安井原爆訴訟

 札幌市在住の安井晃一さん(75歳、日本原水爆被害者団体協議会代表理事)は、旧日本陸軍船舶通信隊補充隊に所属していた1945年8月6日、広島の爆心地から1.87キロ離れた木造の兵舎内で被爆し、1984年に被爆者健康手帳の交付を受けました。

 1996年4月に前立腺がんを発症し8月に手術を受けた安井さんは同年11月、被爆者援護法に基づいて原爆症の認定を申請したところ、厚生省は「原子爆弾の放射能に起因する疾病とは認められない」などとして1997年に却下。不服申し立ても1999年6月に棄却されました。

 1999年10月1日、前立腺がんを発病したのは被爆が原因なのに、原爆症認定を却下したのは違法として、厚生大臣を相手取り処分の取り消しを求める訴えを札幌地方裁判所に起こしました。

 原爆症の認定をもとめる裁判は、長崎の松谷訴訟(最高裁で係争中)など全国で3件が係争中ですが北海道では初めての訴訟です。

真の平和に寄与したい

 21歳で被爆した安井さんは右腕にガラス片が突き刺さり、左大腿部を打撲したものの、8月31日まで被爆地に留まって負傷者の救援活動や無数の死体焼却作業を続けました。同年9月に小樽に帰郷、その後2ヶ月間しばしば下痢に襲われました。

 安井さんは1954年から十勝管内の中学校で教壇に立ち、以後26年間j教鞭をとってきました。健康優良生徒として小樽市長から表彰されたこともある安井さんでしたが、放射能に蝕まれて以後、体は変調をきたし続けました。胃潰瘍や心筋梗塞、急性肝炎などを多発して計22回も入院を繰り返し、校長や教育委員会、父母らの熱心な遺留を受けながら定年まで5年を残す1980年に早期退職しました。

 「被爆者の惨状は言葉にあらわしがたいほど。たすけてとすがりつく負傷者を助けられなかったことは今でも心の重荷になっている。被爆者のその後も暗胆たるものだ。人々から伝染病と思われ、就職や結婚、学業などで差別され、自殺者まで出た。国からは何の援護も与えられなかった。」

 提訴するにあたって、安井さんには10年に及ぶ裁判を続けられるかどうか、ためらいもありました。しかし今は「原爆症に苦しむ被爆者を国は1日も早く救済すべきだ。裁判を通じてふたたび被爆者をつくらない真の平和に寄与したい」と決意を固めています。

【北海道民医連新聞(1999年10月20日)抜粋】

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