80回目の誕生日
 2011年(平成23年)1月17日は阪神大震災から16年、新聞各紙にこのことを直接大きく取り上げたものは見当たらない、道新は8面で突然やってくる災害への心構えを特集、朝日は1面で阪神大震災では断水で消火活動に支障がでたことから耐震水道管について調査し、耐用年数を超えた水道管を更新しなければ震災消火に支障があるだろうと警告している。
 古くなったものはいざというとき役に立たない、実は私の誕生日が1月17日で満80歳に突入した、人間の身体も誕生してから80年も経つと経年劣化であっちこっちの部品が悲鳴を上げている。膝、腰、肩、の関節がすり減って痛みを感じ、耳や目の劣化で情報がうまく入ってこない、いわゆるこれが老化現象だろうと思う。男性の80歳は日本人男性平均寿命をやっと超えたところだから、自分にとってこれからお迎えが来るまでの期間が本当の老後になると思っている。
 豊かな老後といっても、こんなに平和で安全な國に住んでいるんだからそのことに感謝して、平穏無事な生活が一日でも多く続けばいい。初詣も現状に感謝し、あまり愚痴を言わない約束をしてきた。今年は年頭所感を書かなかったがいい年になりそうな予感がする。(2011/01/17、記)

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                  憲法記念日・施行から64年     2011/05/03
憲法第25条
  @全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
  A國は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 東日本大震災から50日あまりを過ぎたいまも、がれきの片付けは十分でなく、避難所にはいまだ12万人の人々が余震におびえ先の見通しもたたずに暮らしている。国会は昨日ようやく4兆円の第一次の補正予算を承認して仮設住宅建設やがれきの片付けに予算が付いて復興への手がかりがついた。しかし地震と津波の被災だけならばこれが復興への第一歩となるはずが原発事故による放射能汚染地域は人々の立ち入りが禁止され、多くの家畜はえさも与えられず放置されている。原発から40kmも離れた飯舘村でさえ計画的避難地域となって一ヶ月以内に避難しなければ成らず、さて家畜をどうするかが一番の悩みの種になっている。搾乳牛は毎日搾乳しないと乳房炎になるから、そのため「えさ」を減らしてお乳の量を減らし、搾った牛乳は破棄している。東京電力の幹部はこのような農家の悩みをどれほど自覚しているのか。お偉いさんの素っ気ない記者会見からは、丹精込めた農作物を破棄しなければならない、搾った牛乳を捨てなければならない、果ては大切な家畜を見殺しにしなければならない農民の苦悩を全く意に介さない態度に腹が立つ。当初は想定外と言って自分たちの責任を軽くしようともくろんでいた東電も最近は口にしなくなったが、被害者への賠償は國と折半して負担すべきだと考えているようだ。
 さて憲法記念日から話がそれてしまったが、要は放射能から避難した人たちの生存権はどうなるのだろうかと言う問題を考えて見たかった。過去に原発立地の住民から原発は危険で地域の住民は「安全で安心して暮らす権利を侵されている」と裁判所へ訴えていたがすべて敗訴で、國の安全基準によって建設された原発は「直ちに住民が危険にさらされることはない」との判断のようだ、裁判所からも安全のお墨付きをもらった原発がなぜこのようなことになったのか、一度放たれた放射能がいかに危険な物かはすべての関係者が承知のことだから、あとはどこかで手抜きをしたとしか考えられない。今後原因解明の組織も出来ることだろからしっかりした検証をお願いしたい。さらに住民が一日も早く自分の故郷に戻って憲法に保障された健康で文化的な生活を取り戻してほしい。
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                   君が代条例と政界大連立     2011/06/07               加藤 登
 6月7日(火曜日)付きの北海道新聞地方版は「畑作作業の遅れが目立つ」として10日から15日の遅れを指摘している。

