玄海4号機運転再開      加藤登     2011・11・4
 2011年11月2日、停止中の原発が運転を再開した。3月11日の震災以来、一度停止した発電用原子炉の運転再開第一号になったもようだ。佐賀県は九電のやらせ問題で世間を騒がせていたがこちらの解決を後回しにして運転を再開してしまった。町長も知事も運転を容認、「住民の理解を得られた」としている。この原発は操作の手違いで停止したものだから運転中と同じ、むしろ止めておくのが不自然だと解釈している。
 これはこれで良しとして、野田総理の原発への姿勢が曖昧だ。福島第一原発の収束が見えない、原子炉の解体に30年、その技術的な問題はこれからの研究課題らしい。且つまたうまく解体したとしてその核のゴミを日本のどこで保管するのかも決まっていない。日本のエネルギー資源として現状で原発が必要なことは多くの国民が理解していると思うし、自分も毎日毎日の生活で電力の恩恵を受け、便利な生活にどっぷりつかっているわけだから感情論で「原発反対」とはいいにくい。
 朝日新聞の「耕論」11月4日(金)は「原発避難・双葉町から」を特集し、井戸川町長、若い町職員の秋本さん、元厚生病院看護師、賀村さんの感想や意見や主張が掲載されていた。井戸川町長さんは「住民を元の生活に戻す」のが基本だといいます。なのに政府は避難住民に対して、いつまで、どこに、どのように、一切説明がないそうです。賀村さんは避難住民の苦悩を見ています、若い職員は町の復興に意欲を持っています、しかし故郷はいつになったら人が住めるようになるのか。政府も東電も安全、安全といいながらこのように汚してしまった。そのことに謝罪も反省もなく、町の復興計画を作れといわれたって、「汚染されたがれきや土壌、枯れ葉やゴミはとりあえず地域で保管しなさい」と指示されても、帰るための工程表が先だろうといいます。
 避難住民の苦しみは日本人一億人の一人ひとりの苦しみです、その心情が共有できない人は政府と電力会社の一部の人間だけではないだろうか。原子力災害の収束の見通しもつかないときに原子力発電が一番安い電力だなどといい、再び安全、安全と言いくるめて運転の再開をもくろむことは許されないような気がしてならない。野田総理の安全運転とはいかに。
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                   忠別川にサケの遡上       11/4    加藤
 昨日「大雪と石狩の自然を守る会」の事務局の方から忠別川にサケが群れで遡上していると聞いたので早速旭神町と東光を結ぶ環状線、ツインハーブの下へ出かけてみた。橋の上から眺める人、大きな機材を担いだ放送局か新聞社関係の人、稚魚の放流をサポートした市民グループの方たちも来ていた。赤い標識を付けた魚を見つけたら知らせてほしいとのことだった。ここは旭川空港の近くから流れてくるポン川との合流付近で例年この付近から稚魚の放流を続けたらしい。

 数年前から産卵後の「サケの死骸」が見つかったとか、産卵場所を確認したとか、深川の頭首工まできて遡上出来ないサケが多数見られるなどの情報があったが、開発局が取水堰に魚道をつけるなどして回帰に備えていた。
 札幌の水産総合研究センターがサケの天然回帰を目指して2009年から毎年50万匹の稚魚を放流しているから回帰が定着してくれる可能性も高い。毎年多くの市民が家庭の水槽で数十匹ずつの稚魚を育て、豊平川のようにサケの遡上する川を目指して頑張ってきた自然保護団体の根気強い努力のたまものだから関係者の喜びはいかばかりかと敬意をもってお祝い申し上げます。
 多数のサケの群れは縄張り争いなのか、故郷へ戻った喜びの表現なのか互いに絡み合うように乱舞している。河口から100キロに余る旅を続けて自分が生まれた故郷に戻ってくるその律儀さにいとおしさが募るばかりだった。(写真は11/4・道新朝刊から借用しました)
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                   思いでのアユタヤ遺跡   11/15
 タイの洪水の様子が新聞・テレビで報道されるようになって一ヶ月以上が経過している。日本の主要な企業がタイに生産拠点を移していることは理解していたが、「アユタヤ工業団地」という地名で報道されるようになってから、30年も昔のタイ旅行を懐かしく思い出している。アユタヤは「チャオプラヤ」川の流域でバンコクから60kmあまり上流、かつての穀倉地帯です。1600年代室町幕府のころ朱印船貿易で山田長政が活躍した土地としても有名なところです。
 1350〜1767年当時のタイ王朝は世界各地の貿易で栄え、その富で立派な王宮や数多くの寺院が建ち並ぶ東南アジア最大の都市だったそうです。1767年ビルマ(現ミャンマー)軍の侵攻で破壊され滅亡しました。私たちが文部科学省の海外研修チームとして訪れたのは1979年10月です。この遺跡がユネスコ世界遺産として登録され手を加えて保存されるようになったのが1991年ですから私たちが見た当時の遺跡はまさに草ぼうぼうで瓦礫のやまでした。現在はきれいに整備された遺跡公園としてタイ観光の目玉になっているようです。 そこで新聞などで見る現状の写真と、30数年前の研修旅行の写真を比較しながら記憶を呼び戻してみることにした。
       

