'97年非核国際シンポジウムイン十勝
'97年非核国際シンポジウムイン十勝 とき/1997年7月26日(土曜日)午後1時30分〜4時
ところ/北海道新聞帯広支社2階大会議室(帯広市西4条南9丁目)
参加費/1,000円(高校生以下無料)

主催/とかち非核・平和フェスティバル実行委員会
連絡先・同事務局/帯広市稲田町西1線5番地46 山田克二宅
電話(0155)48-0460

後援/
帯広市・帯広市教育委員会・十勝町村会・十勝町村議会議長会
十勝管内全町村各教育委員会
北海道新聞帯広支社十勝毎日新聞社・北海タイムス帯広支社・ 朝日新聞社帯広通信局
毎日新聞社帯広通信部読売新聞社帯広通信部NHK帯広放送局HBC帯広放送局
北海道文化放送帯広支社STV帯広放送局HTB帯広通信局
OCTV帯広シティケーブルFMウイングFM−JAGA(株)日本エアシステム


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第1部
●ビデオ上映「ネバダ核実験・知らされなかった被害」

第2部
●開会挨拶
安藤御史(実行委員会代表委員・協立病院院長)
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●メッセージ紹介
帯広市長 高橋 幹夫
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●被爆の実相報告

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アンソニー・ガリスコ氏 シンポジウム参加のみなさん、アンソニー・ガリスコと申します。
私は、アメリカの原爆復員兵士同盟の理事長をしております。本日、ここにお招きいただきまして、大変な喜びを感じております。また、みなさん、忙しい中、時間をさいてここに足を運んでいただきまして、どうもありがとうございました。今日は、アメリカの原爆復員兵士のこと、それからネバダの実験場のこと、そして私の日本の被爆者の方に対する思いについて、少し述べさせていただきます。
原爆復員兵士連盟は、常にアメリカの復員軍人長が兵士とその子供達について疫学的調査を行なうことを主張してきました。そして、そのもしこの調査で兵士が放射線関連の病気にかかっていたということがわかりましたら、その兵士はそのまま軍務中に障害を負った軍人のために既に設けられている、復員軍人プログラムに受け入れられるべきだと主張してきました。私達が何故手間暇かけていらぬことをするのか、わたしは怒っています。当時、私達は原爆復員兵士に対する補償を、除外していたわけではありませんけれども、アメリカ政府は復員兵士に対して補償をだすことはしていませんでした。
1984年に私ども、原爆復員兵士同盟では国内と国際社会からの注目を集める行動を行ないました。この行動というのは、ネバダの核実験場にすわりこみをして、そしてアメリカ政府が核実験を止めるまでそこを動かないという非暴力抵抗運動でいた。
1988年にアメリカの下院は、原爆復員兵士が受けてきた放射線からの被害について国家責任を認める法案を決議しました。この法案決議によって、原爆復員兵士は病院で治療を受けることができ、また保険を適用させることができるようになったのです。ところが、疫学的調査がまだ行なわれませんでした。そして、補償法廷は、まだまだ不完全なものでした。わたしたちは、政府が原爆復員兵士が受けた記録についての公的調査を行なわなかったものですから、自主的な記録活動をはじめました。そして、私達が核実験の中で、どのような、どれだけの放射線を浴びたのか、またどれだけの被害が起こっているのかということを記録してきました。
私のここでの話は以上でとどめておきますけれども、この後の質問時間に、是非たくさんの質問をよせていただければとと思います。ここでのお話しの機会を与えてくださいまして、どうもありがとうございました。

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デニス・ネルソン氏 本日、ここにわたしをご招待くださったみなさまに、感謝いたします。私は、ここでみなさんにお話しをする機会を与えられまして大変光栄に思っています。
私は科学者ですので、専門的な話をすることもできるのですけれども、ここでこういった話をするつもりはありません。わたしが話したい問題というのは、それよりはるかに重要なことだからです。この話は愛と命を失った者についての話です。家族と果たせなかった夢の話です。
私は冷戦のさなかアメリカユタ州のセント・ジュージの町で育ちました。当時は冷戦があまりに激しかったために、道徳や正しい行為など.....普通の人々の命はたとえ少しくらい犠牲者を出そうと、国家の安全や自由というつくり話を守もる、このことの重要性に比べたら全く意味のないものと考えられていました。ネバダ核実験場の風下にあるユタ州南部とネバダ地方には、ほとんど人が住んでいない地方というレッテルがはられて、そうした政府の声明によって少なくとも2万人の人々が目にみえない、無視しても構わない存在とうつされたのです。この中にわたしの家族も含まれていました。
子供の頃、私は死の灰が降ったところを歩き回っていました。夏の間、私が木陰で昼寝をした木にも、家の庭に撒いた水にも死の灰が降りました。ネバダから吹いてきた風にも死の灰が含まれていました。しかし、私の両親は心配しなくても安全だから、と言われていました。そして私達はみんなそれを信じていたんのです。死の灰がいたるところにあったのを知りませんでした。死の灰は、私の父親の肺や骨の中に、母親の脳の中に、私の弟の血液の中に、そして私の妹の腸の中に、また私自身の皮膚にまで入り込んでいました。 私の母は47才で亡くなり、妹もわずか40歳で死にました。父は煙草を一度も吸ったことがないのに肺ガンで死亡。弟と私は二人とも二回ガンを煩いました。私や同世代の人々はあまり長生きできないだろうと思っています。私の祖父母は元気長生きしましたし、私は自分の子供達もまた再び祖父母の世代と同じように健康で長生きできるようになることを願っています。 私は、私の愛していた妹が哀れな姿で病院で亡くなったことを忘れることが出来ません。私の家族は核実験の犠牲者に選ばれていたのです。 日本にはたくさんの原爆記念碑があります。私達の後に続く次世代の人々が、過去を忘れることのないよう、私達に過去の悲劇を戒めてくれます。けれども、セント・ジョージアには記念碑が一つもありません。あるのは、多くの幼い子供たちと、若くして死んでいった大人たちの墓地だけです。彼らは、自分たちの声に耳を傾けてくれと叫んでいます。みなさんもご存知だと思いますけれども、ここに来るはずだったクローニヤの娘もかわいい美しい子でしたけれども亡くなりました。5年前に、彼女が亡くなったときには、クローニヤの家族はみんな泣いていました。ここにいる私達はみな同じ一つの絆で結ばれています。私達が時間を過去に戻し、死ではなく生を語ることができたなら、これまでに起こったあの出来事が全く起こらなかったならと、私は心から思います。しかし過去を変えることは出来ません。それならば、せめて私が長生きをして、この世界的な核のホロコーストによって命を失った全ての人に捧げられる記念碑が建てられるのを見てから、死にたいと思っています。 私の愛する人々の命を奪ったあの原子兵器は、その標的や命を破壊しただけではなく、その究極の力で兵器を作り使用した人々の信用をも打ち砕きました。彼らの道徳や倫理の欠如は図らずも、彼らが巧妙に秘密を隠し続けることで身を守ろうとしている臆病な殺人者にほかならなことを、明らかにしました。私は真実を愛しています。真実は人間を開放し、わたしが子供のときに奪われた選択の自由を取り戻させてくれるからです。私は私ができなかったこと、両親と妹とともに過ごす太陽の輝く日々として平穏な夜を夢に見たいと思っています。私は、長生きする人々、健康な子供たち、良い政府の夢を見たいと思っています。私は私達全員がこの夢を現実に変えられるように祈っています。
ありがとうございました。

