1999年開設当初から大人気「レイコのエッセイ」です。 モブログ風の『写真日記〜foto diaria』(2003年9月〜2004年2月)、 現在好評のブログ『musica de blog』(2004年7月より) の過去ログ、コメントも全てこちらで読めます。 左のメニューからどうぞ。
死へのあこがれ

親友が今年6月に亡くなった。
お嬢さん2人と優しい旦那さんを残して。

私と彼女の初めての出合いは中学校の入学式だった。
私が通った中学校は新入生が500人あまりもいるマンモス中学校だった。
卒業した小学校から少数一緒に通学する子もいたが、
そのほとんどは初顔合わせ、心細い入学式の初日、
まだ座るべき席も決まっていなくてトロい私はウロウロとしながら
やっと空いた席を見つけた。
「ここ座ってもいいですか?」「どうぞ」
ほほえみかわした彼女は、私と違ってとても大人っぽく見えた。
そんな彼女にとってもその時の印象が強烈だったと、
後年何度も口にしていた。
それがなんと、自慢するのだが「まぁ、なんて上品な人でしょう」と、
思ったというのだ。どうだ!

その後、何十年にも渡って親友としてつきあうことになるのだが、
私にとって彼女は「友達」というよりも、
「おねえさん」のような人だった。
ともかくも御想像通り、私とは全く反対の性格で、ハキハキ明るいリーダータイプ、
勉強家、努力家、スポーツ万能、男の子にもモテるし、
テキパキとしていて新学期から学級代表だった。
私と言えば、今とまったく同じで一言で言えば「ウスノロバカ」だ。
自覚があった私は今まで通り「目立たなく無難に」中学校生活を送るはずだった。

彼女は仲良くなるうちに何かと私のお世話をしてくれるようになった。
着替えがノロいと言えば手伝ってくれ、
「勉強ができない」と言えば教えてくれ、
「友達が怖い」と言えば代わりに凄んでくれ、
「○○君が気になる」と言えば告白してきてくれる(汗)
本当に親身になってくれる人だった。

目立たなく無難に平穏に暮らしていた私が、
とうとう鬼母も喜ぶ「花の級長」になった事件が
起こった時から運命は変化していく。
ある時まぐれ中のまぐれで、
この私が定期試験で一番になった時(ウソ!と叫ぶあなたはだあれ?)
すかさず彼女に「後期の学級代表をやりなさい」と命令された。
「え?!」と、ひるむ私に彼女は余裕を与えなかった。
「立候補をしなさい、私が推薦するのではだめなの!
そうしたらあなたは変われないの!
自分からやると決めなさい!立候補したら、
後は私が根回しするから大丈夫、まかせて!」彼女はこう言った。
「へぇぇ、、」私は圧倒されると同時に感心した。

それから先は、彼女の敷いてくれたレールの上を歩くように、
運動会ではリレーの選手、球技大会では
バレーや卓球のキャプテン、音楽会ではピアノの伴奏者、
生徒会選挙の応援演説者、学校祭ではステージに立つようになり、
さらには同じ高校を受験し(させられ?)、
ついには目立たなかった私はロックをやる少女へと変貌を遂げた。
おそらく彼女と出会わなければ今の「レイコ」はいないだろう。

彼女の口癖は「あなたは、普通の人とは違うのよ」だった。

ふにゃふにゃノロノロしている私にいつもハッパをかけ、
準備をしてくれ、応援してくれる。
その言葉を聞くたびに、「どうせ私なんか何もできない」の私は
「私にできることがあるかもしれない」と、
勇気づけられ生き返ったものだった。

彼女は誰に対してもそうだった。
いつも、自分のことよりも
「人のこと」を心配したり考えたり、、、
大手銀行に就職してからも
その才能を発揮して「行員研修の先生」として職務を全うし、
幸せな結婚をして主婦となって子供の手がかからなくなっころ
ホームヘルパーの資格をとり働いていた。
彼女にはピッタリの仕事だった。
彼女が心理学や哲学の話に興味を持ったのもその頃で、
妹の闘病生活でひととおりの本を読み
そのようなことに興味を持った事がある私と話すのが
とっても楽しいと、そのころよく長電話していたものだ。
勉強家の彼女はいつもイキイキとして
その成果を役立てることができる仕事の話をしてくれた。
人の役に立つことがこんなに幸せだなんて、、と。

