で感嘆の声を上げてますが、このあたり完全に変態だね、テヘ、とオノレの病み具合を自覚したりしております。
専門家とは一種の「変態」である
「変態」の正しい定義はさておき、私は「圧倒的多数の人間には理解できない喜びを感じることが出来る人間」と解釈しております。また、専門家というのは多分に「変態的要素」がなければその道で大成できないのではないか、とも思います。もちろん世間一般では「人に迷惑をかける変態」と「人に迷惑をかけない変態」に分けることができ、人に迷惑をかけないのであればそれはもうどんどんやっていただいて結構なんですが、困ったことに「変態行為」というのはたいていどんどんエスカレートしていくものなんですね。そう言うわけで私も「腫瘤をみると焦点の合わない目つきで舌なめずりしながら針を刺し、染色中は始終小躍りしながらニヤニヤし、封入しながら自作の「悪性所見のうた」を口ずさみ、顕微鏡を覗きながら歓喜のあまり失禁してしまう獣医(すでに免許剥奪)」にならないように気をつけようっと。
さて、変態セクハラ獣医である私も4児の母でありまして、昨今の事件を見るにつけ、わが子らに「変態の芽」が出た場合親としてどうすればいいのか少々考えてみました。「悪趣味でもそれを極めて世間に認められる変態」と 「犯罪者になってしまう変態」とは一体どこが違うのでしょうか。思い出すに、私は子供の頃から生き物が好きでしたが、それはもちろん、多くの「生き物好きな子供」がそうであるように、「愛でるため」ではなく「いじるため」なわけです。アリの大量虐殺とか、カマキリのカマをむしっちゃうとか、ナメクジに塩をかけるとか、だんご虫を踏みつぶすとか、私は都会育ちなのでそんなもんですが、もし田舎育ちだったらヘビやカエルでもっともっと面白いイケナイことをしたと思います。で、これがすなわち「変態の芽」かというと、私はそうは思いませんで、それはむしろ「生物学者の芽」ではないかと、このように思うのです。現にそういう子供だった私はこうしてりっぱな変態セクハラ獣医になったわけですし。ですから、娘や息子がもしそういうことを熱心にやる子供であったら、もちろんそういうことに対して嫌悪感をあらわにするのも大人の役目かと思いますが、その後で「この子は獣医(お金持ちは医者)に向いている」とニヤリとほくそ笑んでもいいんじゃないか、と思います。子供時代というのはその人間の趣味嗜好が非常にわかりやすい形で現れる時期で、特にヒマな状態で放ったらかしとくと子供というのは自分の好きなことしかしませんから、親としてはそこで子供の個性を把握しておくべきだと、そしてそれが親の意向や希望と全く違っていたとしても、それはもう仕方のないことなので受け入れるべきだと、私個人はこう考えております。
「親に認められないことほど辛いことはない。親に認められることほど嬉しいことはない」
前述した「悪趣味でもそれを極めて世間に認められる変態」とは、やはりそういう趣味を親が把握し、そういう趣味もすべてひっくるめて、子供を親が容認していたのではないか、という気がします。
さて逆に 「犯罪者になってしまう変態」はどういう風に造られるのか。これはやはり「ブレーキの不具合」ということなのだと思います。「変態」はエスカレートしていくもの、そしてブレーキがなければ、犯罪になってしまうもの、であります。ブレーキを設定するのは、これもやはり「親」であろうと、そしてその具合もなかなか難しいであろうと、こう思います。諸先輩方はおっしゃいます。小さい頃から親の言うことを聞けるようにしつけておけば、思春期になっても肝心なところでブレーキがかかるものだ、と。しかしそれをやりすぎてもブレーキは壊れてしまう、と。
「それでワタクシにどうしろと?」
えええええもうホントにね、どう育てるのが正解なんだか全っ然わかんなくなりました。子供にも親にも受難の時代です。私も根本に立ち返って「夫婦仲さえよければ、子供はそれほど道を踏み外さないの法則」を信じて、とりあえずダンナと仲良くするのが一番かな、と思っております。最近は「ウチには絶対に悪いことは起こらないの法則(根拠無し)」もたびたび強化運動が必要になってます。だってウチの子供ら、しょっちゅう買い物中にいなくなるんだもん。デパートやスーパーや大型電気店は買い物中の託児サービスを強化すると喜ばれるし儲かると思います。日本全国で日々推定1万人のお母さんがどこかで青くなってるはずですから。
と、この不況時に新たなビジネスを提案したところで今日はこの辺で。それにしても寒いぞ。(←まだ言ってます)次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。ご無沙汰でございました。秋になり、デンプンマニアの次女がたびたび「栗はまだか」と言っているのですが、先日の災害で栗の木はだいぶ流されちゃったようです。田んぼもほぼ全滅のようで、鉄道も道路もまだ復旧しておりません。馬を何頭も失った牧場の奥さんに「仕事の方はどう?」と聞いたら「馬が減ったからラクでさー」と言われ、思わず爆笑してしまいましたが、もしかして笑っちゃいけないところだったかな。
9/15に浦河で開催されましたゴスペルフェスティバルにマスクワイヤ(合唱団)の一員として出演いたしました。浦河まで往復2時間かけて練習に通い、さらに本番数日前に体調を崩し、バンドの練習も重なり、とってもとってもとってもとっても大変でしたが、そこにたどりつくまでの過程が大変であればあるほどそれが終わった後の達成感というのは大きいもので、出産直後に匹敵するようなβ-エンドルフィンの分泌亢進(←もっと普通に表現しろ)を味わうことができました。で、その興奮さめやらぬ状態で家に帰り、「オ〜ハッピ〜デイ〜」と部屋に入ったとたん極めて不愉快な映像が我が家のテレビのブラウン管から流れておりまして、その瞬間、β-エンドルフィンがすべてアドレナリンに置換。近年まれにみる大きな感動がダイナシこの上ない。ウサ晴らしに道頓堀川に日本住血吸虫のセルカリアと中間宿主のミヤイリガイをセットで放流しようと思いますので、ボランティアで手伝ってくれる人を募集いたします。よろしく。
ゴスフェスが終わり、だいぶ余裕が出来ました。次は月末にバンドのライブがあるので、ドラムとキーボードとピアノの練習をしております。大人の趣味というのは、様々な職業や立場の人との交流のきっかけとなり、それがまた楽しいものですよね。6年前に平取でやっていたバンドは、メンバー6人全員「獣医」という濃ゆいバンドでしたが、今のバンドの面々はといいますと、
なんか「謎の印」が付いてますが、全体として、私個人にとって非常に喜ばしい状況であるわけです。
「男はやっぱり肉体労働」
人間、日々まっとうに生きていれば思わぬ幸せに恵まれるものだなあ、と思いましたね。どのあたりが「幸せ」なのか、少なくとも私と同じく「手ぬぐい頭フェチ」「上腕部フェチ」の女性の方には分かっていただけると思います。ちなみに今回ドラマーとして復活した私の上腕部も、不本意ながら「好みのタイプ」に育ちつつあります。
さてゴスフェスの3日前、風邪っぴきの疲れた体をひきずって、門別で開催された「広瀬光治ゆび編み講習会」というのに行って来ました。広瀬先生はニットデザイナーで、NHKの「おしゃれ工房」など、テレビにも出演されています。本業の方よりも、むしろその非常に特異なキャラで有名です。ご存じない方はネット検索してください。忙しくて大変で、少しでも体を休めたい中、なんでまたそんなにその講習会に行きたかったのかと言いますと、実は私は編み物が趣味で、というのはウソで、あの広瀬先生に非常にお会いしてみたかったのです。皆さんご存じのように、私は「笑いのためならどんな苦労も厭わない」人間でして、広瀬先生は人間の4大欲のひとつである「笑い欲」を満足させてくれるに違いない、と思っていたわけですが。
「まっすぐな人にはかなわない」
広瀬先生は、長身で、華奢で、優雅で、そして非常に澄んだ穏やかな目をしておられました。自分の好きなことを極め、その道を信じて突き進んでいる人は、たとえ「編み物なんぞをする変わった男」であっても、すばらしく透明で輝くオーラを放つのだなあ、と感動すら覚えました。話も非常に上手で面白く、肝心の「ゆび編み講習」の方ははものすごく簡単でしたが(ま、もともとオマケか)、会場のBGMに広瀬先生の歌う「毛糸玉の歌」カップリング曲の「地球は糸玉」が流れる頃には、その歌詞に突っ込むことも忘れ、「この私が」すっかり毒気を抜かれてしまったのでした。ちなみにウチの長男は編み物に異様に興味があり、くさり編みを教えてやったら果てしなく編み続けていました。これはうまく育てれば「第二の広瀬光治」に!(←“男は肉体労働”じゃなかったんですか、あつよさん)
まあしかし、趣味でも仕事でも、やりたいことをやれる、というのが一番幸せですよね。なのに若い人が「やりたいことが見つからない」とか言ってるのを聞くとがっかりしちゃいますよね。考えてみると、「やりたいこと」というのは探すものなのか、出会うものなのか、ある日突然降ってわくものなのか、わかんないですよね。ま、やりたいことが見つからない男性は取りあえず「肉体労働」をしてみると、世の中に引き締まった上腕部が増えておばさん嬉しいかなー、なーんちゃって(←目は真剣)。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
ご無沙汰しておりましたです。院長が横浜の実家に里帰りのため病院を1週間お休みにしまして、そんなわけで久しぶりの更新です。ここ数カ月は文章を書く余裕が時間的にも精神的にもありませんで、もうサイト自体を閉めちゃおうかと一瞬思ったりもしましたが、今後「あつよの野望〜第2章〜」が順調に達成されればますます「そんな暇」はなくなりますし、「更新遅きこと冥王星の公転のごとし」となる確率90%超という状況ではありますが、今まで書いてきた大量の文章もそれぞれ時折は読まれていると思いますし、とりあえずサーバーには置いといてもらおうと思っております。ホッカイネットさん、今後とも合い言葉は「無料!」でひとつよろしくお願いいたします。(←ずうずうしきこと茶トラ猫のごとし)
さて、11月も下旬、次女のボードと長男のスキーを新調して手ぐすねをひいているアンドー家でございますが、北海道は今年もなにやらいつまでも「降るべきもの」が降ってきませんで、「しゃっきりせんかい!」と北の方角に気合いを入れたい気分満々でございます。暖かくても雪さえ降ってくれればそれでいいんですというか雪さえ降ってくれれば暖かい方がいいんですが。
「ウインタースポーツは、寒い」
常識すぎて意識にも上らない常識ですが、しかしだからこそ、大人も子供も精神的に大きく成長できうるスポーツでもあると考えております。昨シーズン、氷点下の雪山で「リフトにはすっごく乗りたい。けど滑り降りるのは寒いし怖いしすぐに板外れるしオシッコ〜」という信念を持つ4歳児に付き合わされてたダンナなんか完全に「菩薩顔」になってました。今年はダンナが椎間板ヘルニアくんなので、私も子供の面倒をみるつもりですが(去年は自分のことでせいいっぱいだった)、その「苦行」は40を目前とした私にどのような変革をもたらしてくれるのか、とってもとっても楽しみです。きっと「スキーなんか金輪際行かねーぞおおおおお!」と大声で叫んじゃっちゃったりして、それが雪山にコダマしちゃったりするんでしょうねえ。(←成長?)
しかしまあ、我が子が何かを出来るようになる、というのは親にとって非常な快感でございまして、その快感を味わうべく子供らにあれこれやっていただいているわけですが、これを「子供のためだから」とがんばっている親御さんが時折いらっさる。実は私は「そうゆうことを正々堂々と言う人」が嫌いです。体に関することは別だと思いますが、やはり
「子供のため=自分のため」
なんじゃないかなあ、と私は思っております。我が家の上3人は最近小学生バンドに参加しまして、長女はギター、次女と長男はキーボードを弾いてます。「音楽は一生遊べる趣味だから」とかなんとか「子供のため」の理由も掲げてはいますが、やはり思春期前の子供に「やらせていること」というのは、基本的には「親の押し付け」であるということも自覚していないといかん、と思ってます。まあ我が家の場合は「それ」が「お勉強」ではないので、まだ罪は軽いかな、という気がしますが。
ところで長女にギターを買ってやる時に、子供用のエレキギターがなかなか見つからず、結局フェルナンデスのZO-3ギターを買ってやったのですが、やはりネックが太くて弾きづらそうだなあ、と思ってましたらその後、日本で唯一子供用のエレキギター、エレキベースを作っている会社があるというのを知り大変に悔しい思いをいたしました。ここで買えるのですが、造りもしっかりしていていいものだそうです。なんでネット検索で引っ掛かってこなかったんだ、シマムラああああああ!!
