終戦記念日 平成21年8月15日 加藤 登
64年目の「終戦の日」がめぐってきた。
昭和20年8月15日、正午、「重大放送があるから」との連絡で近所の人は部落会長さんのお宅に集まっていた、ラジオの前に集まった大方の予想は、最後の本土決戦に向かって気持ちを引き締めるための天皇陛下からの直接の指示(勅諭)だろうと考えていたのだったが。天皇の言葉を直接聞くのははじめてで、やや聞きづらい声だったが「耐えがたきを耐え、忍び難きをしのんで」・・・・。このあたりから無条件降伏、戦争に負けた、戦争が終わったんだ、その程度のことはすぐその場で理解できた。
私個人としては、悔しい、残念よりもほっとした気分が本音で、これで戦場へ行くことは無いだろうと安堵した。
軍人、軍属、民間併せて300万人が犠牲になったこの戦争の体験者は年々減るばかりで、国民の4人に3人は戦後生まれだそうです。
この時期の報道機関は、「戦争体験を語る」、「強制連行の歴史を発掘する」などの記事が目をひくが、自分の直接の体験はグラマンの旭川空襲で、低空を編隊飛行する機影を眺め次々と急降下で国策パルプを爆撃していた。この旭川空襲が何月、何日だったのか気になったいたが、最近になって昭和20年7月17日だとわかった。その頃から旭山の倉沼側に防空壕掘削が始まり、ここでは多数の朝鮮人が働いていたので、今にして思えばこの人たちも強制連行だったのだろうか思います。終戦後は作業も中断し、旭川小学校に宿泊し帰国の日を待っていた、町民は歌や踊りで慰安の舞台を設けたりして、暴動を起こさないようにずいぶん気を遣っていたようだ。
終戦の日に思い巡らしながら旭山墓地へお墓参りにでかけた。先祖代々のお墓とは別に兄貴のお墓がある、そのお墓には「西部ニューギニア、ホーランジアトム地区にて戦死」と刻まれている。戦死の日付は「昭和19年6月5日」となっているがこれは厚生省/引き上げ援護局が勝手に決めた日付で、しかしその頃部隊はジャングルに入って移動中にほとんどが餓死で亡くなっているからこの日付はあまり意味がない。
隣のお墓は従兄弟の孝一さん、ガダルカナルの戦病死だった。仲良しだった二人が南十字星を見上げてみた夢は何だっただろうか、60数年前の戦場に思いを馳せ、不戦を誓いながらの終戦記念日だった。
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高橋静枝先生を囲む 21・8・20 加藤
昭和12年(1937)4月1日、私たちはすごく美人で羽織はかまの美しい高橋静枝先生に迎えられて旭川第四尋常高等小学校に入学した、今から72年前、今で言う「ぴかぴかの一年生」は今年で78歳、79歳になって、恩師の高橋先生は91歳になられた。例年は先生をホテルかお寿司やさんの二階へお招きしてクラス会を開くところだが、先生もご高齢で出かけてくるのは大変だろうと思い、今年は先生のご自宅へ押しかけて茶の間を開放してもらった。
出会いから72年間、教師と生徒の関係は変わることなく、78歳の私も登ちゃんと呼ばれる、お互いの関係も当時の呼び名やあだ名がそのまま通用する楽しくて不思議な世界だ。
クラス会の話はたわいもないことだけど、Tさんの話はこうだった、、、、。私は学校へは6年生までしか行っていません、その6年生も農作業の手伝いで休みがちだったこと、修学旅行にも参加しません。修学旅行に行けなかったのはすごく残念だった。高等科にも行かなかった。そんな話をぽつり、ぽつりと語り出した。同じ学年で記憶にないことだったのでびっくりしたが、当時は義務教育が6年までで、小学校で止める子が何人かいたのです。昭和18年、第二次世界大戦もガダルカナルの撤退から、レイテ湾海戦の壊滅的惨敗、圧倒的物量の米軍の反撃にサイパン玉砕、アツツ玉砕、ビアク島玉砕と負け戦が続く中で、日本の農村は貧乏で子どもを満足に学校へ通わせることも出来ない家庭があったのだ。貧乏で子だくさんの農村は兵隊さんの供給源だったが、なんであんな戦争を始めたのかわからない。この度の総選挙でも、民主党では国を守れないとか言ってるが、国を守とはどんなことか真剣に考えなければならない、クラス会から話がずれてしまったが。戦後60年、平和のありがたさをかみしめています。
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8・30無血革命 2009・9・1 加藤
大きな変革があったとき「山が動いた」とか「壁が動いた」などの表現で、実現しないと思われた事柄が予想もしない結末を迎えて驚きの表情で語ることがある。この度の総選挙で民主党が308議席を得て政権交代を実現させたことは民主的な手続きによる革命のような現象ではないだろうか。

新聞報道もテレビも様々な角度から自民党が惨敗した原因を探っている、おおざっぱにまとめると小泉構造改革による格差社会、地方の疲弊、年金福祉行政に対する不満等々、特定の支持政党を持たない無党派層だけでなく長年の自民党支持者までが、このままでいい訳がない、一度変えてみようと考えて小選挙区も比例区も民主党へ一票を投じた。近所に住む社長の奥さんが、今度は自民党以外の政党に入れようと思うが何処に入れたらいいかわからないので、選挙戦が始まったとき一番先にわが家の前を通った選挙カーを見て決めようと考えてた、さて最初に来たのが民主党の広報車だったので、候補者は乗っていなかったがこれで決まり、今回は民主党に入れますと言う話だった。つまり長年の自民党支持から馴染みのない野党(民主党)へ乗り換える気持ちの整理がつかないために無理に理由を探しているようだった。ただ棄権はしたくない、当日の開票結果をみる楽しみがないから、、、、、。
さて全国の野党支持者の中で一番落選させたい候補者の筆頭に中川昭一がいた。人様々で小泉さんは引退したので、次は小泉さんの腰巾着、武部さを落としたいという人もいたが。結果として中川昭一は比例区当選もなく議員資格を失った、しかしこの人に自民党惨敗の反省は見られない、曰く「十勝がだめになる」、「日本があぶない」と叫んで翌日から挨拶まわり、4年後の復活を見据えて活動を開始したそうです,元自衛官田母神さんの応援を受けるこの人の信条こそ危ない、危ない。十勝の有権者の大方の判断はまだまだ捨てたものでないと思った。民主党に変わって急にあれこれ好くなるとも思えないが、のど元のとげを一本でも抜いてくれそうな期待を込めて開票結果を見守った。
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