11月24日(水) 靖国神社
スーパーの魚コーナーでチリ産のサーモンを見かける。このチリ、サンティアゴでAPECが開催されているが首脳会談も盛んで日中間の懸案、靖国問題も報道されている、普通の人の感情として靖国へ参拝することに異存はない。小泉さんもおっしゃるとおり「戦没者への哀悼と不戦の誓い」であろう。
たまたま今日は朝日新聞が「読者がつくる記憶の歴史シリーズ」でマッカーサー解任を特集していたので、これを見ながら自分の靖国への思いをつづってみた。
私の兄は1944年5月6日、ニューギニア(現インドネシア)のホーランジアで戦死している、戦後役場(厚生省)から届いた白木の骨箱と戦死の公報で知らされた。兄貴は高射機関砲の所属で飛行場の守備が任務だったが、旧満州から南方へ送られたときもスマトラのメダン飛行場の駐屯だった、その後ニューギニアのホーランジアにつくられた小さな飛行場の守備に就いたようだ。
1944年4月22日、ホーランジア上陸作戦を視察するマッカーサー元帥。ガダルカナルに続いてニューギニア東北部が日米の激戦地になったことはあまり知られていない。激戦地といってもアメリカは艦砲射撃のあと、補給路を断つことで4万人以上いた日本軍はすべてジャングルに消えていったと戦史は伝えている。
中央の軍人が連合軍司令長官マッカーサー元帥
読者がつくる記憶の歴史シリーズ。04・11・24、朝日新聞より。
朝鮮戦争の遂行で対立して解任され「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ・・・」有名な言葉を残して1951年4月16日、羽田空港へ向かった。沿道から二十数万人が見送った。![]()
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ところで話を戻そう、アメリカ海兵隊が上陸作戦を開始したのが1944年4月22日、その日の内にマッカーサーが戦場を視察したことは主な戦闘は一日で終わったことを意味している。海兵隊の上陸が4月22日で兄貴の戦死が5月6日。この間の具体的資料もない。戦後の遺骨収集では白骨を集めながらたどることで部隊の移動ルートが解明されたという。4万人の部隊から生還した者は数百人だった。(ニユーギニア戦史より)。
さて、ところで私の考えるに兄貴は靖国神社へは帰っていないと思う、神になるのなら死んで天上に召されるわけだが兄貴はたぶん仏になって極楽浄土への道を選んだと思う、そうしてニユーギニアのジャングルと両親の眠る旭山墓地を行き来し草葉の陰で我々を見守っているに違いない。私もシドニーへ向かう飛行機の中からこのあたりと思う上空から兄の冥福を祈った。
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