「子供用」を「キッズ」って言うの禁止
そういえば最近Yahoo!オークションに出品した子供用のスケート靴、スノーボード、スキーが非常に高く売れました。保管場所があるのなら、今の時代、道具は「ある程度のもの」を買って、ワンシーズン使って、次のシーズン前に売るのが結局一番安いです。こうやって個人の間でモノがガンガン売り買いされているのですから、当然景気が回復しないわけですな。
それでは今日はこの辺で。次回はいつだ、いつなんだあああああ!!(今回は絶叫モードでお送りしました)
北海道にもようやく例年並みの気候になりまして、スキー場も続々オープンし始めました。年末にスキーに行く予定でホテルをもう予約してしまっていたので、ほっとしております。今年は子供の足手纏いにならないようにがんばるぞー。
さて、サラリーマンの皆様には「ぼうなす」の時期でございますね。今年は明細を見たとたん「なんじゃこりゃあああ」とついうっかりジーパン刑事のモノマネをしてしまった方が全国で推定100万人はいらっしゃったのではないでしょうか。我が家でもあまりの減額に2、3歩後ずさって眠ったように死んでいた、もとい、死んだように眠っていたジュリちゃんのしっぽを踏んでしまったくらいです。給料自体が下がっている上に、あの「厚生年金」とかいうきっつい年貢がごっそりと天引きされてましたねえ。いよいよこれはちょっと困ったぞ?とさすがの日本人も遅すぎる危機感を抱いております。
今さら私が言うことではないのですが、収入が減るということは、景気も回復しないし、少子化もぐいんぐいん進む、ということです。開き直って「老人だけの国」を創る、というのならそれはそれでユニークで楽しいかもしれませんが、どうやらお上はそういうつもりでもないらしい。なんとかしようとしているらしいが、全然なんとかなってないわけですよ。今後なんとかなるとも思えないわけですよ。で、なんとかしようとするならば、とちょっと考えてみますと、この状態を抜け出すための唯一の手段、それは「増えすぎた老人を駆除する」しかないのではないか、と誰もが思っているけどちょっと人間として口にしにくい結論に達してしまいました。シカでもキツネでも「人間の生活を脅かす生き物」は駆除されるものです。ここはひとつ、イラクに大量の老人を派遣する 今私が考えた「野垂れ死にキャンペーン」を国を挙げて展開していただきたい。
「野垂れ死に」というのは望ましくない死に方であると思われていますが、この場合、食べる物がなくなって、じっと寝ている間に徐々に衰弱してついには死を迎える、という死に方のことを指します。見ている方は辛いですが、それじゃあ病院で出来るだけの手を尽くしてもらって死ぬ方が楽か?幸せか?と考えると、死んでいく本人にとっては、おそらく、ゆっくりと自然な「衰弱死」の方が楽だと思います。人間の脳と言うのは非常によくできているもので、人間の限界を超える負荷が体や精神にかかった場合、それをなんとか「誤摩化そう」とします。ですからこういう自然死の場合、おそらく我慢できないほどの苦しみは感じないのではないでしょうか。死んだことないけど。もちろん病気がある場合は痛かったり苦しかったりするでしょうけど。
国家予算で全国各地に「前方後円墳」など古墳を象った「野垂れ死にセンター」を建て、親しみやすい愛称を一般公募し(“うばすてーる”とか)、「静かに、自然に、シンプルに(3S)」「どうする?のたれる?」などのキャッチフレーズで「野垂れ死に」がいかに素晴らしい旅立ちであるかを国民に熱心に啓蒙し、一大ムーブメントを起こすわけです。このあたりは情報操作すれば日本人はあっという間に流行に乗ってくるはずなので大丈夫。で殺到する希望者を順次そこに送り、老人を徐々に駆除していく、と。年金も医療費もだいぶ楽になるでしょうなあ。入院するのにベッドの空き待ち、なんつー腹立たしいことも減るでしょう。生活が楽になった若夫婦に「もうひとり、いくか?」の定番ギャグが復活することでしょう。
で、ここからが肝心なのですが、将来「野垂れ死に」を希望する人は、全く払わない、というわけにはいかんでしょうが、年金額を大まけにまけてもらうことも可能にするのです。将来年金はもらわず、自力で食べていけなくなったら、「うばすてーる」に入ります、という契約を国と結ぶわけです。だいたい、現時点で年金を「払えてない人」もいるわけで、もちろん「年金はもらえない」こともわかっているはずですし、ですからそういう人は無意識にでも「野垂れ死に」を覚悟してるんじゃないの?と思います。私も、死が決定的になった時点で「家での自然死」に挑戦してみたいと思ってます。ちょうど自宅で出産したい、と思うのに似てますね。出産は子供に何かあったら、というのが心配ですが、死んでいく場合は「これ以上のこと」は何もないわけですから安心です。
こんなにいいアイデアなのに、もちろん人道上の理由から実現は無理です。でも貧しい国では年を取ったり病気をしたら「野垂れ死に」が当たり前だし、道端で死んだからといって「人間らしくない」わけではないです。「野垂れ死に」を忌み嫌わず、先進国には先進国の「積極的な野垂れ死に」があってもいいんじゃないかと思います。普段忘れていますが、そもそも「生き物の死亡率は100%」なわけですからね。
そういうわけで、ウチの「ぼうなす」は、ぱあっとなくなってしまいそうですが、別にいいんだもんね。まずは「デジタルドラム」を買うんだあ、わーいわーい。(←野垂れ死に決定)(←いや、2万円くらいだし)それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
ご無沙汰でした。2004年初の常識です。もう2月も終わりそうですが、今年もよろしくお願いします。
こないだラジオで聴いた話ですがどこかの新設の中学校の名称を決めるのに「北アルプス中学校」という候補があがり、「おお、それは斬新でよい」と決まりかかったのが、「略すと“アル中”になる」という理由で却下になったとか。いや、いいのにねえ「アル中」。入学したいですよねえ。卒業はしたくないけど。
で、その話をダンナにしたところ
「群馬には“万場高校”というのがある」
ああああ、入学したいいい。日本のどこかに「ちんこう」もあるんでしょうか。もしあるのならぜひとも「まんこう」と姉妹校、いや、「めおと校」に!
さて、かわいらしい話題に心がなごんだところで、とりあえず皆様にはちょっと報告しなければならないことがあります。「雄大な北海道の大地で4人の子供を育てるお母さん(アル中)のぺえじ」として私のHPを紹介してくださる方が多いのですが、このたび子供を連れて東京板橋の実家に戻ることにいたしました。引っ越しは縁起のいいエイプリルフールを予定しております。
「やりたい放題の挙げ句、ダンナに愛想を尽かされた主婦(アル中)」という肩書きも魅力的ではありますが、残念ながら離婚ではなく、私の野望のひとつである動物病院の開業、その実現のためのUターンであります。新規開業後、生活のメドがつくまでは、とダンナは北海道に残り、現職をとりあえず続けてくれることになってます。
夫婦が別れて暮らすことに対する不安。これは私が人生をナメているからか、ほとんどなく、むしろ「別居も楽しいぞう」と楽しみですらあるのですが、北海道育ちの子供らをいきなり東京に放り込むことへの不安。これはやはり多々あるのです。中でも、もし、4人のうちの誰かが、私に似てものすごく頭がよくて、大学へ行くことになって、「きょうだいが多いから、親の負担を少しでも少なく」とか気を遣ってくれちゃって、一番近い国立大学にしよう、とか言って、あっさり東京大学に入っちゃって、近所のおばさんに「お子さんは大学生?どこの大学なの?」とか聞かれたら、どんな顔して「東大」と言えばいいんだああああ!!!
というのが一番の心配事なんですけど。(←逝ってよし)(←やっと遣い方がわかった)
冗談(目は真剣)はさておき、東京への引っ越しを子供達に告げた時、1年生の時に一度転校を経験している5年生の長女はぽろりと涙をこぼしまして、まあ5年生ともなると女の子はすでに思春期の入り口ですし、友達とも密接な関係ができあがっているのでしょう。このまま北海道に住んでても結局はお父さんの転勤でまた転校だよ、東京に行ったらもう転校しなくてもいいんだよ、と説明しまして、もちろんそういう理屈はわかってくれているとは思いますが、やはり辛いものでしょう。私は転校の経験がないのでわかりませんが。
「子供は新しい環境にすぐに慣れる」
という常識を祈るような気持ちで信じるしかない今日この頃です。ちなみに次女も少し不安そうな顔をしましたが、「東京に行ったら机買ってあげる!」というひとことで顔が輝きました。ダンナが使ってた机を長女がほぼ独占してるもんで、次女はかわいそうに小さなちゃぶ台に、長男が保育所で造った歪んだ本棚乗せて「マイデスク」にしているのです(←買ってやれよ)。さぞかし「新しい、自分の机」は嬉しいことでしょう。長男と末っ子は「ふーん」と特にうれしくも悲しくもない様子でした。ま、まだ状況がよく分かってないんでしょう。中に膀胱が入った腹壁ヘルニアがチャームポイントのジュリちゃんからは「ぐにゃん」という喜びのコメントをいただきまして、晴れて「出戻れる」のが嬉しくてたまらない様子。今は我が家で低タンパクの処方食を与えていますが、たぶん実家に帰ったら両親が甘やかしてホタテとかエビとかやってしまうに決まってるので、ちょっと寿命は縮んじゃうかも。で、その両親はと言えば「あつよが子供連れて戻ってくるのよ」と嬉しそうにあちこちに言っているそうです。普通、世間一般常識としては「娘が子供を連れて戻ってくる」=「離婚」を意味するもんだし、そのあたり誤解されてない?大丈夫?と母に聞きましたが、母は、たぶんいちいち詳しい事情は説明してないんでしょう、「いいじゃないの別に」と平気な顔。ま、私も別にいいですけどね(←親子だなあ)。
そんなわけで、我が家には今「黒い小型肉食獣」のマークのついた段ボールが大量にあります。大手の引っ越し屋さんって段ボールまで持って来てくれるんですね。まだ荷造りはしてませんが、iBookとAirMacは買いました(←引っ越し準備?)。東京に行ったら「光」だ、ワイヤレスだ、わーいわーい。あと、かねてより懸案の「淳代の会」の初ミーティングも決行したいので、東京近辺の「淳代」さん、よろしくお願いいたします。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。北海道は雪が降ったり暖かかったりを繰り返しながら少しずつ春へと向かっております。もうすぐ私の北海道生活も終わりだなあ、としみじみ・・・するヒマもなく、相変わらずのスピードで時間が過ぎ去って行きます。そんな日々の最中、予想を裏切る早い更新。「今日の常識」へようこそ。
BBSの方には書きましたが、今年もインフルエンザに攻め込まれまして、末っ子、長女、私、ダンナの順にやられました。そのせいでゴスペルの最後のステージに立てませんでした(泣)。少しくらいの風邪なら薬飲んでなんとか乗り切れるのでしょうが、インフルエンザにはもう全面降伏しかないですよね。灼けるノド。塞がる気道。きしむ関節。回る世界。あのインフルエンザウイルスというのは我々の体の中で具体的に何をしているのでしょうか。やっぱり槍を持ってあちこちをつついているんでしょうか。不思議です。そして昨年も今年も我が家でただひとりインフルエンザに罹らない次女。長女が行った「缶の中に咳をして、それを次女に吸わせて、インフルエンザが伝染るかどうか」というシャレにならない「聖なる実験」にもかかわらず、ひとり元気に学校へ通っていた次女。彼女の体には一体どんな秘密が!?
