『 悲 し み の 代 価 』 横光利一・作

 

 彼は窓の敷居に腰を下ろして、菜園の方を眺めていた。

「あなたお湯へいらっしゃる?」と妻が勝手元から、訊いた。

 彼は黙っていた。近ごろことに彼は妻が自分の妻だと思えなくなって来ていた。 

 妻は小さな金盥を持って彼の傍へ来た。

「いらっしゃらないの。」

「ああ。」

「私さきへ行ってくるわ。」

 妻は室を出て行こうとしたとき、また彼の方を振り返った。

「三島さんはまだお帰りにならないでしょうね。」

「もう帰るだろう。なぜだ?」

「大久保の方を廻るっておっしゃったわね。遅くなるわよ、きっと。」

 妻は室を出てゆくと下駄を履くらしい音をさせながら、

「ちょっと、ちょっと、七輪を見て頂戴な。御飯がしかけてあるのよ。忘れちゃいやよ。」とまた言った。

 三島がいい家が見附からなくて、彼の家へ来てからは妻の辰子がにわかに華やかになって来たのを彼は感じていた。

 今も彼は、自分を意識してよりも三島の帰りを頭に描いて湯に行く妻をはっきり感じると、彼の心はまた急に曇って来た。しかしそれよりも彼は自分の心が三島から放れて行きつつあるのを知って恐ろしくなって来た。彼が辰子を妻に持たないまではかなりたくさんな友達を持っていた。それが二年とたたない間に三島ひとりを残してほとんどすべての親しい者を失った。それは彼から放れていったのかそれとも親しかったすべての者が彼を見捨てていったのか?彼はそれを考えるたびごとに、妻が心を閃めかせている友達に対しては彼から少くとも放れて行こうとした態度をとってきたことだけは否めなかった。そうしてその中に友人の間で彼のそうした態度が評判になり始めると彼のところへと来るものが一人一人と減って来たのにちがいなかった。彼は幼い時ある易者にみてもらったことがあった。その時易者は彼の足の裏を眺めていて、この子には友達が出来ないと言ったことを彼は覚えていた。それが何の理由か長い間不安なまま彼には分らなかった。が、今彼にはその理由が分ったように思われた。しかし、その不思議な謎が、妻の辰子の媚弄な性格と彼の小心な性格との組み合せの中に潜んでいたのだと思うとなお彼は恐ろしくなって来た。それも初めのうちは、友達を失うということよりも、妻の心の対象が完全に自分一人に向って来ることの方により多く自分の幸福を見出すであろうと思っていた。だが、はたして自分はすべての者を失ってまで妻を完全に所有しなければならないほど、それほど妻の辰子のどこに価値があるのであるかと彼は疑い出した。もし妻が真実に自分を愛しているなら、自分の苦痛に同感して慎しまねばならないはずなのだ。それに妻は?嘘だ!とまた彼は思った。幾度考えても彼女と結婚したということが間違っていたように思われる。白分は妻の華やかな挙動に魅せられて彼女を愛し始めた。そうして彼女も自分の愛を感じて自分を愛したとはいうものの、しかし彼女が自分に示した愛は、彼女が自分の失った友人たちに与えた媚弄な挙動とどこも変ったものではない。ただ自分は彼らより二年早く彼女から媚弄な微笑を送られたということそのことだけで結婚が成り立ったのだ。してみれば今自分が彼女から身を退いたとしても、彼女は自分に代った第二の良人の妻になることを新らしく着物を着変えるようにしか思っていないにちがいない。彼はつねにも増して妻の存在が不愉快になって来た。彼は空を見た。これは彼の癖である。

 彼はいつか宇宙が十三万あると書かれた書物を見て以来、空を見るとその見たときに限って、十三万の宇宙と人間とを比較しながら想像して自分を極度に軽蔑する気になった。

 今も彼は空を見ていると自分の肉体も妻もすべての者を軽蔑し去った自分の心だけが清く天上へ拡がってゆくような気持ちがした。そうして彼のこの癖は彼が妻から苦痛を受けたときに限っていつのまにか自然と用いられる療法の一つになって来ていた。が、まだこの他に彼の苦痛の療法は四種あった。その一つは賑かな人通りの多い街路を散歩することである。街路で綺麗な好ましいたくさんな少女に行き逢うということはいつも彼にこれからさき自分の妻になる新鮮な娘が無数にあると思わせる。それは活気を起させた。妻を厭う気持ちからそれを感じれば媚弄な妻から受ける苦痛はかえって彼には都合よくなって末た。なぜなら、その時に限って、新らしい妻を求める理由の説明を一層強く自分に向ってすることが出来たから。

 今一つはある定ったカフェーヘ行くことである。しかしこれは臆病で自尊心の強い彼にとっては、あまりいいところではなかった。たまたま彼に好意を見せて来た女があっても、その女が他の客に示している好意を見るともう彼はその女が好きになれなかった。それよりも彼にはそういう場所で逢う女としては、全然彼に冷胆な綺麗な女の方がかえって気持ちがよかった。今一つの苦痛の療法は彼には一番気持ちが良いものであった。それは、彼の行きつけているある古本屋へ行くことであった。そこの主婦は彼が大学にいるころから彼を特別な客にしていた。彼がまだその店へ行き馴れないある日のこと、本棚の前で次の時間に必要な本を落して無くしていたのに気がついた。その時彼は「アッ」と小さく声を立てた。「どうなさいましたの?」と主婦は訊ねた。

 彼は本のことを言うと、彼女は黙って本棚からその本をぬいてきて、「これを持っていらっしゃいませ」と言って彼に渡した。彼は時間が終むとその時その本を買うだけの金の持ち合せがなかったのでその本をすぐ彼女に返そうとして持って行ったが、彼女はまたやはり、前のように「持っていらっしゃいませ。」と言った。彼はその彼女の表情から音声から、商法的な手段としての不快さ、愛恋的な媚弄を少しも感じなかった。それはたといその場合が彼でなくとも彼女はそうしたにちがいないであろうと思われる優しさだった。そしてその彼女の優しさは、それは最初から彼ひとりの性質にわざわざ適合して造られたかのように思われるほど、それほど彼の心を温かく柔げた。

