ビキニから44年
核兵器廃絶は世界共通のねがい

1954年3月1日未明、焼津のマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」は、太平洋ビキニ環礁でアメリカの水爆実験「ブラボー」(広島型原爆の1000倍の威力)の“死の灰”を浴びて被災、23人の乗組員全員が急性放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さん(40歳)は「原爆被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残して亡くなりました。この3・1ビキニ事件は、日本国民に広島、長崎の惨禍を想起させ、全国に原水爆禁止の声がまきおこりました。3千数百万の原水爆禁止署名が集められ、翌55年に第1回原水爆禁止世界大会(55年8月)が開かれ、同年9月には原水爆禁止日本協議会が結成されました。いらい44年間、日本の原水爆禁止運動は、核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯の3つの基本目標を一貫してかかげ、この運動を日本中に、さらに世界にひろげ、前進させてきました。そして、いま核兵器廃絶は世界の人々の共通の願いとなってひろがっています。
(核兵器のない21世紀を 98年3・1ビキニデー 編集・発行 原水爆禁止日本協議会より抜粋)

スライド 死の灰 について
スライド 死の灰は 今から15年ほど前(1983年1月)、原水爆禁止日本協議会から購入しましたものです。3・1ビキニ事件をより多くの人に知ってもらおうと、ホームページを公開しました。ご質問やご意見はpeaceweb@hokkai.or.jpへお願いします。(by PeaceWeb)