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後神尊子氏 1945年8月6日、人類史上はじめて広島に原子爆弾が投下され、一発の爆弾で一瞬にして十四、五万の命が、4、5千度の炎の中で焼かれました。鉄が溶ける温度が1,500度だそうですから、あらゆる人、物が焼かれ、突然無抵抗な非力なもの達を無差別に、無分別に焼き尽くしました。私の愛した、お父さん、お母さん、お兄さん、おともだち、すべてを失った悲しみは今もなお消えることはありません。人間の歴史の中でこんなおそろしいことが起こったのも戦争という人間の営みのもとで、人間の意志と手によって引き起こされたことであっただけにおそろしいことです。遠い過去の出来事ではありません。当時11歳のわたしは、爆心地より2.2km離れた学校のグランドに立って、無心に空を仰いで機影を追っていました。その時、突然光と熱が何千本の針の束となって私の体を突き刺して、ああーもうだめなのか。死ぬのだ。どのくらいの時間が経ったか私にはわからないのですが気が付いた時には立っていた地点よりも5、6メートル爆風で飛ばされ、渡り廊下の下敷きになっていました。私は泣きながら這いずり出て、おともだちのところへいきました。みるみるまに私に顔はゴムまりのように腫れ、口の中まで火傷をして腫れ上がりました。声も出ません。手はワカメをぶらさげたように焼け、焼けた皮膚がぶらぶらと下がっていました。中からザクロの実のように赤く腫れ、下がった実が見えました。わたしはもう一歩も歩くことこはできませんでした。先生におんぶしていただき、夕方7時頃、避難場所にやっとの思いでたどり着きました。そこは、お寺の本堂で、ぎっしりと被災者がそこに倒れて放置されていました。みんなのうめき声と悪臭で、わたしはまたも意識を失いました。薬はなく、じゃがいもとかきゅうりの汁、キャベツの葉っぱなどで傷につけられそれが熱をとってくれとても気持ちが良いと思ったのが今でも記憶に残っています。原爆が投下される直前、仲良しのまさこちゃん達とわたしはお手玉遊びをしていました。非難場所へ行く途中、まさこちゃんのことが気がかりで、おんぶされていてもとてもとても本当に気がかりでしたが、後でわかったことですけど、まさこちゃんは爆風でセメント瓦が頭にささり、放射能をたくさん浴びながら、放射能とも知らずに死んでったまさこちゃん。まさこちゃんの分までわたしが訴えなければ生き残ったわたしにも..むことがありましたけれど、50年ぶりに私をおんぶして助けてくださった先生にお会いすることができました。それは、わたしの娘と一緒に、お会いすることが出来て、先生はもう本当に良かったね。っと一言あと、娘は先生にもう涙で何も語ることが出来ず、ただ原爆で何もかも失い、消えかけたお母さんの命から、私達二つの命が引きつがれた、この命を本当に宝です。大切にしてっと涙を流しながら先生にお礼を申し上げました。わたしはもう、この娘の言葉を聞いて、何もいらない、生きていてよかったと先生にお礼を述べました。人の命の大切さや、生きることの素晴らしさは、人間が人間として生きること、核兵器のない、安心して生存できる地球をつくるため、過去の過ちを悔いて、再び被爆者を作らないことが、人間として生きる証明だと思います。 本当に、原爆で亡くなった広島、長崎の人達、また核実験などで命を奪われた人たち、また苦しんでいる人たち、その人たちのためにどうかみんなで、..の核兵器がなくなるまでがんばりたいと思います。

●質疑応答

●全員合唱

「青い空は」の合唱
Real Audio青い空はの合唱
指導 帯広青年合唱団

●閉会挨拶 芳滝 仁(実行委員会代表委員・幕別町顕勝寺住職)


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