 もちろん彼女とても、時としては、至極静かな媚びを湛えて彼を迎えることはあったが、それは彼の妻が近づく男たちの誰彼に対して振りまくそれのように、対象に比例して変化させたり、またその効果を充分意識してするものとは全く違って、自然に流れた自身の友人に向う媚びのように綺麗な静かなものであった。彼は彼女に危険な欲望を少しも感じなかった。そればかりでなく、彼女の前に出るということはむしろ彼の一切の欲望を圧伏させて彼の気持ちを一段と気高く、清く朗かなものに変えることがしばしばあった。

 けれども、そういう彼の幸福も間もなく彼からなくなった。ある夜、彼はいつものようにいつもの時刻に本屋へはいって行くと、店の火鉢を中に置いて主人と主婦とが坐っていた。主婦は不気嫌そうな主人の前で俯向いて黙っていたが、彼を見ると急に少し顔を赧らめて会釈をした。彼は彼女の会釈からいつもと違ったある剛い感じを受けた。

「稲妻はまだ出ませんか。」

 彼は主人を見ながら数日前に頼んでいた本のことを聞いた。主人は彼には答えずに表の方を眺めていた。

「まだでございますの。」と代りに主婦は答えた。

「出ないのですね。なかなか。」

 そう言って彼は主婦を見た。主婦は俯向いて彼の眼をさけた。彼はそのとき、主人の不気嫌の原因を始めて感じた。そしてそれが自分のことで自分の来る前から二人の間に続いていたものだということもはっきりと感じた。彼は身が引きしまった。本棚の前を一度廻るとそのまま会釈を誰れにともつかずにして外へ出た。もう行かないと彼は思った。もう行けない、と思ったから。彼はしばらくして道の上に立ち停っていた。すると自分の心の中で主人に対して怒っている感情が最も高く動いているのに気がついた。

 あの妻を持ちながら、どうしてそんな気持ちが起るのか?彼は主人の気持ちが理窟なしに間違っていると思った。しかし、主人は妻に疑いを向けているのではなく、自分に向けているのかもしれないと思った。「ばかな。」と彼はひとり言った。が、あまり行きすぎた自分を考えてみると妻を愛していればいるほど疑いを持つ主人の方が正しく思われて来た。が、また、自分のいない時、主人の前で主婦が自分に好意のあるらしい気持ちを現わしたのかも分らないと思ってみた。そう思うと彼は急に今までと打って変った喜びを感じて来た。そしてもしそれが事実であるならば、もうそれで自分はたくさんだと彼は思った。彼はその喜びを少しでも失わないように、何か壊れ物を抱いている時のような気持ちで歩いていった。が、突然妻の辰子が、今自分の感じているのと同じ喜びをいやそれよりももっと強い自信を絶えず多くの男たちに感じさせて来続けたのだと彼は思った。彼はにわかにまた一層妻が妻だと思えなくなって来た。そして、自分の苦しめている本屋の主人の気持がそれだけはっきりと胸に映って来ると、今さきに感じた自分の喜びは、汚いけしからぬ情(こころ)の動きのように思われた。主人の疑いも自分に向けられていることを彼は願った。そして、再び本屋へは行くまいと決心したものの、しかし彼は何となく淋しかった。それからしばらく、一ヵ月ほど彼は本屋へ行かなかった。が、ある日、彼は散歩から帰って来ると、玄関の庭に妻あてになった一封の書面が表を向いて落ちていた。彼は何心なくそれを拾おうとすると、急に不安な気持ちが胸を打った。彼は延ばした手を引いて上から封書を見詰めていた。

「男からにちがいない。」そう思う疑いが、封書に書かれた見馴れぬペン文字から直覚的に強く感じれば感じるほど、彼はそれを拾って裏返す勇気がなくなって来た。いや、見ても仕方がない。たとえそれが男から来た恋文であったとしても、男の名前は書いてなかろうし、また、よしそれがそうであっても自分はどうすることも出来ない。ただ出来るのは自分の苦痛を増すだけである。と思うとそれよりも、彼はこの場合自分の自尊心を保つためにその手紙をそのままにしておく方が一番自分として助かるように思われた。

 彼は書斎へはいった。思った通り妻はいなかった。が、しばらくして彼女は帰って来た。彼は妻がその手紙のことについて何か言い出すかと待っていたが、妻は彼の室へははいって来ずに箪笥の引き手をいつまでも鳴らしていた。

「おい。」

 彼はやはり自分の気持ちを圧えていることが出来なくなった。妻は黙って彼の室の襖を開けると、

「もうすぐ御飯にしますわ。」と言った。

「手紙が来ていたろう。」

「ええ。」

「誰だ。」

「お友達から。」

「どこへ行ってたんだ?」

「あのう、お味噌を買いに行ったの。」

「嘘つけ。」

「じゃ、あそこにお味噌があるわ。」

「手紙のことだ。貴様は嘘より言えない奴だ。」

「ほんとうよ。お友達からよ。見せましょうか。」

「お前に友達なんて誰があるんだ。」

「そりゃ私にだってあるわ。」

「見せろ。」

 彼が手を差し出すと妻は子供らしく、

「いや。」と言って次の室へ行こうとした。

 彼は怒りに突き動かされて立ち上った。妻は逃げるように歩いた。

「破いちゃったの。だってさ、いけないことが書いてあるんですもの。」

 彼は妻を追うことをやめた。今ははっきりと彼女の秘密を意識した。妻は火鉢の傍まで行くと少し下顎を膨らせた横顔を赧らめて故意に落ち着き出した。それも手出しの出来ない不貞な感じであった。彼は室の中央に突き立ったまま、黙って妻の横顔を睨んでいた。が、突然、悲しくなった。