昨年夏から参加していた地元の矢沢永吉コピーバンドも最後のステージを7日に終えました。我が家の上3人も小学生バンドとして出演しまして、メンバー紹介の時にワンフレーズずつ弾かせたのですが、これが大人にウケた。ギターの長女には「Smoke on the water」、キーボードの次女と長男にはそれぞれ「Imagine」と「Jump!」のイントロを弾かせたのですが、この手の「来た来た感」の高いイントロってあらためて素晴らしいなあ、と思いました。子供にもすぐ弾ける、簡単なフレーズであるところもポイントです。観にきてくれた30代以上の方々に「なんか嬉しくなった」と喜んでいただけまして、プロデュース(“仕組んだ”とも言われた)した私も嬉しかったです。弾いた本人達は原曲を知らないんですけどね。あ、「イマジン」は「ジョン・レノソ」で子供達にもお馴染みか。あなたの「来た来た度ナンバーワンのイントロ」がありましたらぜひ教えてください。
さて受験シーズンも終わり、受かった落ちたという話があちこちで聞かれる今日この頃。ふと高校受験の頃の自分を思い出しました。私は東京の杉並区にある「日大鶴ヶ丘高校」の出身なのですが、ここを選んだ理由は「日大の獣医学科に推薦で入れる可能性がある」のと、もうひとつ「共学である」という点でした。女子高には絶対行きたくないと思っていました。「女の世界」が非常にイヤ、というよりは怖かったのです。
「“女の世界”は怖い」
私の住んでいるところは競走馬の産地ですが、生産牧場にいるのはメス馬ばかりで、そこにはやはり「女の世界」があるのだそうです。生き物が集団生活を営む場合、オスというのは基本的に「自分の世界」を求めて出て行くか、あるいは「厳密な順位」を構築するので、平和な時は基本的に争いませんが、メスというのは非常に日常的な部分で小競りあう本能を持っています。オスの戦いが命がけの戦いであるのに対し、メスの戦いというのは要するに「いやがらせ」「意地悪」です。女性なら誰しも同性にイヤなことを言われた経験があるでしょう。別段目立つ容姿や個性を持っていない女性であっても、なぜか目の敵にされたりすることがよくあります。このような「女の世界」を観察していますと、いくつかの法則があることに気付きます。
「女はごく身近な女性と張り合いたがる」
不思議なもので、たまーにしか会わない相手とは、たとえ相手がどんなにうらやましい生活をしていようとも、張り合おうとは思わないものです。ものすごく気に喰わない相手でも、距離を置くようになると徐々にその不快感がなくなります。「親友」にみえる仲のいい女の子同士が、実は「いじめ、いじめられ関係」や「ライバル関係」にあることは珍しいことではありません。同じ空気を吸って、同じ世界に生きている、年の近い女性。これこそが「女の世界」を作りあげる要素なのです。女子高などはまさにそのもの。おおこわ。
「“女の世界”は男性の目の届かないところで繰り広げられている」
女の根性の悪さというのはなかなか男性にはわからないものだと思います。それはその「根性の悪さ」が非常に巧妙で、男性には気付かれない場所で、あるいは方法で、日々小分けで発揮されているからです。しつこいですが、やっぱり女子高は「ザ・女の世界」。お母さん、こわいよー。
「“女の世界”に巻き込まれない人は一生巻き込まれない」
意地悪されても気付かない、皮肉を言われても気にしない。こういう人は「イジメ甲斐」がないので、それ以上いじめられません。女性特有の「うわさ話」に興味のない女性、周りを気にせず我が道を行く女性、突出し過ぎた個性を持つ女性、こういった女性は主婦になっても子供を持っても誰かに嫉妬されても陰口を叩かれても「女の世界」に巻き込まれません。これは、女性として生きていく上で非常に楽だしラッキーなことだと思います。
さてところで「女の世界」は前述したように本能に根ざしていますから「女が集まる場所」には必ず出現するはずです。一番分かりやすいのは「姉妹」や「嫁姑」で、これは複数の女が一つ屋根の下で暮らしている限り永久に不滅でしょうが、昨今の家庭外のサークルなどでは、進む個人主義のおかげなのか、「そこまで仲良くない」ということなのか、女性同士集まって、本当に仲良くお話しして、じゃあまたネ、という集団もあるんじゃないかと思うのです。でもそういう集まりってきっと「面白くない」んじゃないかとも思います。
「ドロドロしてこそ、女」
女性が複数集まり、仲良くなればなるほど、絶対に裏で何かを言う人が出てきます。それはその「裏でごちゃごちゃ言う人」のせいではなく、女性は「そういう」社会しか作れない、ということではないでしょうか。今現在、そういうのに巻き込まれていて、うんざりしている人がいたら、それはもうごくごく自然なことなのだ、と割り切りましょう。私自身、あまり巻き込まれる方ではないし、適度のもめ事はそれほど嫌ではないのですが、やはりあまりにもこじれたり、長引いたりすると「だーっっ!めんどくせえええええ!!」と叫びたくなることがあります。でも女である以上、全く「女の世界」を避けることは不可能だし、思いきって巻き込まれてみると、たぶん「対人スキル」が上がると思うので皆さんもがんばってみましょう。
ところで、最近増えてきた「オネエキャラ」が女性に嫌われないのはなぜなのでしょう?見た目がまるっきり女であっても、ニューハーフの方が「女の敵」になりえないのはなぜでしょう?「オカマの世界」は「どんな世界」なのでしょう?このあたり、考察したいと思ってます。情報求ム(←ここをカタカナにするのはなぜでしょう?)
それでは今日はこのへんで。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。3月に入ってから飲み会を10回こなしたあつよです。さすがの私もこの「金土日、金土日、金土日」というスケジュールには生命の危険を感じまして、飲み会のない日は絶対禁酒、ウコン配合の胃薬(この薬とてもよかったです)を一日4回服用するという健康管理が功を奏し、過酷な「送別会地獄」を見事乗り切ったのであります。いえ、もちろんここまで送別しまくってくださった各方面の方々には本当に感謝しております。ありがとうございました。あと1回飲み会が残ってますので、がんばってね>あつよ胃。
さて4/1の引っ越しまであとわずか。ひととおり「懐かしいもの」に時間を取られた後、本格的な荷造りに突入しております。何年もしまいっぱなしで、結局捨てる物の多いこと。前回の引っ越しの時も実感いたしましたが、
「しまってあるものは、なくてもいいもの」
なんですってば。子供らにも荷造りをさせていますが、「それが自分の人生に本当に必要なものかどうかよーく考えなさい」「人生に必要なものはそんなに多くないはず」となるべく物を処分させようと目論んでいます。その結果、上3人はわりとポイポイ物を捨てるのですが、末っ子がどうやら「捨てられない症候群」のようで、射的の景品とか雑誌の付録とかもう「ゴミにしか見えないもの」をなんでもかんでも「すてずにつかうっっ!」と頬を膨らませて強く主張するので笑ってしまいます。きっと包装紙とかリボンとか紙袋とか大量に溜め込むババアになるのでしょう。
しかしながら、引き出しを開けるたびに「これは私の人生に必要か否か」と物を選り分けるのも結構な手間でして、結局スピーディーな荷造りのコツは「考えないこと」だなあ、とまた新たな悟りを得ることができました。でも物が減るのが引っ越しのいいところであるのは確かなので、迷った物はなるべく「捨てる」方向で行きたいと思っております。
さて今回の引っ越しは「実家に戻って開業準備」「ダンナを置いて帰る」というところが世間の興味を惹くのでしょう、少々のウワサになるのは覚悟の上ですが、どうやら巷では我が家に関する驚くべき情報が流布しているらしいとダンナが聞いてきまして、その、真実とのあまりのかけ離れ方に腹を抱えて大笑い。その情報によりますと、
実は私は大金持ちのお嬢様
東京に何億円もかかった二世帯住宅が出来ている、もしくは建設中
その二世帯住宅の1階に動物病院
4人の孫たちにはそれぞれ個室が与えられる
ダンナは私の実家のガソリンスタンドの社長になるらしい
「ウワサ話には尾ヒレが付く」
かくいう私も聞きかじったことや目にしたことから憶測込みで人に話をすることが多く、なによりも「話を面白くする」という情熱にあふれているもので、結構そういう「間違った情報」のソースになっちゃっうこと多いです。しかし考えてみると「ウワサ話」というのはあくまで「娯楽」であるわけですから、情報を正しく伝える必要は必ずしもないわけですな。
しかし今回の情報の中に「実は離婚」とかいうのがないのが残念。あってもさすがに本人には伝わらないか。
というわけで、荷造り最中の気分転換更新なので今日はこの辺で。東京に帰ったら「携帯電話はアドレス帳を見ながらかけるのと、受けるのしかできない」という父親にパソコンを教えなくてはなりません。私はWinはよくわからないのですが、なんとかなるかな?というわけでいつになるかわからない次回は20年ぶりの東京都民「あつ〜よ」(←ちょっと都会っぽくしてみました)が更新します。お楽しみに。
皆様こんにちは。ご無沙汰アンドご心配をおかけいたしました。無事、いや、いろいろありましたが東京に戻って来て2ヶ月が経ちました。いったん職には就いたものの、人生で初めての「挫折?」を経験しまして「この私が」半壊状態。結局1ヶ月ほどでギブアップ。現時点での身分は「家事手伝い(ビール付)」のあつよでございます。とりあえずHPの更新が出来るくらいに元気にはなりました。今回も「鍵括弧を多用した文章」でお送りいたします「今日の常識」へようこそ。
ま、最も大きな原因は「職場との相性が悪かった」ということだと思うのですが、原因がたった一言で単純に表現できるのに対し、その原因が引き起こす現象は非常に多彩で複雑でありまして、それはなぜかと言えばもちろん「人間が関わっているから」なのだと思います。「私にとって」不可解で不条理な出来事が実にたくさんあって、そのストレスに私は耐えきれず「不眠症」になりまして、初めて「精神科」というところに足を踏み入れました。このご時世ですから「精神科」にまるで抵抗はありませんでしたし、全くためらいなく「精神安定剤」をもらって服用し、現代医学の恩恵を存分に受けることができました。本当に、これほど薬をありがたく感じた事もなかったですね。キツかった分、人生の勉強になりましたが、結局私はそこから「逃げた」わけで、精神的に本当の意味での「タフさ」が獲得できたかは怪しいと思います。ま、おそらく今回は「逃げるしかなかった」と思いますし、苦労知らずで精神的に弱いという「自分」を知る事ができただけでもヨシとしましょう。薬もすぐに必要なくなったし、これで飲みネタも増えましたしね。「精神科初受診」はなかなか楽しかったので、またあらためてエッセイに書きたいと思います。
で、今の私は何をしているかといえば、家事と物置の整理と父にパソコン教えるのと、2月で65才になった母の「年金受け取り☆大〜作〜戦!」を展開中でございます。年金ってウワサ通り「払うのはカンタンで受け取るのは超大変」っぽいです。社会保険事務所もウワサ通り混んでます。母には私が付き添っているので大丈夫ですが、あの煩雑な手続きを脳細胞カウントダウン状態の高齢者が理解できるかなあ?と心配になります。逆に、あの煩雑な手続きを脳細胞カウントダウン状態の高齢者に説明する、年金相談の係の方も大変だなあ、と思いました。
「社会保険事務所の年金相談係はゴキゲンななめ」
我々もなかなかに感じの悪いおっさんに当たったのですが、ああいう態度になるのもわからないでもないです。ま、今の65歳は人にもよりますが、ほとんど「高齢者」って感じじゃないですけどね。でも手続き面倒で途中で「もう年金なんかいらんっ!」ってキレちゃうじいさんも絶対いそう。
さて「田舎の子供」から「都会の子供」になって2ヶ月の我が子達ですが、今のところ目立った問題もなく、楽しそうに学校と保育園に通っております。上3人は私の母校に通っていますが、幼なじみとPTAで再会し「ああ、生まれ故郷に帰って来たんだなあ」としみじみ思いました。ゴミゴミしていて、騒音だらけだけどなぜか感じる居心地の良さ。夕方の商店街の人混みに揉まれつつ八百屋さんの威勢のいいかけ声を耳にすると遠い子供時代を思い出します。短期間にいろいろ辛いことがありましたが、「東京に帰ってくるんじゃなかった」とは微塵も思いませんでした。
「生まれ故郷というのは人にとって“特別な場所”である」
生まれ故郷に対してマイナスの感情を抱いている人もいるでしょうが、それはそれで「特別な場所」であることに変わりはないのだと思います。当然我が子たちの「生まれ故郷」は北海道になるわけで、ゴミゴミして騒音だらけの都会に連れてこられた彼らは「北海道に“帰り”たいなー」と時々思っているのかも知れません。大人になったら自力で北海道に「帰る」ヤツもいるかも知れませんね。原風景が北海道にある、というのは人間としてなんかとっても「いい感じ」なんじゃないかな、と勝手に思ったりしますが。