しかし、それから半年もたたないウチに病が発覚した。

今夜は、彼女を偲ぶ中学時代の友人達と
恩師宅で彼女の遺稿集を作る打ち合わせをしてきたところだ。
3年前に彼女の立案と持ち前の行動力で実現した、
その中学時代のクラス会も
会を重ねるごとに盛り上がってきた矢先だった。
彼女はクラス会を本当に楽しみにしていた。
先生や仲間が大好きだった。
彼女の存在はクラスの友人達にとっては
やっぱり永遠に「学級代表」なのだ。
それだけに、先生をはじめクラス会の仲間も皆、
一様にショックから覚めやらぬ状態だった。
しかしそんな彼等も私の憔悴ぶりに面喰らっていたはずだ。
「なにしろレイコは一番の親友だったからねぇ」

「遺稿集といってもねぇ」「残された御家族には負担になることだしね」
「でしゃばりすぎかしら」「私達ができる範囲でいいのよ」
「立派なものじゃなくても心がこもっていれば」
「かえって迷惑かけることになるかもね」
「でも私達の知っている彼女をここに残したいじゃないの?」
「そうねぇ、でもシンミリだと嫌ねぇ」「彼女は明るいのが取り柄だったからね」
「天国から喜んでもらえるものがいいよね」
「絶対彼女笑ってるよね」「あーもうジレッタイ!ってね」

彼女の若すぎる死を悲しみだけじゃなく、
彼女の生き方や生命を肯定するようなものを作ろうと
あーでもない、こーでもないと打ち合わせを
している最中に私は突然ハッとした。

資料の中に、最後に彼女が私にくれた手紙があった。
改めて読み直してみると
『私は今、あこがれていた死に直面しています。』と、あった。

私は愕然とした。
はたして、私は「一番近くにいた親友」なのだろうか・・・。

彼女とそれらしい本を交換しあい、
いつも話題にしていた命、魂、死生感、、、
哲学者気取りで、勝手なことを言い合っていたが、
私は彼女の何を理解し、何をしてあげられたのだろうか・・・。
何もしてあげられなかった。
あんなに親身になって、ウスノロバカな私の
お世話をしてくれた彼女に
私は何ひとつお返しをしていない。

彼女が「死へのあこがれ」を持っていたことなど、
私にはまるでわからなかった。
私は知らなかった。いえ見ないふりをしていたのかもしれない。
「死への恐怖」に彼女と二人で耐えたと、思いあがっていた。

手紙の最後にはこうだ。「夢をありがとう」
お返しをしていない私に御礼まで言っている。

しかも、手紙の書き出しは「To Reico」
何十年も手紙をやりとりした私達だったが、
こういう書き出しは初めてだった。
闘病ベッドの中で書いたはずなのに、
キチンと芸名で呼んでくれているのだ。
芸名で活動している人をキチンと芸名で呼ぶという
礼儀や人が喜ぶ事をちゃんと知っている。
本当に人の気持ちのわかる人だった。
真実を見ようとする心を持った人だった。
だから、私は半ば強引に敷いてくれる
彼女のレールに喜んで乗ってきたのだった。

「人が喜ぶこと」
たぶん、それは
彼女自身が一番望んでいることだったのだ。
私は彼女が一番喜ぶようなことを
言ってあげていないし、やってあげていない。

これから遺稿集が仕上がるまでに、私は何に気づくのだろう。
一体どれほどたくさんの事に気づかされるのだろう。
私の大好きな友は、今天国で何を思っているのだろうか。
「相変わらず何をやるのもノロいんだから」と、苦笑いでもしているだろうか。

彼女の「死」を未だに受け止めていない私がここにいるのだ。

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