「まァ見てくれ、これが俺の妻なんだ。」彼は自分と自分に肚の中で言った。眼がだんだん熱くなって来た。

「もう駄目だ。」

 そう思うと彼はそのまま表へ出た。妻の相手の男が誰であるのか。一度はそう考えると放れていったすべての友達らの顔が次々に浮んでは来たがしかしもうそれは誰であってもまたそれはいつの前から続いていても彼にとっては同じであった。彼は妻から放れようと決心した。決心すると、それまでに放れていった友達らに対して済まないと思う心がしきりに動いて来た。彼らになした自分の一切の不愉快なことがらが、ことごとく不貞な妻から起って来たとはいうものの、それらは皆自分のばかさからであったのだ、と思えば思うほど、彼はその妻に今まで牽きつけられていた自分の身体が、ただ情欲の詰った穢れた壷のように思われた。が、とにかく彼は今そのままではいられなかった。何かしなければならない。酒を飲もう。いや酒では駄目だ。何かこうすてきに強い力のもので自分の頭を叩かなければ。彼は俯向いてただ無闇にせかせかと歩いていたが、その時彼は本屋へ行こうと心に定めた。それは家を出るとき真先きに彼の頭に浮んだことだった、けれども前からもう行かないと自分に誓っていたそれだけ、はっきり行こうとは思わなかった。しかし、もう彼は自分の苦痛を救ってくれるのはそこだけよりないと思った。ただ行けばよい、ただ彼女の顔を少しでも見ればよい。自分は彼女と良人の不和を今以上に増すようなことはしないであろう。そう思って本屋の横まで来ると彼の胸は激しく音を立て始めた。彼は主人に見られることを何より恐れながら本屋の前を足早やに通った。そのとき中を急いで見ると、主婦はひとり表の方のどこか一点をじっと見続けながら坐っていた。

 彼は彼女がまだ彼に気附かない前からちょっとおじぎをして通り過ぎた。通り過ぎてから彼は彼女が自分を認めるまで大胆に彼女の方を見ていなかった自分を後悔した。しばらく行ってから彼は本屋の方を見た。すると、ちょうどその時本屋の中から彼女が彼の方を向いたまま出て来たところであった。彼はすぐくるりと向き返るとまた歩き出した。なぜそうしたのか彼は自分ながら自分の臆病さに愛想がつきた。が、彼は背中に彼女の視線を感じながら、振り向いてよいものかどうかとためらいつつ、も一方でなぜ彼女が自分の姿を見たと同時に出て来たのかと考えた。−−ああ俺は今喜びの頂点を感じている。だが、しかし、彼女は頼んでおいた「稲妻」の出たのを自分に知らせるために現われたのかも分らないと彼は思った。彼は後を向いた。彼女はまだ門で彼を見詰めながら立っていた。彼はまた、頭が下りかけたが、傍を通る人々に気が働いた。もし「稲妻」が出ているからだとすると、何か一言報らせるはずだと思った。しばらく歩くとまた彼は後を向いてみた。まだ彼女は立っていた。すぐ彼の頭は跳ね返った。なぜ彼女は立っているのか?彼女は俺を愛しているのだ!だが、あの彼女が良人に隠れて俺を愛するとはどうしたことだ。彼は彼女に持っていた尊敬心が急になくなったように思われた。いや、なぜ自分は喜んではいけないのか?それより彼はだんだん窮屈な感じに追われ始めるとまだ後を振り向く必要があるかどうかと考えたが、しかし、後を向いてみて、彼女のいなくなっていたときの淋しさを想像するとそのまま足が動いていった。と、突然、彼は自分の帰ってゆく先に潜んでいる暗い気持ちが浮んで来た。

「ああ、もう俺は、あれにはたまらない。」と彼は思った。彼の歩みは弛んで来た。

「俺は、本屋へ行こう。俺は彼女を愛しているんだ。彼女も俺を愛しているじゃないか。それに、何を俺はぐずぐずしているんだ。ばかな!」しかし彼には彼女の良人の苦痛が想像されると、自分の罪の意識が一層明瞭に感じられた。彼は自分の中にある一切の道徳的な気持ちを今はことごとく踏み潰してしまいたかった。が、それにもかかわらず再び本屋へ戻りたがる自分の欲望を絞め縛ろうとする道義心をなお一層強く感じて来ると、彼はただ自分に反抗する気持ちばかりで自分に向って叫び出した。

「よしッ、俺は彼奴の妻を奪ってやるぞ。苦しむ奴は苦しむがいい。苦しんで苦しんで、たえられなければ死ぬがいい。」

 後に引き返えそうとして立ち停った。が、足が動かなかった。

「行こう!」と彼は言って元気をつけた。が、やはり彼はそのままに立っていた。

「行こう!」とまた言った。

 彼は本屋の方へ歩き出した。彼女の姿はもう店頭から消えていた。彼は歩き出すと一歩ごとに不思議な力を感じて来た。それはいつもの静かな臆病な彼とは全く別人な荒々しい彼であった。そしてこれは、時折、彼が物事に行き詰ったとき、勃然として起って来る遺伝的な狂暴性を持った彼であった。幼い時からこの彼が起り出すと、彼は事態の危険を識りながらも、その危険に身を投げつける癖があった。彼はもはや、何の躊躇も警戒も感じずに本屋の中へはいっていった。

 主婦は一人の客に釣り銭を渡していた。客が帰ると彼女はちょっと彼を見たが、そのまますぐ火鉢の傍へ坐って黙って自分の膝へ眼を落した。彼はいつまでも動かない彼女の顔を見詰めながら立っていた。すると、何の涙か彼は涙が浮んで来た。

「もう僕は参りませんよ。」と彼はしばらくして言った。

 主婦は初めて顔を上げた。彼は彼女の眼が潤んで光っているのを見た。

「すみませんわ。」と彼女は小声で言った。

「郷里へ帰ろうと思っています。」

「またいらっしゃるんでございましょう?」

「御主人はお宅ですか?」

「いいえ。あの、またいらっしゃるんでございましょう。」

「分らないんです。御主人にはすまないと思っています。」

「いえ、そうじゃございませんの。そんなことは何でもないんですの。お郷里の方に何かお変りがあるんですか。」

「別に変ったことってないんですがね。」と彼は言った。が、自分の口だけが気持ちから全く放れてひとり饒舌っているのを知ると、突然、

「お免なさい。」と言ってお辞儀をした。

 彼女は「まア」と言ったまま彼のお辞儀を黙って眺めていた。彼は頭を上げると彼女を見ずに急いで外へ出て行った。彼は彼女の家から離れれば離れるほど、だんだん興奮がさめて来た。すると自分が彼女の前で言った言葉を思い出した。