さて実は私の他にもう1匹、「やっぱり生まれ故郷はいいなあ」と思っているらしい猫がいまして、実家で羽を伸ばし放題の彼女はまた以前にも増してお達者なご様子。毎朝決まって5時過ぎに「あ〜さ〜ご〜は〜ん〜」と母を起こすそうです。父も母も予想通り、腎臓に負担のかかりそうな、しょっぱい魚やかまぼこなんかをちょこちょこ与えていますが、「もう先が短いんだから、おいしいものだけ食べて死にたいよ、ねーっっ!」と高齢者同士で意気投合されると私のような若造には何も言えないんですけども。
先日両親が食事中に「みーんな死んじゃうねえ」「死んじゃうねえ」という、その年齢にならなければ絶対に出来ないであろう会話をしてまして、私は大笑いをしていたのですが、考えるとまだ65なのにそんなに周りの人が亡くなっているというのは、日本の平均寿命を考えるといささか早かないでしょうか。ま、都市部の人はいくらか寿命短いのかもしれませんが、その後ちょっと考えて、60過ぎというのは「ヤマ」のような時期ではないか、と思いました。定年後、しばらくして、という人って多くないですかね?その「ヤマ」を越えると、しばらくは大丈夫、みたいな。私の両親はおかげさまで二人とも病気知らずで、まだまだ大丈夫そうなんですが、「我々の年になったらいつ何があってもおかしくないからねえ」と嬉しそうに言うので「逝くときはぜひぽっくりと」と頼んであります。本人たちももちろん「ぽっくり」には憧れを抱いているようです。
「ぽっくりなら心臓」
「めざせ急性心不全!」今年の七夕には短冊にそう書いてもらうことにしましょう。その頃には私も新しい職場でがんばって、るといいんですけどねえ(←弱気)。しかし「ぽっくり」ってその形容詞というか擬音はいったい何を、どんな状態を表現しているのでしょうか?ご存知の方教えて下さい。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様お暑うございます。北海道仕様にマイナーチェンジされた体にこの猛暑は堪えますなあ。一体なんの罰なのか、小学校のプールは補修中で、子供らはこんなに暑い夏休みなのにプールなしでございます。今日の常識(猛暑バージョン)へようこそ。
まずはオフ会のお知らせなど。8/2(月)19:00より新宿で「摂氏39.5オフ 〜100点満点のビールを飲もう〜」(サブタイトル付きかい)を開催いたします。今回は中年子持ちサラリーマンが中心なので、リストラとか歯周ポケットとか娘と何才までお風呂に入るかといった話題で激しく盛り上がる予定。参加者は今の所私を含め5人です。参加希望の方はお気軽にメールください。
さて今年の4月。上3人が私の母校に転入して間もないある日のこと。私は子供らに「キミたち、今度のクラスの出席番号は何番かね?」と顎をさすりながら問うてみました(←誰?)。我が家は「アンドウさん」なので、1番2番あたりがレギュラーポジションなのですが、次女、長男がそれぞれ「1番」と答えた後、しばらく考えていた長女がなんと「5番」という予想だにしない天文学的数字を口にしたのです。なんでも「アカヌマくん、アキヤマくん、アサヌマさん、アンドウアカネちゃん」の4人が長女の前に立ちはだかっているのだそうです。ちなみに長女のクラスは26人。クラスの5人に1人が「アの人」というとんでもなく偏ったクラスであるわけです。これでは“誰もが認める日本のマジョリティ”「サ行の人」や“目立ちはしないが結構いるぞ”「タ行の人」の面目丸つぶれではないですか。おそるべし6年1組。
そんなことがきっかけで、しばらく「出席番号と人間形成の関係」というテーマで考えておりました。今日は久々の哲学モドキでございます。皆様のコメントも楽しみですね。
長男は小学校の入学式で記念品を受け取る代表を勤めました。もちろん「出席番号が1番だから」です。そしてこれは大きな勘違いですが、母親である私はなんとなく「自分の子供が偉くなった」ような気がして嬉しかったのを覚えています。出席番号1番というのは、このように学校生活で「目立つ機会が多い」と言えるのではないかと思います。同様に「1番最後」のワタナベくんやワダさんも、先生の「今日はうしろから行こう」のひとことで「切り込み隊長」になることがしばしばあるかと思います。これらの子供たちは、いきなり、一番最初に、みんなの前で発言する機会が他の人より多いのはおそらく確実で、そういう「境遇」がその子の人間形成にいくばくかの影響を与えるのではないかと推察します。
たとえば、目立ちたがりで、人前に出るのが嬉しくて仕方のない子供は「1番」の立場を楽しむでしょうし、逆におとなしくて人前が苦手な子供は「1番」を苦痛に感じることでしょう。そして長じて、仲間と居酒屋で飲んだくれる時、酒の肴にそんな思い出話をするりっぱな日本の大人になることでしょう。
私は「出席番号時代」を「スズキさん」で過ごしまして、小学生のときは、出席番号でも、背の順でも、本当に「ど真ん中」の気楽な立場でございました。時々、担任の先生がお休みで、校長先生や教頭先生が臨時で授業をして下さる時、必ず「名簿」を見て「じゃ、アイダくん」とウサギのような顔をしたおとなしい「アイダくん」を一番に指し、当然覚悟はしていただろうになぜか毎回おどおどするアイダくんを見ながら「ああ“スズキ”でよかった」とご先祖に感謝したものです。
「日本人は真ん中が好き」
寿司とかうな重とか、結婚式とか葬式なんかも、ランクが付けられてしまうと一番下でも構わないのになんとなく「真ん中」を選ぶ文化が日本には確かに存在します。「真ん中=無難」であり、それは「安心」と「納得」を提供してくれることになっているようです。出席番号や背の順でも、私は一番前や一番後ろになったことがないのでわかりませんが、はじっこより真ん中の方が居心地がいいような気がします。
さて「出席を取る」という行為がいまだに全国の小中学校で行われているか不明ですが、あれにはなんと表現していいかわからない、一種「読経」に似た「リズム」というか「グルーヴ」があったように思います。はじめの方に呼ばれるア行人たちは、「あ」の持つ大らかで力強い響きのためか、好むと好まざるとに関わらず「元気よくスタート」の「いい子」役を仰せつかり、カ行人はア行人が発した「ノーテンキな明るさ」を「やれやれ」というニュアンスを含む「子供らしからぬ落ち着き」をもって消し、情けない音色のサ行や単純な音のためか聞き流されやすいタ行の「その他大勢」は7分目くらいのテンションを無難に維持。そんな「ぬるいムード」を一撃で壊してくれるのが個性の人、ナ行人。先生の声もここらでいったんトーンが上がることが多い。その後にひかえたハ行マ行の人たちは、彼ら自身は決してそんな器ではないにも関わらず、ナ行人の発する強烈な波動に共振するのか、前半にはなかった混沌としたムードを創りあげる。それを締めくくらねばならないヤ行とワの人は「いつもいつも最後まで名前を呼んでもらえないこと」への不満と抑圧されたエネルギーをここぞとばかりに発散。途中どうなることかと思った「出席」はいつもこうして平和な「収束」を迎えるのでした。なんだそりゃ。
「この宇宙は“あ”から始まった」というよくわからない理屈をどっかで読んだことがあります。アンドウ アツヨさんである私は非常に印象深くこの説を覚えているわけですが、50音それぞれを発音する場合の口の形や音の強さ、その響きは、やはりなんらかの「力」を持ち、それを個体識別の記号として与えられる我々人間にそれぞれに違った「個性」を与えていても不思議はないな、と思います。ま、私は知らんがそういう占いもありそうですし。
「出席番号」とはちょっと話題がずれてしまいました。いつも冷静沈着、頭脳明晰なあつよさんらしからぬ失態ですが、この猛暑ですもの、仕方ないですわね(←誰?)。
ほんでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
31日にダンナがこっちにくる予定なので台風の進路が非常に気になる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。長かった夏休みももう終わりですね。この夏は千葉の白浜町に2回遊びに行きましたが、白浜の隣、千倉町の観光ショッピングセンター「潮風王国」にあるという「牡蠣やサザエのUFOキャッチャー」をやることができなかったのが私の「この夏やり残した事」のひとつです。しかしそこでゲットした牡蠣はその場でこじ開けて食べちゃっていいものかどうか、「この場で召し上がらないでください」とか注意書きがしてあるのか、そのあたりが非常に気になります。さらにそういうのがアリならば「カメのUFOキャッチャー」「ヒヨコのUFOキャッチャー」「子猫のUFOキャッチャー」などもあったら嬉しいなと妄想の中で軽く動物を虐待してみる、そんな「夢見る獣医師」あつよがお送りします。今日の常識へようこそ。
ご存知の方も多いかと思いますが、難病と闘う子供たちの夢を叶える「メイク・ア・ウイッシュ」というボランティア団体があります。本部はアメリカで、日本にも支部があり、「イルカと遊びたい」とか「ウルトラマンと一緒に戦いたい」といった子供たちの夢を実現し、病気の子供たちに生きる力を与えたい、という趣旨で活動をしているそうです。先日この団体の活動に関する記事が朝日新聞に載っていまして、興味深く読みました。かなった夢の中には「トトロのお腹でジャンプしたい」とか「世界一大きいカブトムシに触りたい」といったいかにも子供らしい夢もあれば「北島三郎さんと“与作”を歌いたい」「遠山の金さんにお白州の上で裁かれたい」という少々マニアックな夢もあり、もちろん大喜びしていた私ですが、きっとこの「夢」を抱いた子供は男の子だろうなあ、と思いました。
「男の子はヘン」
もちろん「女の子と比べて」「母親にとって」ということで、同類の「父親」は息子をそう「ヘン」とは思わないのかも知れませんが、男の子を育てている母親は、しばしば奇想天外摩訶不思議な世界に誘われます。男の子の見ている世界と女の子のそれはまるで違うものではないか、と時折思います。男の子は「ん!あれはなんだ?!」と思うとその対象物に瞬時にフォーカス、ロックオン状態で突進して行きます。身の危険を察知しそれを回避する能力が非常に未発達で、放っておくと「自殺未遂」ばかりするので小さい男の子の母親は気の休まるヒマがありません。女の子が幼児期から「周囲と自分を対比してみる」という能力に長けているいるのに対し、男の子はそういうことにまるで頓着しない。だからこそ男の子は「面白い」のですが、この辺りを理解していないと母親は「ウチの息子ヘン」「周囲と足並みを揃えられない」と悩むことになります。大丈夫、男の子は皆「バカでヘン」です。ちなみにそのまま大きくなるので、「オトコ」という生き物も基本的に「バカでヘン」だと思って間違いありません。そう思ってみると世の中のいろんなことに納得できるかもしれないので、ぜひお試し下さい。ちなみに、
「女の子は意地悪」
男の子女の子両方を育ててみての感想であり、確信です。「バカ」と「意地悪」が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね。
さてBBSの方には書き込んでいたのですが、2ヶ月ほど前から川崎にある先輩の動物病院で週2回バイト獣医をしております。子供の事や両親の都合などで、前の病院を辞めてから「フルタイム勤務はムリ」と判断しパート先を探していたところ、タイミングよく声を掛けていただきました。気心の知れた先輩が院長で、さらに前の病院とはまるで別世界の雑然とした院内。あらゆるものが出しっぱなしやりっぱなし。カルテがあちこちに散らばるので、それを探すのにいつも一苦労ですが、おおざっぱな私には非常に居心地のいい病院でございます。逆に、きちんとしたい人には耐えられないだろうなあ、とも思いました。
「人間も動物も棲み分けるべきである」
「自分に合った環境」を見つけ、そこに「居場所」を作る。それができるかできないかで人生の「快適さ」は大きく変わってくるのですね。しかしながら昨今の若い人達の(もう若くない人も)「自分探し」とやらを見ていると「ある時点で妥協することも大事」「少々のガマンも大事」とも思います。
さて新しい病院には、私と同じ研究室の15年(!)後輩である男性獣医師と、トリマーや看護士として若い女性が4人いまして、冗談でなく「年が半分」くらいの女性と一緒に仕事をしているわけですが、彼女たちが人生や人間関係について、ぴーちくぱーちくとおしゃべりしているのを聞いていると、なんとなく私はそれを「鳥瞰」しているような気分になってくるのです。そうそう、うん、20代ってそういう年頃だよね。いろいろ理不尽なこともあるけど、悩むのは悩まないよりよっぽどいいんだよ。いっぱい悩んで、優しい大人になりなさいね、うん。とまあ、こんな感じ。時折コメントを求められるので、答えると「なるほどーーー!!!」と感激されたりして大変に気分がいい。ま、うんと年上なので気を遣ってくれているんでしょうけど。
「亀の甲より年の功」
人生は「Q&Aの連続」のようなもの。長く生きていればそれだけ「回答の在庫」も増えていくわけですね。そんなわけで、新しい病院で、私は「知恵袋」としての確固たる「居場所」を築きつつあるのでした。