実は農作業の進め方は、古くからの言い伝えがあって「郭公(カッコウ)の鳴き声を聞けば何を蒔いても良い」と言われていて、今年の郭公の初鳴きは5月30日だった。
 昨年の5月19日に比べると10日あまり遅れている、郭公が鳴いて、スモモの花が咲くと強い遅霜の心配がなくなるらしい。3月11日の大震災から一ヶ月くらい後の4月中旬、北へ帰る白鳥の群れが南へ向かって飛んでいた。一群ならず三度も見かけて何か異変が起きるのかと心配していたが、郭公の鳴き始めが遅れたことと併せて震災の影響が鳥たちの北帰行にも変調をもたらしたのではないかと心配している。
 さて主題の君が代条例から話がそれてしまったが、一昨日のNHK、ラジオ深夜便は昭和20年3月以降、東京、名古屋、大阪、神戸の大空襲の模様を語り継ぐ、その会の代表の方のお話だった。神戸の街で、六甲の麓でB29からばらまかれる焼夷弾をかいくぐってようやく生き延びた体験を高校などで講演し、戦争の悲惨な状況を語っている。そんな中であの戦争をなぜ止められなかったのかという疑問にぶつかるそうです、しかし戦争はある日突然鉄砲の弾が飛んできたり、突然飛行機の空襲で始まるものではない、それは風のような時代の流れの中で始まるのだそうです、おかしいと思っても声を出せない雰囲気が次第に流れを大きくし、止めることの出来ない雰囲気ができあがってしまう。ここで君が代条例を持ち出したのは、大阪維新の会が府議会の多数勢力として罰則付きで条例を定めようとしていることです、その根拠は最高裁が校長の職務命令で君が代を歌わせたのは合憲としたことです。法律は我々の生活のすべてに優先します。しかし原発は安全だから、危険な原発を止めなさいという訴えは各地の裁判で原告敗訴となりました。
 法律で原発を事故から守ることは出来ませんでした。これも安全神話の流れだったのでしょう。我々が子供のころ日本は神の国だから絶対負けることはないと信じたことと同じような気がします。政治家が大連立を組んで大きな流れを作ってしまえば原発をなくしようといった意見はかき消されてしまうのだろうか。


            8月15日、終戦記念日(敗戦の日)        2011・8・15     (加藤登)
2011/08/15・66回目の終戦記念日を迎えた。あの日(1945・8・15)の旭川も暑い日だった、天皇陛下の肉声を聞くのは初めてだったが。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、、、、、。のお言葉から負けたことを認識した、ただこのとき、正直自分の中ではホッとしていた.。
 きょうも政府主催の戦没者慰霊の式典が武道館で開かれて、天皇、皇后両陛下が出席されて慰霊の言葉を述べられていた。一方靖国神社では、「みんなで参拝する国会議員の会」とか、東京都知事も参拝に見えていたが、みんなで渡れば怖くないみたいな行動はいただけない。ひとり、ひとりが時間を見つけて参拝すればいいことだし、誰も文句は言うまい。
夜はNHK特集「渡辺謙アメリカを行く」をみた。9.11テロ≠フときアメリカ政府の運輸長官だった日系二世のノーマン・ミネタ(日本名:峯田良雄)氏がアラブ、イスラム系の人々に対する人種差別禁止を宣言し、これに併せて日系人がアラブ、イスラム系の人たちを守ろうと行動し始める、、、、、、、。なぜだろうか、謙さんのアメリカに於ける調査の始まりだった。
 それは70年前に始まった太平洋戦争で、日系の人たちが直面した強制収容という過酷な体験があったからだとわかる。当時アメリカと戦争を始めたのは日本、ドイツ、イタリア(日独伊三国同盟)だったが強制収容されたのは日系人だけだった、肌の色で差別されたと理解しても良いだろう。夏は酷暑の中で砂塵がまい、冬はマイナス30度の世界に閉じ込められ、バラック建ての共同住宅、バラ線に囲まれ銃をもった兵士に監視されていた。今またアラブ、イスラムの人たちをそのような差別と恐怖の中に巻き込んではいけない、と立ち上がった。ノーマン・ミネタ運輸長官は白人社会の強い批判をはねのけて空の安全のためには國の責任で、人種の差別なくしっかりとした荷物検査、身体検査などを行う体制を整えたのだった。
 そんなドキュメンタリーを見ながらの終戦記念日だったが、昨日14日は先祖とニューギニアで戦死した兄貴のお墓参りだった、数年前ニューギニアの海岸の砂(珊瑚礁)を、父親の慰霊で現地へ行った安藤さんからいただいていたので両親のお墓に納めてきた、ジャングルで餓死かマラリアで戦死した兄の戦場のにおいを両親の元へ届けたのだった。
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