「事実俺はもう行くまいと思っているのか。事実俺は郷里へ帰ろうと思っているのか?」

 そう考えると、彼は初めて、もう行くまいと思い、郷里へ帰ろうと思い出した。が、それは、彼女の前で、もう来ないと言い、郷里へ帰りると宣言したがためでは決してなく、それとは全く独立してこの時始めて彼の中に湧いて来た気持ちであった。が、いよいよ、彼女には、二度と逢えないのだと思うと、彼女の前で宣言した自分の言葉が、まだ彼女に逢おうと思う望みに強く釘を打ちつけてしまっているのに気がついた。彼は急に力が脱けて淋しくなった。

「いやいや、俺はもう行くまい。郷里へ帰ろう。彼女が俺を愛しているからといって、俺が彼女を愛しているからといって、ただそれだけで彼女を奪う理由や口実にはならないではないか。彼は自分が妻に苦しめられたそれだけ本屋の主人の気持ちを感じると、今の自分の気持ちの長く続くことを願った。そして本屋の主人に対して済まないと思う心が今までよりも一層強く動き出すと自分も世の中を汚している多くの汚い心の者と同じように汚いのを知って彼は憂欝になって来た。すると本屋の主婦が前のようには綺麗な者に見えなくなった。

「お前までがなぜ、あんなことをしてくれたのだ。なぜ良人を瞞しているのだ!」彼は自分の頭の中に浮んでいる彼女に叱るようにそう言った。

 その夜彼は家へ帰っても妻の顔を見ないように気をつけた。今までの経験から、妻を嫌う気持ちがあっても、妻の顔を見るとたちまち妻にとらわれてしまう自分を知っていたから。ことに寝床を一つの室へ一つにするとなおいけなかった。彼は寝床もその夜は別々の室へ敷かせて眠った。次の日からも彼はずっとそうし続けた。そして郷里へひとり帰りるにはどうすればよいかその方法を絶えず頭に浮かべるようになったが、妻の方から別れ話を持ち出さないまでは、自分から言い出すことが彼として出来なかった。それには決断心の乏しい彼の性質も多少手伝ってはいたというもののそれよりも、彼はまだ妻から放れることの出来ない種々な感じ、全く捨てきれないものを感じていたから。妻としては辰子は無節操で、放縦で、わがままで淫奔で、彼のような臆病な小心な良人をやがて自滅さす種類の女であったが、普通の女としてみたとき彼女は、善良で快活で子供のように無邪気であった。それが最も彼を牽きつけていた。出来ることなら、彼としては、彼女と別々の家に住んでいて、ただ逢いたい時に誰からも苦しめられずに二人で逢えるそういう生活がしたかった。それには辰子は最も適当で、そうして、もしそうすることが出来たなら、いつまでもそれが続きそうな女であった。

 ともかく彼はそういう理由やそれから、すぐに行かれる同じ地に本屋の彼女がいると思うことなどで、浮き足でいながらも、ただ辰子を中心にしてぐるぐる廻(は)い流れている日を続けているより仕方がなかった。これは彼にとっては二重に苦しいことだった。ことに本屋へ行かなくなった今の場合、一層それは、彼を苦しめた。彼は暇があると散歩をした。そのつど彼は彼女が自分を愛していると確信しているそれだけ本屋へ彼は行きたくなる誘惑をしきりに感じたがようやくいつも耐えて来た。

 ある日、病気で郷里へ帰っていた三島が二年ぶりに上京して来て彼のところへ来た。三島はまだ大学を卒業していなかったので後一年学校へ通わなければならなかった。三島と彼とは前から親しかったし、それに、三島は下宿屋が嫌いだったので、素人屋の見つかるまで、自分のところにいるようにと彼から薦めた。薦める前にも、何よりさきに、彼は妻の性質と三島とを考えないわけにはいかなかった。一体に彼の友達らは揃って彼よりもずっと綺麗であった。が、三島は特に立派な男であったしそれにことに三島は彼の友達の中でも飛び放れて綺麗な男であったし、妻とも初対面であった。「危険だ!」と彼は理窟なしに思った。けれども、そのとき彼はもう自分の臆病な警戒心には全く愛想がつきて来ていた。一人一人自分の友人に猜疑心を向けてかかる自分、何の謀計もない親しい者に絶えずびくびく脅やかされている自分、そうして、それらの友からただそれだけの自分の不純な気持ちからばかりで放れて行こうとし、放れて来た自分、それにまだ今、最後に一人残った親友三島にも警戒を感じようとした自分を思ったとき、彼はもう自分を軽蔑する以上に、自分に対して反逆したくなって来た。自分を滅ぼしてしまいたくなって来た。

「今ごろ、素人下宿なんてあるものか。おれおれ。俺の二階はまるあきなんだ。こ奴が少しまずいものを食わすかもしれないがね。」と彼は三鳥にそう言って薦めた。そう言いながら彼はひとり、「これは面白いぞ。面白いぞ。」と自分に言った。

 三島はちょっと天井を仰いでみて、

「二階はどうなっているんだね。ひと間か?」と彼に訊いた。

「ひと間だ。俺らは下で充分なんだよ。二階を誰かに貸そうかとも思っていたんだ。」

 そう彼は嘘を言いながら、自分に反抗したい気持ちが自分の言葉と調子とに何の障りもなくすらすらと出て来るとますます、ある痛決な快感を感じて来た。それに妻が茶を煎れながら、