ところで、前回のオフで「次は麻雀オフを!」という話が出まして、大学時代は酒と麻雀とパチンコという「男子学生のような青春」を送った私としてはかなり前のめりで善処したい企画なので、ぜひ実現したいと思います。自称「雀鬼」さん、「竜」さん、「哲也」さん、若い頃「“目が痛い”と言って勝ち逃げする女」として鳴らした私と対戦してみませんか。高田馬場の「たぬ」にも一度行ってみたいし。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
(↑これですべてを理解したあなたは心の友)
と言う訳で今月はナンジャタウンに全身全霊を打ち込んでおりましたあつよです。スーパーナンジャビザを完成し、ようやくナンジャマニアになれましたが誰も背中をばんばん叩いてほめちぎってくれません。いいおばさんがひとり窓口で元気よく「ナンジャラー!」と挨拶しているのに誰も滂沱の涙を流しながら拍手喝采してくれません。こんな世の中はなにかが、どこかが間違っているのではないでしょうか。日本人は本当に大事なものを忘れてしまっているのではないでしょうか。今日の常識へようこそ。
ナンジャタウンは池袋のサンシャインシティにあるのですが、ここは我が家からバスで10分ほどの距離にあります。子供らを送り出してからナンジャタウンにバスで向かうのですが、この「平日午前中のバス」というのは「乗客の平均年齢が極端に高い」という特徴がありまして、乗り込んで車内を見渡すと思わず「こ、これはもしや、あの世行きのバス!?」と勘違いしてしまうほどビジュアル的に不吉なことがよくあります。南無阿弥陀仏。そういえばサンシャインシティも不吉な土地に建っているのでしたね。アーメン。
いつものことですが、だあああああっ!とハタ迷惑なイキオイでのめり込んで、すっ、と醒めるわたくし。今月に入ってすでに8回(注:今日は21日)も通っているので大分熱は冷めましたが、なんでこんなにハマったのか。それには理由があります。
数年前、まだ我が家に「ケダモノのような幼児」が複数いた頃、両親と妹たちと、その子供たちという大人数でナンジャタウンに出かけたのでした。今考えればあたりまえなのですが、あそこは「小さい子連れは圧倒的に不利」というテーマパークでして、「ああああ面白そう」「あああああやってみたい」というアトラクションをすべてパスしなければならなかったわけです。おいしそうなエサが目の前にぶらさがっているのに非情にも手に入らない。これは人間にも犬にも猫にも、ネズミにとってすら、過酷なストレスでございます。
そんなわけで、今月の私は数年前の私の雪辱を晴らす、という「反動付き」でナンジャに取り組んでいた、とこういうわけです。マスコットキャラが猫である、というところも私にとってはポイントが高かった。もちろん近所だったのも大きな理由です。「餃子スタジアム」や「アイスクリームシティ」「シュークリーム畑」などきちんと美味しいものもありまして、入場するだけでも楽しめます。アトラクションに限ってはちょっと、いや、か〜な〜り独特なので、好き嫌いがはっきりするテーマパークではありますが、「RPGやアドベンチャーゲームが好き」「謎解きにはちょっと燃えてしまう」「くだらないことに真剣になれる」こんな方にオススメです。ひとりでも十分楽しめます、というか、ひとりの方が楽しめるケースも多いと思いますが、まあ趣味の合う仲間2、3人で行くのが無難でしょう。子供は小学生くらいになればジャマにはなりませんが、本当に面白さが分かるのは大人の方だと思います。ご希望の方には不肖私がガイドいたしますのでお申し出下さい(←まだまだ行くつもりか)。
今日の常識
「おたくは一生おたく」
不治の病に侵されつつ、来月には私もついに40歳!40歳になったらもうバカ笑いとかバカ騒ぎとか泥酔とか二日酔いとはおさらばだいっ!(でもナンジャマニアは継続)それでは「今日の近況報告」はこの辺で。次回をお楽しみに。ナンジャラー!!!
と言う訳で子供らにもスタンプを集めさせ、4人の子供を全員りっぱなナンジャマニアに育て上げたあつよです。母に「そんな母親は見た事も聞いた事もない」と絶賛されました。先日の「おたんじょうび」に「よんじゅっちゃい」になりまして、人生これからだなあ、と夢と希望にあふれております。今日の常識へようこそ。
遅ればせながら「人体の不思議展」に行ってまいりました。会期ももうずいぶん長く、しかも平日だったのにいまだにかなりの盛況だったのに驚きました。月曜日だったので代休らしい小学生もたくさんいたせいか、客層は偏りなく老若男女すべての層という印象で、そしてそこにいるすべての、ごくフツーの人間が全員「好奇心全開」という大変異質な空間でした。その「展示」はなんというかもう、ひとことで表現するなら「ド迫力」でしょうか。全く得体の知れない、いまだかつて遭遇した事のない「何か」が圧倒的な力で迫ってくるのです。あの標本たちに囲まれて「いやあ、人体って不思議だナァ」などというのんきな感想は抱けません。いや確かに人体には数えきれないほどの不思議が存在しますが、あの場所ではむしろ「人体」よりも「人間」の不思議を強く感じました。あの標本を創った人達の情熱が不思議。あの標本にあのポーズをつけた人なんか不思議すぎる。さらに「展覧会のお約束」で出口にはグッズショップがあるのですが、ここがもういやはやなんともどうしたものかという高不思議度。特に標本たちがモデルをつとめているポストカード。いままでの人生を振り返っても、こんなにリアクションに困ったことはおそらくなかった。冗談なのか真剣なのかがまるで読めないので笑うに笑えない。ただただ一方的にその「不思議パンチ」を喰らいながら脱力した薄笑いを浮かべておろおろするばかりでした。とにかく、まだ見に行ってない人はとりあえず行きなさい(←命令)。献体という尊い行為をした標本さんたちと、それに関わる生きた人間たちが織りなすハイレベルな「不思議」を体験できるはずです。
さて「人間の不思議展」にはダンナと一緒に行ったのですが、早いものでダンナと離れて暮らすようになって7ヶ月余が経過しました。時折「(夫婦仲は)大丈夫?」と聞かれたりしますが、現時点ではとりあえず「大丈夫」と答えていいと思います。もちろんダンナがどう思っているかは分かりませんが、少なくとも私は現在の、半月に一度しか会えないという「不倫カップルのような関係」に大変満足しております。
「亭主元気で留守がいい」
というのは、亭主がきちんと稼いでくれて、子供がある程度大きくなり、自分の世界を確立した女房達にとっては心から頷ける言葉だと思います。しかしながら私の気持ちがこの「定説」に全く一致しているか、と言えばそれはそうではない。そこまで「乾いちゃって」はいないのですね。
「男女の仲は障害があると燃える」
というのもこれは確かにその通りであると皆さん認識されていることでしょう。会いたい時に会えない。一緒になりたいのになれない。やりたいのにやれない。これらは互いの存在に上手な「効果線」をつけてくれます。最も手軽で罪のない「障害」が「距離」でありまして、確かに離れてみるとありがたみが増すようでございます。ま、錯覚なんでしょうけどね。
恋人に関してはあまりに離れているとダメになるのかも知れませんが、ある程度「信頼し合っていた歴史」を持つ夫婦に関しては、親子が離れていてもいつまでも親子であるような自然さで、夫婦関係も維持していけるのではないかなあ、と思うのですが甘いですか。
ところで子供らはどうかと言いますと、あれほど「お父さんウザい」と言っていた末っ子が手の平を返したように「お父さん子」になりまして、やっぱり「時々来て遊んでくれる人」はありがたいのでしょうな。先日長女と次女が「うちのお父さんとお母さんは絶対離婚しないよね」と雑談してましたが、やはり一緒に住もうが離れていようが両親の仲が良好であるかどうかを子供達は正確に把握しているものなのでしょう。
さてページのトップでもお知らせしておりますが、このたびwatataさんよりナンジャタウンの入場券を大量(260人分)にいただきまして、さらに今後も大量入手可能の見通しでして、ナンジャタウンの素晴らしさを万人に広めるという使命を帯びたナンジャマニアの私としましてはぜひとも皆様にお配りしたい、と思っているわけですね。初めて行かれる方はタダ券で入場し、グループで1冊スーパーナンジャビザ(1000円)を購入。スタンプ集めの合間に餃子(ビール付き1000円前後)とアイス(500円前後)、まだいける方はシュークリーム(250円〜)、というコースがお勧めでございます。目指せ「心の友」ナンジャマニア。皆様お気軽にメールでご請求くださいまし。あ、送料だけ負担して下さいね。よろしく。
それでは「今日の不思議展」はこの辺で。次回をお楽しみに。ナンジャラー。
東京はまだまだ寒い日が続きます。なんだかカゼを長引かせている人が異常に多いような気がしますが、私はバカなので「ぜんぜん大丈夫」です。最近すぐ目が疲れるようになったせいか「このコーナー読みにくい」と思い、行間を広げてみました。もっと前に気付けや!という感じですね。久々の今日の常識へようこそ。
5月に自分の動物病院を開業することとなりまして、数々の「人生で初めての体験」を楽しんでおります。「獣医師として」勉強にもよりいっそう力を入れねばなりませんし、器械や器具もひとつひとつ選ばねばなりません。「事業主として」帳簿の付け方や、脱税 節税のノウハウ、経営のことなども学ばねばなりません。さらに現在は「施工主として」設計のことも考えねばなりませんし、バイト獣医も続けているので、職場での「セクハラパート獣医師」として、よりよいセクハラを行うべく日々研鑽を積まねばなりません。とうぜん「母親としての自分」「妻としての自分」の比重は私の中で大変に小さくなってきておりまして、先日などは「子供の話をまるっきし聞いていない自分」に危機感を感じ、意識して「子供と向き合う時間」を作っております。末っ子が保育園から小学校に、長女が小学校から中学校に、それぞれ上がるので、謝恩会卒園式飲み会卒業式飲み会入学式入学式といった行事関係も細心の注意を払っていないとうっかりすっぽかしそうな勢いでございます。偉そうに「忙しい」を連発するのは好きではないので「わりと余裕だよーん」という顔をしていますが、結構いっぱいいっぱいな昨今です。ナンジャタウンに行くヒマはありますが、通うヒマがありません。(←それは十分ヒマなのでは?)ドラクエも最後のダンジョンを残してフリーズ中です。ドラクエは開業までにはなんとしてもクリアしたい、というかドラクエをクリアするまで開業はお預けというくらいの心構えで取り組みたいと、こう思っておりますッッ!私ってばほんと、自分に厳しいんだなあ。
さて最近の動物病院というのは、最低でも10坪くらいの広さが必要と言われていますが、私の作ろうとしている病院は7坪、しかも三角形というなかなかにCOOLな空間であります。そこにムリヤリ待合室と診察室を作ったもんで、図面上はかなりキツキツな感じに仕上がっております。
「迷った時は“優先順位”を付けるとよい」
確かに、三角形はともかく、7坪という狭さには非常に迷いました。しかしながらそこは家から50メートル、国道沿い、目の前にペットショップ、という好立地。私に取っての優先順位はまず「立地」でしたので、そこに決めました。狭いのでテナント料も安いですしね。
このように「どっちにしようか迷うとき」は自分にとっての優先順位を確認してみると、わりとあっさり決められることが多いかと思います。感覚レベルで迷った時には当然使えませんが。
とにかく、いろいろ決めなければならない選ばなければならないことがとっても多いのですが、具体的に考えることと言ったら、病院が狭いからスタッフを募集する際には「デブお断り」「体の柔らかい人優遇」「セクハラ有」などの特記事項が必要だなー、とか、看護婦さんの白衣は何色にしようかなー、とか、今決めなくてもいいようなことばかり。開業に必要な情報を収集すべくネットに赴いたはずなのに、十数分後に「サムソンビデオ」のタイトルを見て大笑いしている自分に愕然としたり、とりあえず大きな物から決めようと動物用医療機器のカタログを開き、そのまま数分後に読み終えてみたり。
「人間は逃避する生き物である」
試験前日。勉強するつもりで机に向かうのに、おもむろに「爪のお手入れ」を始めてしまう。気になっていた「流行のスイーツ」を今!まさにこの時!手作りしたくなってしまう。紙袋を裏返して「地球にやさしい封筒」を作るのにハマってしまう。半年間取れっぱなしだったボタンを、なぜか「今すぐに付けねば!」と思ってしまう。
このように、人間はつくづく愚かな動物であります。でもこの愚かさは、天敵のいない「人間」という動物の特徴でもありましょう。勉強なんぞ、したってしなくたって命にはかかわらないからです。他の動物の行動のほとんどが命がけであるのに対し、人間の行動には無駄が多すぎる。食って寝て繁殖して、以外の行動の比率が高すぎます。人間の存在と言うのは自然界においてなんらかの意味をなしているのでしょうか?