2011年11月3日、朝日新聞。
「沈む世界遺産」と題して、タイを代表する観光地の「アユタヤ遺跡」がほぼ全域で冠水している様子が掲載されていた。
 中央の寺院が「ワット・チャイワッタナラーム」、ワットは寺院(寺)ですから日本流に書くと「チャイワッタナラーム寺」です。
 さらに11月13日の朝刊で「冠水の寺院、傾く仏塔」と題してこの仏塔が大量の水で地盤が緩み仏塔が傾くなど深刻な被害が出はじめて、ユネスコが実態調査に乗り出した。水深は1〜3メートル、小型ボートで遺跡に近づいて調査しているそうです。




                      現在の涅槃仏

 
アユタヤ遺跡群
 
アユタヤ日本人町跡
 
当時の寝仏(涅槃仏)

 1979年当時の遺跡群、この写真が上記の「ワット・チャイワッタナラーム」なのかは確認できません、このような仏塔がたくさんあって、草むして崩れかけていました。中央の写真はアユタヤ(アユチャと記されている)日本人町の跡。山田長政が活躍した時期は1500人ほどの日本人が住む街だったらしいが、鎖国になって再び日本へ帰ることはなかった。右は見学した当時の涅槃仏、現在の写真と比べると瓦礫に囲まれた当時の様子がよくわかります。
                                 チャオプラヤ流域


高速艇

高床住宅1

高床住宅2

住宅前で水遊び

広大な水田

 アユタヤ遺跡見学はバスと船の乗り継ぎでした、船といっても幅が2メートルくらい、真ん中に座って縦一列に並びます。ヤマハ製の船外機がついた高速艇です。上の写真中央の3枚はアユタヤに近い流域で船上からの撮影ですが。いずれの家も床が高くハシゴが付いています、家の前に小さな桟橋があって、ボートが繋いであります。これって雨期には相当に水位が上がることを物語っています。この地方は雨季と乾季の繰り返しで、チャオプラヤの洪水は農村にとって肥沃な土壌を運んでくる恵みの水だから。このおかげで施肥量を減らした水稲栽培も可能だったのです。
 報道によると、この度の水害は記録的な豪雨による災害らしいが、過去には流域の広い農地が大量の水を蓄えてくれたわけだから、工業化によって農地が減少し、増水した水を蓄えるダムの役割をもった水田が少なくなったことも被害を大きくした一因ではないかと勝手に想像しています。

         〈追 記〉
 新聞報道は川の名前が「チャオプラヤ」となっています、我々はバンコクを流れる大河を「メナム」と習ってきました、社会科の教科書がいつ頃メナムをチャオプラヤに変更したのか定かでありませんが、おそらく現在40歳以上の日本人は「メナム川」と習ったはずです。自分も感想文の中で「おおこれがメナムか」と感動していました。しかしメナムは川という意味だそうです、川が先に来て、その川の名前が続きます、古い百科事典を開いてみると「メナム・チャオプラヤ」です。大河をみて感動した私は「おおこれがメナムか!」は「おおこれが川か」と言っていたことになります。参考までに(加藤)
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                        ダルビッシュ有    2011/12/09     加藤
 ダルビッシュ遂にメジャー挑戦、正直淋しいです、2003(平成15年)東北高校2年の甲子園で準優勝したころから応援していました。甲子園の優勝旗が白川の関を超えるとしたら北海道は無理だからとりあえず身近な東北高校を応援しよう、彼の決勝で負けたときの敗戦の弁がさわやかだったこともあって応援していた、しかし翌年(04年)の東北高校は準決勝で敗退し代って駒大苫小牧が初優勝してしまった。この年仙台に新球団「楽天イーグルス」が誕生し、当然ダルビッシュを1位指名かと思われたが楽天は即戦力の一場を指名し、ダルビッシュは「北海道日本ハムファイターズ」へ入団することになった。その後の活躍はここで記すまでもないがどれほど我々に勇気と希望を与えてくれたことか本当に感謝しています。
              

 

        

写真は朝日新聞より借用、2011・12・4日札幌ドーム、ファンフェスティバルで見せた笑顔。
入団から7年間、いつも穏やかな表情と、優しさと、うちに秘めた闘志で多くのファンを魅了してきました、米国へ渡っても体調に十分気をつけて北海道のみんなが、いや全国の野球ファンが応援しています頑張ってください。
 
追記 昨日12月8日は真珠湾攻撃から70年、いろいろな思いが交差します、この日を記憶する人や戦場から帰還した日本人も次第に数が少なくなりました。自分も兄が戦死したニューギニア戦記を調べてきましたが、記憶は無くなっても記録は残して置きたいです。今日は開戦記念日の思いを書くつもりだったのがダルビッシュへの感謝の弁と代わりました。(12/9 加藤)
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