「御馳走なんか私に出来ませんけれど、ほんとうに二階は使ったことがございませんの。」と傍から言った。

「ずぼらじゃなけりゃ厄介になるんですがね。」と三島は言った。

「もう私、馴れていますわ。良人の無精者ったらございませんのよ。」

「それじゃ二人も揃ったらなおお困りでしょう。」

「あら。」と妻は言った。

 彼は妻の顔を見なかったが、そのときの驚きを示した中に媚びを閃めかせている妻の表情を感じることが出来た。するとまた急に彼は心の中に寒さを感じた。

 三島はともかく荷物の着くまで彼のところにいることになった。彼は三島の荷物が着いても、まだ引きとめようと決心した。そして、事実そう実行した。もう彼はその時、覚悟を定めていた。何事が起っても妻一人を失うそれだけで済むにちがいない。それから起る後の苦痛や種々の混乱した事柄は自分一人でどうにでもなることだと彼は思った。彼は自分の暗い気持ちをなるだけ三島に感じささないように気をつけた。妻に対してもいつもより快活に打ちとけるような態度をとったが、しかしそれは妻の気持ちを自分の方へ引こうとする心算からではなく、自分の苦痛を、より少く感じるために赤の他人になっていたい気持ちからであった。妻もそれを感じていたらしかった。そしてそれだけ彼女も復讐的な気持ちを加えて、彼の前で、一層前より激しい媚弄な態度を三島に示し出したりすると、彼の快活さもますます激しくなっていった。それは時には不自然なほど快活で、もっとも彼の快活さは最初から意識的なものであるだけに不自然にはちがいなかった。が、それでも、彼は自分ながら自分がたまらなく不快になるほど、それほど放埓に快活になり出した。それが続いてゆくところまで行き続けると、急に今度は彼の妻に対する態度が三島の来ない前より一層冷めたくなって来た。すると、妻の媚弄も少しやわらいで来たが、もう彼はとてもそのままではいることが出来ないほど不決になった。それと一緒に今までようやく圧えていた本屋の主婦に逢いたい願いも圧えることが出来なくなった。

 

「とてもやりきれないね。道が悪くって。」

 三島が帰って来るとそう言って火鉢の傍へ坐った。

 彼は三島のはいって来た姿を見ると恐怖を感じた以外、友情らしい何物も感じなかった。自分の心のものだけは、どうすることも出来ないんだ、とつくづく彼は思いなが三島と火鉢に向い合った。

 しばらくして妻が湯から帰って来た。彼は妻が襖を開けたとき、最初に三島へ眼を走らせたのを見た。

「まア、早ようございましたわね。お湯へ行ってたものですから、御飯の準備もまだなんですの。お腹おすきになったでしょう。」

 妻はそう言って、もうこれで綺麗になった自分の顔を充分三島に見せたと思ったらしく、どれどれとでもいうように急に忙がしそうに勝手元の方へ廻っていった。

「あらあら、まア、御飯が焦げついているじゃありませんか。あなたって何も頼めない人ね。御覧なさいよ。どうしたらいいかしら。」とまた妻は言った。が、その浮いた調子から推すと自身の綺麗さを三島に感じさせたと思う彼女の喜びが、事実とはよほど誇張してそう彼女に言わしめているのを彼は感じた。彼はもう早く三島と妻とがなるようになって欲しいと願う気持ちが起って来た。とにかく、三島に対する自分の態度は嘘ばかりになっていると思うと、もうこれ以上、親友を瞞し自分を欺いていることが出来なくなった。いや、それよりも、彼は自分の小心さ、臆病さ、彼自身つねに思っているそれらの自分の病のために、自分自身を滅ぼしたくなって来た。自分の最も恐れていること妻の貞操の破れること、ただそれを防ごうとするためにのみ、全心の思想を傾けて警戒して来た賤しい自分の胸ヘ、その最も恐るべき運命を自分と自分の手で塗りつけてやりたくなったのだ。それはいかに痛快なことだろう。俺は逃げねばならない。俺は郷里へ帰りろう。そう思う決心がいよいよ彼の中で堅くなった。が、そう決心が堅まれば堅まるほど、また、本屋の彼女が一方で彼を強くつかまえた。そしてそのことよりも夜になったら今夜こそ本屋へ行こうと朝から計画した彼の気持ちが、夕餉を済ませるまで、彼に落ちつきを与えなかった。

 外へ出たときはもう暗かった。彼はすぐ本屋の方へ歩いていった。が、出来るだけ、種々の理屈を考えないように努めていた。考え出すと何も出来なくなるのが彼のつねであったから。彼の前を若い二人の夫婦が彼と同じ方向に歩いていった。夫の方は俯向いて歩いているし、妻の方はあたりを見廻しながら歩いていた。夫は何を考えているのだろうと彼は思ってみた。妻の方は彼女が横を向いた時非常に綺麗であった。多分、あの綺麗さに捉われている良人は、そのため種々の汚いことをしなければならなかっただろうと彼は思った。しばらく行ったとき、妻はちょっと良人から一歩退いて後へ廻ると、良人の羽織の襟を直してやった。彼はそれを見ただけでもいい気持ちがした。近ごろことにそういうことに関して感傷的になっている彼には、良人に貞節な女の行為が、よしそれが些細なことであっても彼を大へん喜ばした。

「あなたは決して自分の良人と他人の良人とを比較してはいけない。そういう心を見せてはいけない。分りましたか。」

 そんな風に彼は胸の中で前へ行く女に言った。が、ふと、彼は他人の妻に逢いに行く自分のことを考えてしまった。それはどういう理由があろうともまたいかに野心がないとはいえ、少くとも放蕩にはちがいなかった。前に自分のところへ遊びに来た多くの友達の中で、実は今自分のしているように自分の妻に放蕩する目的で出掛けて来たもののあったのを感じたとき、自分は苦しまなかったか。そう思い始めると、彼は自分の反省心がまたうるさくなって来た。図太く本能のままに放蕩出来る者たちの性格が溌刺として強く綺麗なものに見えて来た。しかし、もし妻や友達らのある者から苦しめられた自分の経験が、何かのために役立つとしたならば、それは自分だけは少くともそういうことにかけては他人を苦しめないということそれだけにあるのではないか、と彼は思った。「そうだ」と強く応えるものがあった。その応えには、彼の中に群がるすべての考えを鎮圧さすだけの力が充分あった。

 彼は自分が根めしくさえ思われた。が、そうかといって、またこのまま自分の家へ帰らねばならないことを思うともう彼は足がどちらへも動かなくなった。

「一体俺という男は何から出来ているのだろう?」

 彼は実際一人の女のために、これほど苦しんでいる自分がおかしくなさけなかった。彼は立ちながらくっくっ笑い出した。それは自分を強いて嘲弄してみる気持からでもあったのだが、そのうち笑いに混って涙が出て来た。すると、不意に一切のことがらが実にばからしくなって来た。自分の物は、自分の身体だけなのだ!そういう思想が、一つの強い感じになって彼を打った。彼は身体の中ではにわかに眠っていた何かの力が溌刺として動き始めるのを感じた。

「俺は今から郷里へ帰ってやろう。」と彼は思った。彼は何の躊躇もなくすぐ停留所の方へ歩いていった。俺は実にしっかりと歩いているぞと思った。そう思うと自分がばかに出来ないのを知って嬉しくなった。とにかく今電車に乗りさえすればよい。次には駅で切符を買いさえすればよい。それでしまいだ!