手塚治虫のマンガ「火の鳥」に、人間を創った神様が「何度作り直してもこいつらは勝手に自滅してしまう」と嘆くエピソードがあります。これは非常に象徴的ながらも人間の本質を的確に表現していると思います。今現在、地球上の人類は順調に滅びに向かっていると言えると思いますし。
しかしながらこの場合の「滅び」という言葉はあくまで「比喩」であります。人間が生物学的に「絶滅」するためには、自然環境の大きな変化、あるいは地球規模での災害が必須条件になるでしょう。いくら人間同士が殺し合うような世の中であっても、それだけでこれだけ増えた人類がカンタンに全滅するわけはないからです。もちろん、どっかの気違いが世界中に向けて核ミサイルを発射するという可能性もゼロではないですが。
昨今のニュースに象徴されるような「末法の世」であっても、人は日々食事をし、働き、恋をして暮らしています。その大きな前頭葉で今自分たちが置かれている状況を的確に判断すれば、とっくに絶望してもおかしくないような状況なのに、愚かしくもその存在を続けようとする。こう考えると、ただただ自分の遺伝子を残すためだけに生きているような生き物とそう変わらないように思います。干上がろうとする水場の、絶望的に少なくなってしまった水の中の生き物たちが、それでもなお必死で命をつなごうとするように。
しかしながら、ただただ生き続けるしかない生き物の仲間ではあっても、本当に絶望してしまった場合、人間には「自殺」という手段があります。この部分がやはり万物の霊長としての特権・・・なんでしょうかねえ?もうひとつ、手段ではないですが「発狂」という逃げ場もあるんですよね。これもおそらく霊長類特有のものだと思います。
「人間は逃避できる生き物である」
とまあ、今日はだらだらと演繹しただけの文章ですが、意外にもなかなかに上手なダブルミーニングで締めくくれたのは望外の喜びでございます。とりあえず「更新する余裕がなかったんですぅ」という近況報告のつもりだったのですが、なぜか重い内容になっちゃったのはちょっと疲れているからかな?
それでは、文章短いし内容も中途半端ですが、今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様こんにちは。東京の桜はほぼ散りました。ここんとこちょっと寒い日があったりしますが、油断しているとすぐに「地獄の夏」がやってきます。皆様、ビールの準備はお早めに。今日の常識へようこそ。
上の方でお知らせいたしましたが、5月の23日に正式に開院を決めました。チョ〜狭い病院なので予約制を目指すことにしました。電話は5月中旬までには通じる予定ですので、問い合わせなどお気軽にどうぞ。予約が殺到する予定ですので、電話が繋がりにくくなるかもしれません。話し中の場合はしばらくたってからおかけなおしください(とか言ってみたいもんだ)。子供も大きくなったしダンナにも飽きたし、そろそろなにかペットを飼いたいなあ、と思っている奥様方はこれを機に(どんな機だ)ぜひ前向きにご検討ください。不肖わたくし、ホームドクターとしてがんばらせていただきますぴょ〜ん。(←だめだこいつ)
さて、子供を4人産んで、ある程度まで大きくして、仕事に復帰、いよいよ独立開業、という状況の私ですが、なぜか毎月毎月律儀に排卵と生理を繰り返す我が体。「あつよ頭」とは全く別人格の「あつよ下半身」はまだ繁殖するつもりらしい。我が身ながら「なんか不思議」と思ってしまいます。
「頭と体は別」
考えてみると、体は酸素を取り入れて二酸化炭素を排泄したり、食物を摂取して便として排泄したり、水分を補給して尿として排泄したり、妊娠して出産して乳を分泌したり、そういう「いろんな物質の通過する器官」の集合体であるだけです。そんな生命体を人間たらしめている大脳皮質は「アアシナサイ」「コウシナサイ」といろんな電気信号を出して乗っ取ったその体を思うように操っているわけです。
そう、そしてその支配から一時的にでも逃れようと、その生命体は「大脳皮質を麻痺させる術」を必死に編み出しました。そういうわけで、人間は酒を飲むようになったわけです。そうだったんです。そうに決まってます。そうじゃないと「胃が痛いのについ飲んでしまう」とか「仕事の前日に大酒をかっくらって次の日胃液を吐きながら診療する」といったあまりに愚かしい行動の説明がつきません(←いやそれはあなたがバ・・・)。体の方は必死に「大脳皮質の思うようにはなるまい」と抵抗しているんですって。孤独なレジスタンス(←?)なんですって。本当ですってば。
しかしまあ、自他ともに認める酒飲みの私も院長?(←疑問形)になるわけで、夜の急患などに対応するためにはそうしょっちゅう飲んでもいられなくなるなあ、としみじみ思っています。もう一生分飲んだ、と思えばそれで納得できるぐらいは確実に飲んでるんですけどね。
とはいえ、これから仕事の後のビールがうまい季節になります故、ビールは酒じゃないということでひとつ。いいじゃん、1杯くらい。(大ジョッキで)
そんなわけで、新たな船出へむけて意欲満々なわたくしなのでした。病院のサイトからこっちへは当然リンクしないので、こっちの私を知っている患者さんは待合室で余計なことを言わないように!
「“あつよさん”と“院長?”は別人」
よろしいですね?では今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様ご無沙汰しておりました。かれこれ半年ぶりになってしまいました。病院経営もなんとか形になってきたので、北海道に逆単身赴任中のダンナが今年いっぱいで東京に引っ越してくることになりました。楽しかった別居生活もこれで終わりです、えーん。
中1の長女はポルノグラフィティに大ハマり。いつもイヤホンが耳に入っているので呼んでも返事をしやがりません。「アキヒトさん」とやらのピンナップをあちこちに貼っていて、トトロのカレンダーは貼らないでくれと言いやがります。急に背が伸びて、尻がでかくなって来ました。第2次性徴というやつです。わーわーわー。
毎朝弟妹を「早く起きなさいっっ!!」と鬼のように起こしているのは小5の次女。寝る前に朝飯の米を研ぎ、朝早く起きて勉強をしています。ピアノの練習も一生懸命しています。誰に似たのか非常にマジメですが、お笑いのテレビも一生懸命観ているので大丈夫です。
小3の長男には「ナカジマ」という友達ができたので、ここはぜひ「おーい、ナカジマー」と彼を誘って空き地で野球をして近所のお宅の窓ガラスを割ってカミナリじいさんに叱られたりして欲しいところですが、今のこの殺伐とした世の中では到底不可能です。寂しい限りです。
1年生の末っ子は絵の具セットを学校で注文する時「お母さん、おさがりでもいいよ」と言ってくれるりっぱな「末っ子魂」を獲得。末っ子らしい「おしゃまな甘えん坊さん」の役割を完璧に演じております。いや、あれは演技ですって、絶対。
私は忙しい最中に「10分だけ昼寝」という、昔の私では考えられない昼寝法ができるようになりました。次の日の仕事を考えて、バカ飲みもあまりしなくなりました。そんなアンドー家の人々でございます。
開業して早くも半年が過ぎ、院長?としての仕事もようやく軌道に乗ったかなあ?というところでございます。「院長」というのはその病院でいちばん偉い立場の人間を指す言葉ですが、私の病院で一番偉いのは「ダイソン様」(掃除機)、次に「HGことS川」(トリマー兼看護士)、私の立場は3番目です。開院前に「院長」に「?」を付けていた私、なんと先見の明のあったことよ。えーん。
さて先日。ダンナと一緒にサザンの東京ドームライブに行って参りました。私と同年代の方々には「勝手にシンドバット」にぶったまげ、「C調言葉」にドキドキし、「いとしのエリー」にジーンときて、それ以来「なんとなくサザンを聴いて20年」という人が多いかと思います。私もその1人でして、いちおうサザンの「それなりにヒット曲」は忙しい最中でもフォローしておりました。ダンナの方はと言えばサザンのCDはきちんと買ってくるし、カラオケでも桑田佳祐の歌を結構歌うし、「もしかしてこの人サザンファン?」と思える行動が多かったので、ここいらで一回ライブに行っとこうかとチケットをチケぴのプレリザーブで取った次第でございます。チケットを確保してからは、主にDVDで予習をしておりましたが、どちらかと言えば桑田さんはソロの活動の方がかっこいいように思えますですね。
で、ライブですが、すごかったす。「最高!」とひとことで簡単にコメント出来ない、それで済ませたくない迫力と魅力がありました。一体どれほどの素養と才能と人脈に恵まれたら、あれほどの感動を生む事が出来るのだろうと、心の底から素晴らしいと思いました。また、そういう仕事に恵まれた人達を目の当たりにし、普段人をあまりうらやむ事のない私が心底「いいなー、うらやましいなあー」と思いました。
さてしかしながら当然のことに、誰もがそういう「憧れの職業」に就けるわけではありません。ウチの子供らの将来の夢ですが、上から「マンガ家」「ピアノの先生」「東大出身の大工」「画家」と、やはり他人に感動を与える職業?が人気です。しかし、世の中には「人に感動を与え得ない職業」の方が圧倒的に多い訳でして、ただ単純に、確率だけを考えてもアーティスティックな職業で食べていくのは至難の業だと言えるでしょう。
話は少々飛びますが、つい先日、出かける予定のある朝に停電に見舞われまして、大変に困ったことがありました。水は出ない、暖房も付かない、トイレにも入れない、ドライヤーも使えない。普段これほど「電気」に頼った生活をしているのか、と愕然としました。文明というシステムは、文明人という生き物は、これほど弱いものなのか、としみじみ思った次第でございます。
そして話はここで唐突に繋がっちゃうわけですが、人の作り上げている社会というものもこの電気システムに似ているのではないか、と思うのです。今の季節、街を彩るイルミネーション。その煌めきのひとつひとつを担う「花形」の役割もあれば、同じ灯りでも夜道を照らすだけの地味な灯りもある。私の大好きなビールを冷やす役割もあれば私の大好きな日本酒を温める役割もある。ただただ「何かを回す」だけの役割であったり、「何かを送る」だけの役割であったり、それこそ先日の私のように「えー?これも電気だったの?」と、止まってみて初めてわかる役割も多い。そしてそのそれぞれが、そのことだけに特化したマシーンに担われているわけですね。
何万人もの人にいっぺんに感動を与えることが出来る人もいれば、ひたすら単純作業で40年、という人もいます。そしてその役割に関しては「互換性」がない場合が多いのではないでしょうか。同じ電気で動いていても、電球に「タービンを回せ」とか、掃除機に「メシを炊け」といっても、それはどうひっくり返ったって不可能であるわけです。
「適材適所」
という言葉が適切かどうかはわかりませんが、人にも得意なことと、どうあがいても無理なことがあるわけで、自分の「適性」を判断し、「適所」に我が身を置く事が出来れば、それだけで人生はかなり順調になるのではないかと思います。ただし、ここがもっとも難しいところでもあるのでしょうけれど、自分が一体「何をするマシーンなのか?」という疑問の答えは、多くの若い人達が見い出したくても見い出せずにいることではないかとも思うのですが。
子供を産んだばかりの時は「私は乳を出すマシーンなんだな」と思いました。子供が小さいときは、ご飯を作って、子供達の安全を確保するマシーンでした。子供らがある程度大きくなると、自分を取り戻そうと一生懸命外に出るマシーンと化し、そして今、私は一体何をするマシーンなんだろう?と疑問形だったりします。この期に及んで「人に感動を与える職業に就きたいなあ」などと思ったりしてますし。まあ、日々刺激があるっちゃある職業ではあるのですが。
「あそこの動物病院は感動しますよー」
という評判を目指してがんばろうかなーと思います。
どんな病院だ、そこ。
ご無沙汰でした。もう3月です。皆様お元気ですか? 今年の冬は本当に寒うございましたこと。自宅から病院まで、徒歩50メートルの通勤が辛い日々でした。具合の悪い子が入院していると、夜中や明け方でも見に行かなければいけないので、この50メートルは冗談ではなく本当に大変なんですってば。中間15メートル地点に信号がありまして、この信号待ちがまた大変で大変で。
おかげさまで病院の方も順調に ボロ儲け 濡れ手で粟 仕事が増えておりましたが、なぜか3月に入ってヒマな日が増えております。最近ダンナの退職金で「超音波診断装置」通称「エコー」を購入いたしました。これがまた大変に愉快な機械でして、次回のオフ会ではぜひ「卵胞の大きさ競争」とか「脂肪肝自慢」「胎児の観察」などのイベントを開催いたしたいと思います。排卵直前の女性や妊娠中の女性、GPTが500を超えている男性の参加を歓迎致します。ちなみに私は過去、下腹部が痛むので病院に行った所、エコー検査で「直径4センチの卵胞」を医者に見つけられ、「これが痛いんだね。でっかいもんね」と笑われたことがあります。
さて話変って。我が家のトイレにはウンコカレンダーなるものが設置されています。これは主に我が家の便秘くんこと長男の排便状況を我々親が把握するために導入されました。快便の祈りを込めて、ヤクルトのおばちゃんからもらったカレンダーを使用しています。ウンコが出た日には、「も」とか「て」など自分の名前の頭文字を書き込むことになっておりますが、これがまた日々人間ドラマを反映していて面白い。ちなみにウチで一番快便なのは何事もきちんとしないと気が済まない次女でございます。
実は最近、このカレンダーに我が家の第二次性徴こと、長女が書き込まなくなってしまいました。中学生にもなると、親に自分の排便状況を把握されたくないという気持ちが芽生えるのでしょう。ま、これも自立へのワンステップだと思うと空白の増えた「ウンコカレンダー」にも感じ入るものがあります。今日などは「いつまでお小遣い帳を付けるのか」「なんでお小遣い帳を付けなくてはいけないのか」と自分に課せられた義務への疑問を口にしておりました。もちろん「付けないとお小遣いはあげません」と親の威厳もきっちり示しておきましたですよ、はい。
