年頭所感   2007・1・3    加藤

 暮れに風邪をもらい、おまけに不摂生がたたって新年に持ち越してしまった。それでも気分転換にと思い上川神社へ初詣に出かける、おみくじは小吉ながら「旅立ちはよし」とあったので今年はのんびりした旅行を計画したいといちるの希望がわいてきた。さて年頭所感といってもしんどい身体の中からは生きのいいファイトがわいてこない。安倍総理の「私の任期中に憲法改正を実現したい」といった発言にも私は何となく敗北感をぬぐい去ることが出来ず打ちのめされていました。しかし今日までの年賀状のなかで40歳代の若い教え子が我々戦中派の平和を希求する気持ちを受け継いでしっかりと意見を述べていることに感じ入った、そして最後に「地位や権力は持たずとも、彼らより国を憂える志もあるし弱いものいじめなどしない、(自らのレベル以上の政府はもてない国民だけにはなりたくない。)」と締めくくっていた。私は若い人がなぜ激しく右旋回していく政治に疑問がわかないのかと不審に思っていた。民主主義の根幹に関わる事態に疑問を抱かない、そのことが不思議だった、すなわちやらせによって世論を誘導する、反対意見をののしり、言葉の暴力でたたく、これでは民主主義の否定だろう。若い人の中にも大企業よりの経済政策や教育基本法の改正に疑問を投げかけ国の未来を憂慮する意見に接して勇気づけられた。独立国家にとって不似合いな憲法9条が半世紀も持ったのだからもう少し我慢してみよう、お陰でイラクの戦場へ出かけた兵隊さんも一発の弾丸も撃たずに帰ってきたではないか。激しくののしられても戦争には反対しよう。ニュウギニアのジャングルに若い命を散らした兄貴の御霊(みたま)に戦争反対を誓いたい。
                                   

                     氷点下41度    2007/01/25     加藤
 −41℃は旭川が誇る気温の国内最低記録である。しかし暖冬異変というべきか、地球温暖化の影響なのか今年(平成7年1月)の旭川は暖かい、一度だけ江丹別で−20℃以下になったが市内では早朝の最低気温で−7℃から−10℃程度で推移している。そんな中、早朝のラジオ朝一番では明治35年1月25日、旭川で氷点下41度となって、これが国内最低気温の記録だと紹介されていた。これは当時上川二等測候所の記録として残されているらしい。
 測候所レベルの記録ではないが和寒町福原のしばれも有名で、私も−37℃くらいは体感したことがある。ただ普通の家庭用寒暖計はマイナス35度くらいしか目盛りがないのでこれ以下はよくわからないし勿論誤差もある。
 昭和53年2月17日(−41.2度、)・・・・昭和62年1月21日(−41.1度、)これは開発建設部委託・福原気象観測所の記録で、テレビ・ラジオでも紹介されていました。福原については私のホームページ(リンク)から「覚礼原野」に入ってもらうと福原出身佐瀬昭氏の詳細な記述があります、是非読んで見てください。
 なお、今、目を通している「凍裂のひびき」・・・・和寒町教育委員会発行の和寒町民逸話集の題名「凍裂」は気温が−40度以下になると立木の樹液が凍って樹木が割れる現象のことで、このときに響く凍裂の音は開拓者にとって辛くもの悲しい音だったに違いない。逸話集「昭和・平成編」では戦中、戦後の様子が鮮やかに語られている。
                          旅日記            



                     団体銅メタル    2007・2・26     加藤
 昨日の世界ノルデックスキー選手権ジャンプで3位入賞は率直に嬉しい。長野オリンピックとは比較にならない低迷期にあって、悪いときに大会を誘致したもんだと嘆き、盛り上がらないままに大会が始まってしまった。しかし開会式のその日、夏見円選手(旭大高出身)がいきなりスプリント5位入賞で大会への関心も高まり、ジャンプ陣も大応援団の声援を受けて団体3位入賞を果たした。スキー関係者のほっとした気持ちが伝わってくるようだ。

        
     入賞を喜ぶ・伊東、栃本、葛西、岡部。         スキーがはずれて60m付近に肩から落ちる高橋大斗
 複合は、エース高橋大斗選手の怪我で団体戦は10チーム中8位に終わったが補欠からいきなり本戦出場となった加藤大平選手(和寒町出身)の大ジャンプはこれからが期待される、さらに走力をつけて世界の舞台で活躍する選手になってほしい、和寒町からの応援団も力がはいっていた。さて、今は高橋大斗選手が怪我を克服して一日も早く、再び日本を代表する選手として復帰されることを祈るばかりです。

   追記  2月26日は今から72年前の2・26事件の日に当たることに気づき感想を付記しようと思う。
戦後しばらくは、戦争への反省を込めて5・15事件とともに事件の様子が伝えられていたが、今日のこの日も事件についてのテレビや新聞報道は見あたらない。犬養首相が暗殺された5・15事件は私の生まれた翌年、昭和7年のことで、高橋是清大蔵大臣他が軍部の若手将校の襲撃で射殺された2・26事件は昭和11年2月26日、私の小学校入学の前年に当たる、翌年の昭和12年には現中国とのあいだに戦争がはじまった。当時の様子は親父の口からもしばしば聞かされていたが、冷害、凶作、世界恐慌のなかで農村はひどく疲弊していたようだ、そんな苦しい貧乏百姓で我々兄弟を明るく健康に育ててくれた両親に感謝したい。何故か思い出は走馬燈のごとく記憶の断片は楽しいことばかりで埋め尽くされている。 二度と戦争への道を歩まないことを願いながら。                       
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