 電車が来た。彼はたくさんの人々を押し除けて一番最初に電車に乗った。いつもは、人の込み合う場合彼は一番最後になった。誰か後ろの方でぶつぶつ彼に言った。「何ッ。」彼は言った。彼は戦争の時、命を的にして突進するということが、いつもどう想像してもただ頷けるだけで、はっきりしたその感じを感じることが出来なかった。が、今、彼はそれを感じることが出来た。百万の人間が敵になって一束に自分に対向して来ても、俺は今ならただ一人でその中へ突進することが出来ると思った。彼は自分の今の意力なら電車も停るかも分らないという気がした。彼は吊り革に下ったまま下腹に力を入れてみた。が、電車はやはり走り続けた。彼は口惜しかった。

 しばらくすると彼は自分が今自分の運命を自分の手で展開しつつあるのだと意識した。これは彼に悲壮な感じを起させた。そして自然に、妻と自分とを結び付けていた過去の種々の歓楽が頭に浮んで来ると、急にまた彼の意力が萎みそうになって来た。

「駄日だ、駄目だ。」と彼は自分を叱りつけた。

 彼は湧き上る過去に対する愛着心を振り撒くために周囲の人々の顔を見廻した。黒い顔、長い顔、白い顔、低い鼻、鬚、手、眼、そして漸次自分の傍の方へ視線を引き寄せて来ると、十六七の少女が上眼使いで彼を見ていた。彼は視線を彼女の眼の上で停めてみた。少女はすぐ俯向いた。が、また彼を見上げるとまた俯向いた。それでも彼はなお見続けていると、今度は少女は顔を赧らめながら遠くの方からだんだん彼の方へ眼を動かして来た。彼はもう眼を外らしてしまいたかった。が、今、外らすとかえって少女の心に傷がつきそうに思われた。しかし、この同情心が放蕩だと彼は思った。彼は眼を外らして反対の方を見た。すると一人の老人が居眠りしている頭をひょいひょいと立て直していた。その横では丸髷に結った若い婦人がショールに顎を埋めて時々眼だけで前の方を眺めていた。その眼つきが狙ったり狙われたりしている賤しい眼付きであった。その傍では鼻眼鏡をかけた青年が少し横向きになって本を見ていた。時々眼を空に向けて何か呟いては、指先で紙面を叩いている。

 東京駅へ着いたとき、発車時刻まで間がなければよいがと思った。間があればそれだけ妻のことや彼女のことを考えて、またどうした拍子に引き返してしまわないとも限らなかった。三十分の間があった。彼はすぐ切符を買いに行った。買う前に、「いいか?」と自分にもう一度訊ねてみた。「いい。」と答えた。少し曖昧な調子も混っていたが、意志の堕力で案外平気な気持ちですらすらと切符が買えた。彼は広い駅内の賑かなところを往ったり来たりし続けた。この場合ベンチに腰を掛けて動かないのは過去に心を引かれる危険があったから。とにかく、今は手段として何より未来の華やかな幸福ばかりを夢想したり、それらの空想を刺戟することのみに頭を働かせていなければならなかった。するとどこか遠くの円柱と円柱との間の人込みの中で、ちょっと白い鼻紙が桃色の頬を包んだように思われた。なぜともなく彼には彼が通り越させた視線をすぐその方へ振り向けたときもうそのものは流れる人々に邪魔されて見えなくなっていた。が、それが綺麗なものにちがいないと直覚された。彼はすぐその方へ歩いていったけれどもそのあたりのどこにも綺麗なものは見あたらなかった。しばらくそのままぼんやり立っていると、どこにいたのか蛇の目を持った十六七の少女が父に連れられて彼の方へ進んで来た。この少女だったにちがいないと彼は何の疑いもなくそう思った。彼はまだこれまでにそれほど美しい少女を見た記憶がなかった。彼はすぐその少女の後を急がずに追っていった。少女は改札口に並んでいる人々の後へ父と一緒に並んで停った。彼はその少女と一つの列車に乗っている間の幸福を想像すると、たしかにこれなら郷里まで帰れるという自信がついた。

 改札が始まって人波が前へ進んだ。彼は彼より前方にいる少女を見失わないように注意していたので彼の番が来たとき馳けてゆく彼女を見守りながら駅夫に切符をさし出した。そしてプラットに停っている後から三番目のボギーの昇降口のところでようやく彼は少女に追いついた。が、少女は列車の中へは入らずに窓の下で父と一緒に立っていた。

 彼は急に淋しくなった。が、少女のいる窓の傍のべンチを取ると、真正面からはっきりと少女を見ることが出来た。少女の父は窓越しに彼の前にいる太った婦人に話しかけた。

「ええ、ええ。そう申しましょう。」

 婦人はそんな返事をしながら黒い袋に入れた琵琶を棚に上げた。少女は父の傍で蛇の目を簫(ふえ)を吹くときのように捧げたまま片足を中心にして廻っていた。その少女のどこからも自分の美しさを意識している者の賤しさを彼は少しも感じなかった。そして、それは彼女がいつまでたってもまた、どれほど人々から賞讃され続けても恐らく生涯今の気品を保つであろうと思われるほど、彼女のすべてに謙譲な優しさが現われていた。彼は自分をかくまで動かした美の力に驚いた。そして、もし今自分のように妻から苦しめられている多くの若い良人たちに彼女を一眼見せたら、彼らは必ず妻に復警する力を感じて妻から放れようとするにちがいないと彼は思った。