さて第ニ次性徴のメインイベントと言えばもちろん「初潮」と「精通」ですが、私は最近、「初潮」に関連した大きな謎を解き明かしましたので、ここで発表いたします。名付けて、
それは長女が小学6年生の頃。「日光」と行き先バレバレな通称で呼ばれる小学校の移動教室の準備をしていた時のことです。女子は「生理用品」を持って行くきまりになっていました。初潮がまだ来ない女子も念のために持参するようにとのこと。私は今でこそ「4センチの卵胞を医者に笑われた女」でありますが、初潮は遅く、中学2年生の時でした。その私の娘である長女が移動教室に赴く時、彼女はまだ幼児体型で体も細く「ヤツにアレはまだ来ない」と確信しつつも母親の私は「生理用パンツ」を購入すべくわが町が誇るアーケード商店街「ハッピーロード大山」に赴いたのでありました。
しかし。いくつもあるドラッグストアを探せど探せど「小さいサイズの生理用パンツ」は売っていないのです。仕方なくそのまま東武東上線下りの電車に乗って「板橋サティ」まで出かけたのですが、そこでも見つかりません。まあ、女性の方々はご存知でしょうが、生理用パンツは「必ずしも必要ではないアイテム」なので、この時は購入をあきらめたのですが、その後池袋の東武デパートでも探してみたのですが、かろうじてワ○ールのジュニアサイズが見つかったのみ。法外な値段だったので購入はしませんでしたが、なんでこんなに「ジュニアサイズの生理用パンツ」が品薄なのか、当時の私は不思議に思ったのでした。
さてそれから一年が過ぎ、長女はむくむくと縦へ横へと性徴、いや成長し出しました。こないだ買ったジーパンがもう入らないなどと不経済な事をぬかす長女の尻を見て、一年に渡るあの疑問に、突然に終止符が打たれたのでした。
「ジュニアサイズの尻に初潮は来ない」
この瞬間ほど「目からウロコ」の意味を実感した時はありませんでした。本当に「ポロッ」という音が聞こえたような気がしましたもの。ジュニアサイズの生理用パンツは「需要がない」から売っていないのですね。人が営む経済活動の基本に基づいた現象だったのですね。おそらく、私と同じ苦労をなさったお母さんが日本中に5000人くらいはいることと推測されます。そしてこれから第ニ次性徴を迎えるお嬢さんをお持ちの親御さんへ。無理して高いワ○ールを購入しなくても大丈夫でございます。実際に初潮を迎える頃には、その高価な生理用パンツはパッツンパッツン(←はいここダジャレです)になってしまうはずだからです。
で、今ネットで探したらジュニアサイズの生理パンツがたくさん見つかりました。あるんだねー、はははは。
ところで、最近よく寝汗をかくんですけど、これってひょっとして第三次性徴?(←頬を赤らめながら)。違うもん、更年期なんかじゃないもーん。
と、いい具合に壊れたところでさようなら。次回をお楽しみに。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様本当にご無沙汰しております。今年の夏はいかがお過ごしでしたでしょうか?5月6月7月とてんてこ舞いだった仕事もようやくヒマになり、苦行の夏休みを終え、冥王星が太陽系から外されたショックからもなんとか立ち直ったので近況報告でも。
6人と1匹、みな元気です。長女(中2)は毎朝「ヘアアイロン」で一生懸命くせ毛を伸ばしております。そろそろ縮毛矯正を許可してやってもいいのかなー、などと思っております。次女(小6)はピアノを頑張ると言い出しました。ぼちぼちグランドピアノに買い替えた方がいいようですが、うーん。長男(小4)は夏休みの読書感想文に「ナスカ地上絵の謎」という本を選んでいました。そろそろ「ムー」を買い与えないといけません。末娘(小2)は兄である長男を自分の手下だと思っているらしく、よく「命令」しています。世の中の「いもうと萌え」の方々にこの現実を突きつけてやりたい気持ちでいっぱいです。我が家の飼い猫であるはずの「えもん」は呼んでも絶対にこっちに来ません。ナデナデすると噛みつきます。猫はやはり20歳過ぎないと面白くないと思います。ダンナは家業と主夫業と予想業に忙しい毎日です。休みの日はちょっと目を離したスキに「ジュンク堂」に行ってしまいます。巨大な書店ですが、いつも同じコーナーにいるのですぐに私に発見されてしまいます。
さて、最近のわたくしですが、とにかくめっきり酒に弱くなりました。もうすぐ「よんじゅうにちゃい」になりますし、いつまでもそう無理がきくわけがないのですが、頭と体のバランスがどうもうまく取れないので困ってしまうことがたびたび。頭ではいつまでも若いつもりなんですけど、昔のようなペースで飲んじゃうとこれはもう「台所でブラジャー1枚で寝ていました」とかいう、もうここに書くのがはばかられるような非常事態が勃発してしまうわけですよ。
それから最近ずっとふとんの上ではなく、畳の上で寝ております。別に「駅のコンコースに段ボールで寝る準備」とかそういうわけではありません。なんか毎晩とっても暑いからなのですが、これはきっと地球温暖化のせい、寝る部屋が4階にあるせい、と自分に言い聞かせつつも、やはり気になる「更年期」。子供を4人も産んだのに、あんなにピューピュー乳も出たのに、そんなことはおかまいなしにやはり勝手に忍び寄って来ているのでしょうねえ。やだなあ。しっしっ。
「子供を3人以上生んだ女性は更年期チャラ」
今思いつきましたが、これいっすねー。誰がどんな手段で「更年期チャラ」にしてくれるのかはともかく、これで少子化問題解決!じゃないですか。安倍次期総理のマニフェストに加えていただいてぜんぜん構いませんとも。ええ、全然。
はなはだ簡単ではございましたが、今日はこんなところで。ぼちぼちまた飲み会でもしましょうねー。次回をお楽しみに。
皆様ご無沙汰しておりました。一体何人の方がこれを読んでくださるか不安なのですが、生存証明というか、近況報告をば小声でさせていただければと思います。今日の常識(3年ぶり)へようこそ。
私とダンナはほぼ同じような毎日を過ごしていますが、1年ほど前に休肝日を設けました。週1回、木曜日は飲まない。飲まないとヒマなのですが、私はその「浮いた時間」を英会話のレッスンに有効利用しています。休肝日なんて絶対無理っ!と思っていましたが、人間やればできるものです。それから最近はあんまり外に飲みに行かなくなりました。飲みに行っても一軒目で眠くなってしまうので帰ります。なので酔いつぶれることもあまりなくなりました。「飲み過ぎてしまう病」は死ななきゃ治らないと思っていましたが、この調子なら死ぬ前までには治るのではないかと思います。飲むたびにやらかしてしまう「心の友」の皆さん、希望をもちましょう。年を取れば「飲めなく」なります。はい、全然嬉しくないですねー。
4人の子供らも今のところグレもひきこもりもせず順調に育っています。上から高2、中3、中1、小5になりました。長女は私より小さい時点で成長が止まりましたが、次女には身長を抜かれてしまいました。くそう。二人とも前髪を伸ばしたうっとうしい髪型をしています。長女はうつむくと「逮捕された時ののりピー」にそっくりです。長女は東京ドームの近くにある都立の「普通ではない高校」ちがーう「普通科ではない高校」に通っています。高校を出たら就職するそうです。こないだ剣道2段を取った次女は来春に高校受験ですが、目黒区にある、やはり都立の「普通科ではない高校」を目指しています。中学校の先生に「安藤さんちは普通科に行かないねー」と異常な家よばわりされています。こうなったら4人全員「普通じゃない高校」に入れてやるう!というよくわからない意地が私の中に生まれつつあります。
長男は相変わらず朝早く起きて、寝ている私の横で洗濯物を干してから学校に行きます。母親の私が言うのもなんですが、偉過ぎます。中学校では陸上部に入りました。春でピアノはやめたのに、なぜか秋の文化祭の合唱のピアノ伴奏を引き受けてきました。ものすごい量の飯を食らうようになりました。足がでかくなりました。末っ子はクラスで一番小さいです。おしゃべりで、鉄棒の話とかマット運動の話ばかりしています。小さいけどすばしっこいので、毎年リレーの選手に選ばれます。今まで我が家にはいなかった「お転婆娘」です。片目で、なでると咬みついてくる猫も元気です。なでても咬みつかない猫が欲しい今日この頃です。
さて、少し前に獣医師会で一緒の先生から、喫煙者は大嫌いだという話を伺いました。その理由が「煙がいやだ」とかそういう表面的な理由ではなく、「ごもっとも」とふかーく頷ける内容でしたので今日の常識として取り上げさせていただきます。
「喫煙者は自分が体を壊すとタバコをやめる」
確かにそうなんです。タバコ吸ってる人って、今まで周囲に副流煙とか臭いとかでさんざん迷惑をかけていたくせに、自分が体壊すとあっさりやめたりするんですよね。それが許せない、と。その点、酒飲みは偉い、と。死ぬまで飲む、と。その先生はそのようにおっしゃっていました。実は私、2年くらい前に喫煙者に逆戻りしてしまいました。普段は吸わないのですが、飲んだ時だけ吸う、という中途半端なスタイルですが、この衝撃的な「常識」を知り、やめるのなら早く、吸うのなら死ぬまで吸わないといけないと考えるようになりました。私は今のところ、飲むと吸いたくなるのでまだ吸っていますが、さてこれを読んでいる喫煙者の皆さん。あなたはどっちを選びますか?もはや「体壊したらやめる」という自分勝手な選択肢はなくなりましたので、ひとつよろしく。
さて今回は3年ぶりということで、リハビリも兼ねております。最近は手軽なのでついつい「mixi」などを利用してしまっておりましたが、初心に返って、面白い話はなるべくこっちでしたいなーと思っております。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
というわけで、奇跡の短期間更新です。えっへん!アタック25続編は全く手をつけてないのでもうちょっと待ってね!今まで7年も待っていてくれたみんなだもの、2〜3年は大丈夫だよね!もしかしたらこのまま永久に完結しないかもしれないけどとりあえず待っててね!!!(←暴言)
(何事もなかったかのように)さて不承私、あいかわらずの「健康オタク」ですが、6年ほど前から故甲田光雄先生の推奨する「西式健康法」というのを中途半端に取り入れまして、とりあえず「朝飯抜き」「朝、水を500~1000cc飲む」というのを続けております。それまでは便秘気味でしたが、しばらくすると朝きっちり出るようになりました。最近は排便後しばらくすると上行結腸のあたりがゴロゴロし、「これが宿便?」みたいなカスっぽいものまで出るようになり、トイレに行く回数は増えましたがより一層「スッキリ」するようになりました。お金は一銭もかからず(むしろ朝食代が浮く)、快調になる素晴らしい健康法だと思います。毎朝出ない方始め、体調不良の方もぜひトライしてみてください。ただし年単位で続けないと本当の効果は出ないと思います。
「朝食は食べない方がよい」
心からそう思うのですが、学校とか世間とかが「朝はしっかり食べろ」とか言うんですよね。ま実際、私以外の家族はみんな軽くですけど食べてます。ダンナが食べたくなさそうな子供に無理に勧めているときは「無理に食わすな」と口出しするくらいはしてますけどね。
「西式健康法」は「朝食抜き」の他にもユニークなメソッドがあるのですが、「少食にする」「生菜食」(あらゆるものを火を通さず食べる)「金魚運動」「毛管運動」「平床寝台」「硬枕使用」(丸太を半分に切ったような木の枕で寝る)「時々本断食をする」など本格的に取り組むにはなかなかハードルが高い。有名人ではサンプラザ中野さんが実践して、ずいぶんとスリムになられたようですが、やはり「毎晩ビール飲みたい」「ホルモン焼き大好き」の私には絶対無理っ。ま、朝食抜きだけでもかなりよい結果が出ているとは思うので、このまま一生「中途半端な人間」でいきますけどね。
で、最近。きっかけは忘れましたが、なんかちょっとした勢いで「木枕」を購入。4000円くらいで少々お高かったのですが、10日ほど使ったところ、10年以上曲がっていた顎がすっかり真っ直ぐになってしまいました。ちょっとやそっとのミラクルでは驚かなくなったもうすぐ45歳のおばさんもこれには本当にびっくりです。木枕は頭を乗せるのではなく、首の後ろにあてがって、さらに硬い床の上で寝て使用します。使い始めはなんか右側が不自然に当たる感じがしたものですが、そのうち気にならなくなりました。たぶんそこが「歪み」だったのでしょう。無論、万人に効果のある健康法ではないのでしょうが、興味のある方はぜひ調べてみてください。
さて先日獣医師会の研修で山形県最上市に行って参りました。ご存知「奥の細道」の重点地区?であり、バスガイドさんが芭蕉の話をしてくれたのですが、それを聞きながらふと、面白い話を思い出しました。
「古池や かわず飛び込む 水の音」
2年くらい前のベストセラー「国家の品格」の中で、「この句で古池に飛び込んだカエルは何匹?」という質問に対し、日本人はたいてい「1匹」と思うのに対し、外国人は複数、100匹以上がどばどばどばっと飛び込む様をイメージする人さえいる、との記述がありました。要するに著者は「わびさびの機微が外人にはわからない」ということを述べたかったようなのですが、さてこれは本当なのでしょうか。ちなみにその時一緒にビールを飲んでいた獣医師会の先生方はみな口を揃えて「1匹、でしょ〜?」とおっしゃっていました。
というわけで、お友達の、「成人するまでアメリカで育ち、その後帰国した日本人のご夫婦」に聞いてみました。このご夫婦は夫婦間の会話は英語、子供とは日本語で話すという「普通じゃない」家庭を築いてらっしゃいます。完全にアメリカの教育を受けているので、当然「松尾芭蕉」なんかは習ってない、でも一般常識として知っている、というご主人と、この句を全く知らなかったという奥さんにうかがったところ、果たしてご主人は「1匹」、奥様は「4〜5匹」とのお答えでした。うーん、びみょー。解釈に困りますよー。(←聞いておいて失礼)
実は!
