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知覧飛行場は昭和17年太刀洗陸軍飛行学校知覧分校として開設され、戦況の逼迫した昭和20年、陸軍最後の特攻基地となった。知覧をはじめ萬世・都城・健軍、台湾各基地から出撃して沖縄特攻で散華された1035名の隊員の写真が月日の順に掲示され、遺書、手紙、辞世、遺品等が展示してある。
2000年4月仕事で鹿児島へ行った際、足をのばして知覧を訪ねた。
「知覧は太平洋戦争末期、陸軍の特攻基地がおかれた土地。昭和16年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校され、少年飛行兵・学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていた。しかし、戦況が緊迫し、昭和20年本土最南端の特攻基地となった。戦局は衰退の一途をたどり、この敗勢を一挙に挽回する手段として、必死必中の体当たり攻撃が敢行されたのである。知覧飛行場は南北2000メートルくらいの滑走路で障害物や小山も少なく離着陸の行いやすい飛行場であった。沖縄戦では、この知覧基地を主軸に万世、都城基地などから出撃し、1035人の隊員が戦死した」。 |
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町は静かでちりひとつ落ちてないように見受けられた。特攻平和会館をめざして車を走らせると桜並木の両脇にたくさんの石燈ろうが等間隔で建っている。知覧から飛び立った1028人の御霊のための1028基の燈ろうと知ったのは後のこと。まさに死者の町だ。この桜の下で花見をする人はおそらくいないだろう。駐車場から強い日差しを手でさえぎりながら記念館に向かって歩をすすめる。ここに比類泣い残酷なやり方で殺された大勢の青年達が実在した。大義を信じ、あるいは信じ込まされて国によって殺されていった人たち。入り口を入ると、すぐ目につくのが | ||||
「知覧鎮魂の賦」というタイトルの陶板壁画。高さ3メートル、幅4.4メートル。紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員を6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したと注釈がついている。裸体にうすぎぬをまとった天女らが兵士の身体を抱きしめている。情緒的過ぎる、ハナから泣かせるつもりかな、と天女を睨んで館内へ。
この平和会館は、特攻隊員の遺書や遺品、記録などを保存、展示するための館で、全国から一日役千名が来館しているという。まず、特攻機が目につく。陸軍4式戦闘機疾風「はやて」、展示場中央には陸軍3式戦闘機飛燕「ひえん」。壁に沿って遺影や遺書などが展示されている。“若き特攻隊員たちの英霊コーナー”1035柱の隊員の写真が出撃した月日の順に掲示されていた。当然だが皆若い。表情は清々しくさわやかだ。よくも騙したものだ、騙されたものだと怒りとため息がこみ上げる。特攻隊員たちが家族・知人にのこした遺書・手紙・辞世・絶筆等を読む。遺書はどれもが達筆で美文。随分と勉学に励んだのだろう‥。 “残された者からのコーナー”には鳥浜とめさんらの証言を映像で見ることができる。ここで朝鮮人特攻隊員がいた事実を知った。出撃前夜に「アリラン」を歌って別れを惜しんだ隊員がいたという。朝鮮人特攻隊員は日本人以上に熱心に訓練し、積極的に特攻に志願した。その胸中はどのようなものだったのだろう。講談にするとしたら「アリラン」を歌った朝鮮人特攻隊員の物語だ、と思ったがある人物に先を越された。その人の名は高倉健。彼は2001年に映画「ホタル」を発表。多くに人の涙を誘った。映画の中で、機体の故障で生き延びた隊員はこういっている。「沖縄まで二時間半。大勢に見送られて勇躍飛び立つが飛行している間様々なことを考えてしまう。そしてあと30分、30分後には死なねばならぬと思うと狂ったようになる‥」隊員達は極めつけの残酷な方法で殺された死刑囚といっても言い過ぎではない。特攻というやり方を考え出した軍人は「ワシは必ず君たちの後についてゆく」と言っていながら戦後寿命がつきるまで生きたという。この「ホタル」を今、趙博が静かに語りはじめている。 「組織と個人」の葛藤をテーマに作品を書き続ける作家の城山三郎氏は17才で海軍を志願し、特攻が日常化した敗戦直前の軍隊を経験した。隣の分隊が家族と面会をしているのをみて羨ましく思ったが次の瞬間、彼らが特攻隊に編入されることを知った。「特攻はさけられない状況で、僕らも覚悟していた。報道管制で勝利が連呼される中、彼らは死んでいった。その時代の空気の暗さ。戦中体験がなければ作家にはなっていなかった」という。そして昨年城山氏は 「指揮官達の特攻」を上梓。敗戦を告げる玉音放送の後、それを知りつつ特攻出撃した上官に付き合わざるをえなかった特攻兵たちの無念の思いを再構築した。 |
知覧には1942年に太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、1945年、沖縄戦の特攻基地となり多くの若者がここから飛び立っていきました。 |
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