 べルが鳴った。少女は胸の上で両手を合せて婦人を見ながら、

「あらあらあらあら、」と言ってくやしそうにじだんだを踏んだ。彼は少女の小脇に挟まっている蛇の目に「野田ゆき子」と書いてある朱字を見た。

 汽車が動き出した。彼は何よりも眼の前の少女から放れてゆくのが淋しかった。そしてもしも少女とこの偶然な邂逅をしなかったとしたならば、あるいは切符を握ったまま再び妻の傍へ自分は帰ったかも分らないと彼は思った。

 

 はたして、妻と三島とは自分の最も恐れていたことをなすであろうか、なしたであろうか。そういう考えが三島を信用しながらもやはり絶えず彼の頭に浮んで来て、彼は帰国してからもなかなか落ちつくことが出来なかった。そして、今こうして全くすべてのことから、放れてみると、過去の中で一番彼の心に響いて来る者は妻の辰子であった。「俺はやはり辰子を愛してるんだ。」と彼は思った。それに、一緒にいるときはあまり彼女の性格の善良な部分を感じなかったが、それが別れたとなると、急に彼女の全部の性格を代表して彼の心の中に現われて来た。一体辰子は自分に何をしたのであろう、ふと彼はそういう疑いを持ち出した。すると、辰子のしたことは、別に何んでもないただ普通のことを普通の妻たちがするようになしていたのにすぎないと思われて来る。そうして、苦しんでいたのは、ただ自分の中の下らない性格だけでそれが勝手に苦しい理由を作り出してそして絶えず勝手に苦しみ続けていたのではなかったか。彼は帰国したということが急にばからしくなって来た。が、わずか一日の妻の懐想でにわかにまた妻の傍へ帰るとすると、あれほどの覚悟で出かけて来た自分に対して面目ないような気持ちもした。そして、また妻の不貞な性格をあれこれと出来る限り記億の中から掘り起して無理に妻を不貞な女に仕上げることに努めてみた。すると再び、妻が不愉快な妻になって来た。

「やはり俺は帰るまい。」と彼は思った。

 帰国して三四日した夜、隣家の主婦がカルタをするから来るようにと彼に言った。彼はカルタをするといつも無駄な疲労を激しく感じるので嫌いであった。が、その夜は行った。すると、かん子が来ていた。彼はかん子を大学時代に愛したことがあった。かん子も彼を愛していた。しかし、どちらもそれを打ち開けるまでにはいかなかったが、ほとんどそれを言い合ったのと同じであった。

 ある日、彼の家の附近ヘ、活動写真の種を撮りにそのころ有名であった新派の役者が来た。その時彼もそれを見に行ったが、大勢の見物の中にかん子もいた。実は最初から撮影を見るために行ったのではなく、かん子の来ていることを予想して彼は行ったのだった。自然彼の眼はかん子の動作に注意した。するとかん子は絶えず一座の中でも一番綺麗で有名な役者の顔をぼんやりして見とれていた。その表情には彼が傍にいることを意識した感情が少しもなかった。彼はそれぎりかん子を愛することをやめてしまった。また、逢いもしなかった。そして、今初めて二年半ぶりで彼は彼女を見たのだが、まだ嫁がない故か綺麗さは前のように綺麗であった。傍にはかん子の友人の君子もいた。カルタが初まると最初かん子は君子と並んで彼と向い合わねばならなかった。読み方が読もうとする前にかん子は小声で、

「私、慄えて困るわ。」と傍の君子に言った。

「私も。」そう君子も言ってちょっと胸を圧えた。

 いよいよ勝負になっても、かん子はあまりとれなかった。しかし、番が変ってからは皆の中で、一番彼女はうまかった。彼の注意は常に終りまでかん子に向っていたが、いつもより少し窮屈な感じがしただけで気持ちは少しも乱れなかった。かん子はほとんど誰とも話さなかった。そして、彼の知っている限りでは彼女は一目も彼を見なかった。彼も人々の注意が誰のも自分に向っていないと思われたとき以外には彼女の方を向かなかった。蜜柑や菓子が出て休息の時になると皆が一時に騒ぎ始めた。君子と主婦とは一座から離れた長火鉢の傍でちょっと顔を見合せて微笑しているのを彼は見た。それが彼には自分とかん子とのことに関連した微笑のように思われて顔が顰んだ。かん子は厠へ立っていった。しばらくして彼がその方を見ると、かん子は暗い庭に立って、硝子戸越しに彼を見ていた。その眼付きには、ただ過去の思い出を愛玩しているにすぎない弱いものがあるだけだった。しかし、その夜、彼は床にはいってからもそのかん子の眼を中心にして最も多く彼女のことを考えた。彼は自分がかん子を妻にしていたなら、今よりは、少くとも幸福であっただろうと思われた。

 あくる日彼が二階の窓から閉っているかん子の家の二階を眺めていると、ちょうど、そのとき下の細い路をかん子が通った。彼女は彼の方を少しも見なかったが、彼の視線を感じているのが彼女の締った唇や歩く様子ですぐ分った。彼女はどこへ行ったのかまた、しばらくして戻って来た。彼は彼女の姿が見えなくなってからも長らくそのまま弛んだ気持ちでそこに立っていた。すると今まで閉っていたはずのかん子の家の二階の戸が二枚だけ開いていた。開いているのを認めたとき、三枚目の戸がひとりまた戸袋の中へすべっていった。そしてその戸の中から現われたのはかん子であった。彼女は最後の戸を戸袋の中へしまうと髪をいらいながら遠くの山を眺めていた。その間、最初からやはり彼女は一度も彼の方を向かずにそのまま室の中へはいっていった。彼は彼女が再び出て来るであろうと思って待っていた。が、彼女はいつまで経っても出て来なかった。彼は自分が羞しかった。それでも彼は彼女の立っていた戸袋からしばらく眼を外すことが出来なかった。前にはその戸袋が、彼女が彼女の家人に隠れて彼に彼女の愛情を示す都合のいいただ一つの場所であった。