この句を英訳した時に「かわず」を「frogs」と複数形で訳したらしい、との説もあります。これが「a frog」であれば外国人だって「ぽちゃん」のイメージじゃないかと思うのですが、ところがどっこい、1匹なら1匹で、ガイジンさんはウシガエルみたいなでかいカエルを思い浮かべてしまうのだそうです。
「古池や かわず飛び込む 水の音 どっぼ〜ん!」
これはこれでめっちゃ面白いですけどね。皆様もぜひ周りの人にインタビューしてみてください。何か収穫がありましたらひとつ「今日の常識掲示板」に書き込んでいただけると嬉しいです。
ちなみにこの句は、弟子の句を芭蕉がアレンジしたものらしいです。にわかに盗作疑惑浮上。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様、こんにちは。ついこないだ年賀状作ったのに、もう年賀状。激動の2009年も、もうすぐ終わろうとしております。毎年毎年思うのですが、時の流れ早!今日の常識へようこそ。
ご存知の方も多いかと思いますが、夏に出場しました「パネルクイズアタック25」で優勝しまして、エッセイにも書きまして、その続編をそろそろ書き始めようかなー、と思っていたところになんと!「アタック25 年間チャンピオン大会」のお知らせが来ちゃったのですよアナタ。なんでも今年1年間に「パネル14枚以上獲得で優勝した人」に権利があるとのことで、私はぎりぎり14枚で滑り込めたという訳です。もちろんすぐに参加の意思表示をいたしまして、電話で簡単に説明を受けました。出場してくるのは16人(当日になったら17人に増えてましたけどなんで???)。もちろんパネル14枚以上で優勝した人ばかりです。全員でまずは一次予選の、映像を使った筆記クイズで10人にしぼる、と。その後二次予選。早押しクイズ3問正解で勝ち抜け、2問間違えると失格、という方式で4人にしぼる。その後の決勝は通常と同じ形式で年間チャンピオンを決める、というものでした。
「口に出して言うとその通りになっちゃう」
さてさて。夏に出た時は「運良く」優勝できましたが、今回はいかがなものか。さすがの「強運の持ち主」である私もたびたび「絶対無理!」と口走ってしまいそうになります。だってみんな優勝した人たちで、私ってばものすごく歴史が苦手で、あの番組歴史問題多いんだもん。大学は付属高校から入ったから受験勉強してないしさー。45歳で頭も反射神経も衰えてるし、と「ダメ要素」ばかりが頭に浮かんでくるのです。
がしかし、そういうネガティブなことを口に出したら「そこで終わり」と思っている私はそういう言葉を封印し、「無理」とか「ダメ」とか一切口にしないようにしました。どうしても使う時には「○○」とか「チョメチョメ」などの伏せ字を利用。それから「とにかく一次予選通過」を目標に勉強を始めました。一番頼りになったのはやはりWikipedia(寄付しないとね)をはじめとするインターネットの情報サイト。それから歴史の本、雑学の本、世界地図、最近の時事ネタ、過去のクイズ問題集、ヘキサゴンドリル(←これ面白いです)。子供たちに今流行っている歌やドラマやゲームを「知らないの?」と謂れのない軽蔑を受けながら教えてもらう。嵐のメンバーのフルネームを覚える。「ラブプラス」に出てくる女の子3人のフルネームも覚える(←たぶん必要ない)。ダンナが取っている 頭の悪い新聞 日刊スポーツも馬鹿にせず読む。どんなにくだらなくて騒々しい番組でも一生懸命観る。トイレには世界史と日本史の年表を貼り、ぶつぶつつぶやきながらウンコをする、とこういう生活を1ヶ月間ほどしておりました。もちろんもう主婦ではなく院長ですから仕事がありますので、残りの限られた時間でせいいっぱい詰め込みました。
不承わたくし、生まれつき頭はいいと自負しておりますが(・・・・・)、普段使ってないものですから(・・・・・)、夜眠れなくなりました。頭が完全にオーバーヒートを起こしているのですが、眠れない時は開き直って起きてしまい、ネットで調べものなどをしてました。ま、いよいよ寝不足になるとぐっすり眠れるのでノイローゼとかではなかったようですが、結構辛かったのも事実です。
「いいことを考えるといいことが起こる」「悪いことを考えると悪いことが起こる」
勉強もがんばりましたが、それだけではやはり足りない。だってみんな同じように勉強してくるに決まってますもんね。ここはひとつ「イメージング」もフル活用することにし、「筆記試験を通って喜んでいる自分」「早押しクイズをしている自分」を克明に、フルカラーでイメージしておりました。とりあえずの目標はここまででしたが、さて何を着ていこうかという段になってハタと気づいたのです。「服の色」はやはり「座る席の色」で決めるしかない。前回はあらかじめ「何色の席」と知らせが来たのですが、今回あの解答者席に座れるのはたったの4人。さすがに決勝まで残るのはチョメチョメだと思うし、何色でもよいのではないかと思う。でも、もし、もーしーも! 万が一!! 決勝に残っちゃったら「前回は赤だったので、今回は白の席に座りたい」ととりあえずそういうことで洋服を選びました。紫色のニットパーカー。え?センスない?ほっといてちょーだい!
そんなわけでイメージトレーニング万全の状態で臨んだ今回の「アタック25 年間チャンピオン大会」。あつよさんは予定通り一次予選を通過できるのか?二次予選で早押しボタンを強打してまた児玉さんに叱られるのか?人生をナメ続けて45年のあつよさんもついに己の限界を思い知るのか?
12月13日(日) 午後1:25〜 テレビ朝日系
ヒマでしたら観てやってくださいまし。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。
皆様、こんにちは。さてさて、テレビを観てくださった方、ありがとうございました。なんと自分でもびっくりの決勝進出ですよー!まあどうしましょう!
さすがに予選に出て来た人は強豪ばかりですが、録画を観直すとまた新たな気づきがあって面白いですね。1番目に勝ち抜けた女性はもう文句なし、ダントツの実力、というか、すげえ力技でしたね。2番目の男性も本命視されていた人だそうで、解答ボタンの押し方がプロっぽい(何のだ)なー、と思いました。4番目の人も落ち着いた戦い方であわてず勝ち抜けた、という感じでした。
さて私はと言えば、まず1次予選で絶対落ちたと思いました。だってねー、超難しかったですよ。特に最後の方はさっぱりでした。でも「ラブプラス」が問題に出て、正解できたのでこれで落ちても悔いはない!と思ってました。自分でも意味がわかりませんがなんかそう思ってました。でも問題作ったテレビ局の人が「みんな思ったより出来ませんでしたね!もうちょっと出来ると思ってたんですけどね」とおっしゃってたので、やっぱ難しかったのですね。ウチに来る薬屋の営業の人なんか「カピバラしかわかりませんでした」って言ってましたし。女性に有利なサービス問題もあったのですが、それもことごとく落とす有様。なんで「千鳥格子」が出てこないんでしょうか?「トレンカ」もチェックしてたのに、結局ひと文字も出てこなかったのですから困ったもんです。
しかーし、そんな「女子力不足」の私が、なんと(たぶんギリギリで)1次予選通過。「飛び上がって喜んでいる45歳獣医師のようす」が、北は北海道から南は沖縄まで、地デジとアナログのサイマル放送(←これも勉強してった)で放映されました。放送観た患者さんに「先生、ものすごーく(←強調)喜んでましたよね」と言われました。だってものすごく嬉しかったんだもん。
そんなわけで確保した2次予選の席。はじめから「待ち」の戦法で行くことに決めていました。2問間違えると退場なので、バツがひとつ点くとかなりやりにくくなるだろうと思ったのです。そのせいでなかなかボタンが押せず、押しても押し負けたりして、ようやく12問目で1点、その後またじっと我慢の子で、24問目と25問目でぱぱっと勝ち抜けることができました。
私にとっては「運命の」と言わざるを得ない24問目「正六角形の内角の和は何度?」という問題は、収録の2、3日前に、小5の末っ子が学校で習ってきたばかりで、その求め方をいつものようにぐずぐずと夕飯を食べながらみんなに説明してくれていたのです。いつも鉄棒とか縄跳びの話しかしないのに珍しいことでした。でもそれがなければ、あの場で計算して答えることは出来なかったと思います。
「多角形の内角の和を意識して暮らしている人はいない」
なんでしょうか、そのムリヤリな常識は。ちなみに問題は「正六角形」でしたが、正でも不等辺でも内角の和は一緒ですよね。軽いひっかけなんでしょうかね。
さてそういうわけで、HP:72/280 MP:15/126 という、「いのちだいじに」「じゅもんつかうな」状態で決勝に臨みましたが、果たしてその結果は!?
「2009年 パネルクイズアタック25 年間チャンピオン大会決勝戦 〜私はこうして運を使い果たした〜」
12月20日(日) 午後1:25〜 テレビ朝日系で放送です。おヒマでしたら観てください。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。