「お前はそこで黙って泣いたことがある。お前が泣いたと同じように、俺もお前を愛していた。しかしお前は一眼見た役者の美しさのために、俺の愛情を蹴飛ばした。なぜそれが悪かったというのなら俺はお前に言うが、俺はその役者に負けたのだ。負かすようにしたのは役者ではない俺のために泣いた時のお前なのだ。」

 彼はそんなことを胸の中で言っているうちに、急にその時の不愉快さが甦って来た。彼は窓を閉めて室の中を廻った。

「本当に貞節な女はいないのか。本当に貞節な女がいたなら、俺はいつでも生命を投げ出してやるだろう。いや、本当に貞節な男もいないじゃないか。不貞な男と女の集団から子供が産れ続けている間、何が一体進歩なのだ!」

 ふと彼は辰子を妻に持った当時のことを思い出した。そのころ精神的の苦悶はもちろん肉体の苦痛も、夫妻は同様に共感しなくてはならないという思想から、よく辰子を膝の上へ乗せながら、自分と自分の顎を抓ってみて、「お前の顎が痛かないか」と妻に訊ねた。「痛かない。」と妻が答えると「まだ駄目だ」と言って彼は妻を膝から下ろした。今彼はそれを思い出すと、あの辰子にそんなことを真面目にやっていた自分がおかしくなった。

 

 かん子は次の日から彼の家の前を一日に二度は通った。彼は初めのうちは彼女の下駄の音がすると、自分の姿を見せないようにして彼女を眺めていた。しかし急に妻から放れた今の彼としては、ただかん子をそうして見ているだけでは物足りない気持ちがして来た。彼はまた最初のときのように露骨に彼女の通る姿を眺めるようにした。

 彼は午後になると毎日銭湯へ行った。そこへ行くにはかん子の家の軒を通って行かねばならなかった。彼の湯へ行くころはまだ湯がようやく湧き始めたころなので、女の方も男の方もいつも客は彼一人であった。しかし湯へ行きつけて二三日したころから女湯へも早く来る客が一人あった。ある日彼は湯から上るとき水溜の水を汲もうとすると、御影石に包まれた静かな水面にかん子の裸体の立像が半身を映していた。彼は水を汲むのを止めてその白い高まった胸と顔とを眺めていた。が、ふと、彼は自分の裸体も向うから見れば同じように映っていそうに思われて急いで身体を後へ引いた。しばらくしてまた水溜を覗いてみたが、その時はもう彼女の姿は見られなかった。

 彼は湯から出てからも着物を着るのに、出口でかん子と逢ってみたい気持ちが沸いてわざと遅くかかった。女湯へ早く来る一人の客がかん子であると知らないまでは、番台にいる娘の眼が恐くはなかったが、彼女だと分るとその娘に気がひけた。その娘は綺麗であった。多分、多くの男客を牽きつけていそうであったが、彼女の巧妙な愛想とよく動く眼の裏には、どこかに油断のならぬものが潜んでいそうで賤しかった。彼は最初からその娘には少しも心がひかれなかったが、しかし、毎日自分の来るのをかん子が知っているとすれば、自分の気持をかん子に疑われても仕方がないと彼は思った。また、どちらから疑われても今の彼には差し閊(つかえ)はなかった。が、疑われるより、疑われない方が気持ちがよかった。かん子は入口を出るとき下駄を履いている彼をちょっと見た。その見方はやはり早く来る男湯のただ一人の客が彼であることを充分知り抜いている見方であった。してみると、彼女も、自分が彼女の足音を知っているように彼女の家の軒を通る自分の足音を知っているのにちがいないと彼は思った。彼がかん子のすぐ後から表へ出るとかん子は、少し胸を反らして、道の片端を歩いていた。その姿は彼の視線を感じているときの彼女のいつもの姿勢であった。それは少し傲慢な感じであったが、その傲慢さには、賤しい心の男が手出しをしかねる貴いところがあって、彼にいつも頼もしい感じを与えていた。すると、しばらく行ったとき、彼女の小脇に支えていた金盥が道端の低い竹垣の角に引っかかった。金盥は白粉やクリームや石鹸と一緒に道の上へ散らばった。彼女は顔を赧らめて徴笑しながらあちらこちらに転げている化粧道具を拾い集めにかかった。彼は彼女の羞しさを感じると、なぜかそのまますぐ後へ戻っていった。が、さてどこへ行っていいのか自分の行く先きに彼は迷った。すると彼はまた無意識に何の目的もなく湯屋へはいった。

「いらっしゃい。」

 そう娘は新らしい客に言うように彼に言った。彼はなお困った。が、黙って上へ上るとあたりを見廻してから娘を見ないようにしてまた、そのまま外へ出た。その時はもうかん子は前のように落ちついて歩いていた。彼も初めて落ちついた。が、彼女の狼狽さとそれを見た自分の狼狽さを思うと彼は自然に笑えて来た。彼女は彼の方を向かずに門の中へはいってしまった。

 次の日もやはりいつもの時刻にかん子は湯屋へ来た。彼はかん子の来ていることを意識しているだけでも今までのように弛やかな気持ちで湯に浸ることが出来なくなった。それに、ただ二人の容子だけが同時に見える番台から絶えず見られているところを想像するとなおだった。それでも彼には一日の中で湯に行くときが一番待ち遠しくなって来た。

 数日たった雨上りの夜、彼は縁側に立っていると暗い門の塀の向うを通る足音がした。前からかん子は夜は決して出なかったが、彼にはその足音が、彼女に相違ないと思われた。彼が足音の向いた方へ出ていってみると隣家と彼の家の板塀との間の狭い露路に彼女はひとり立っていた。彼は彼女の前まで来ると自然に足がたち停った。彼女は袂を胸の上で圧えたまま彼と向い合って黙っていた。彼も黙っていた。すると不意に役者の顔に見とれている彼女の顔がまた彼の頭の中に浮いて来た。彼はそのまま、彼女の横を通り抜けて裏の方へひとり歩いていった。


次章へつづく
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