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みちのく「陸奥」4泊5日の旅 08・6・1〜5
みちのくフリーきっぷ符(23,700円)
冬の終わりころ、友人Sさんご夫妻と暖かくなったら何処かへ旅行しようと話が盛り上がって実現したのがこの度の「みちのく4泊5日の旅」だった。当初はサクラが終わって新緑とツツジの花が咲き乱れる5月中旬を想定したが、多忙な日々が続いたため6月にずれ込んでしまった。
JRのこのきっぷは青森、秋田、岩手(北東北3県)がフリーなので、芭蕉の足跡を尋ねたいと言うSさんの希望を取り入れて山形県(山寺)をめざして旅を始めた。結局、仙台2泊、秋田2泊の4泊5日の旅はJRとレンタカーで移動することになった。

6月1日(日)早朝のスーパーカムイで旭川を旅立ち、スーパー北斗2号、スーパー白鳥18号と乗り継ぎ津軽海峡トンネルをぬけて八戸到着が13時52分、待つ間もなく新幹線「はやて」に乗り込んだ。JRのフルムーンはグリーン車に乗れるがフリーきっぷの座席は普通車両、左2座席、右3座席だった。
この「はやて」、東京までの間で盛岡、仙台、大宮にしか停車しない超特急なのでこの間の新幹線駅を利用する場合各駅停車の「やまびこ」に乗り換えなければならない。我々も盛岡で乗り換えてフリーきっぷの最南端、新幹線一ノ関を目指した、到着15:48。早速駅レンタカーを借りて東北自動車道を南下する、車はトヨタ「ヴイッツ」燃費はいいらしいが大人4人と荷物を積むとかなり重い、上りに入るとスピードはがくがくと落ちてくる、トラックの後ろについて登坂車線を走りたいくらいだ。辛抱よくだまし、だまし加速をつけて何とか仙台宮城インターまで走りきった。およそ一時間でホテル白萩(公立学校共済)到着、仙台郊外にお住まいのSさんのお姉さんと家族が出迎えてくれた。
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杜の都仙台の看板、「定禅寺通」およそ1キロのケヤキ並木の新緑が上空を覆い尽くす。
2日目 山寺(立石寺)、南陽市(吉野、織畑)、上山(上山城)
昨夜の安着祝いで飲み過ぎた疲れを振り払って8時過ぎレンタカーに乗り込んだ、一方通行をぬけて定禅寺通りに出る。広瀬川を渡るあたりで仙台西道路侵入コースを間違えて遠回りをしながら仙台宮城インターより東北自動車道へ入る、およそ20q、村田J・C・Tを回り込んで山形自動車道にはいると、難所笹谷峠を長い長いトンネルでぬけて蔵王、山形へ、今日のヴイッツは快調で、山形北で高速道を出るとまもなく山寺に到着した。下山道の前に駐車、料金500円は白い紙にまるめて箱の中に放り込む仕組み、のんびりしていて、なんとものどかでさわやか。向かいのお店で杖を拝借して登山を始めた。
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旧奈良家住宅は大型農家の住宅で、国指定の重要文化財として保存されている。
建てられたのは(1751〜64)今から350年ほどの昔で奈良家9代目「喜兵衛」という人が3年の歳月をかけ、銀70貫、棟梁も間杉五郎八と記録がはっきりしているそうです、奈良家の初代が大和の国からはるばるこの土地へやって来たのは1555〜58年ころの戦国時代で上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていたころだそうです。近くに県立博物館があってそこの職員が(やさしい、しっかりした秋田美人)何かと説明してくれた。通常の入り口から入ると広々とし「タタキ」の土間があって馬小屋、大きないろり、奉公人の寝泊まりは中二階、土間の左手に居間、台所、座敷、奥座敷などがならんでいる、この土間には300年の様々な人々の思いがしみこんでいるのだ。お馬さんと隣り合わせのこのいろりを囲んで江戸期の奉公人の話し声が飛び交っているような空間だった。家屋や屋根の保存のため毎日こうしてたき火を続けているそうです。
左から寒風山、寒風山からの展望、大潟村の水田、交会点、交会点の説明。
大潟村でkさんと落ち合う約束があったので旧奈良家住宅を離れた、実に見応えのある家屋群だった、寒風へ上る、この山は標高が○○mで麓の一部を除いて樹木のない草原に覆われた坊主山だ、360度の展望が楽しめる、北西に男鹿半島、南東に旧八郎潟、現在の大潟村、南に日本海が広がる。中央干拓地が水路と一部残存湖に囲まれている様子を見ることが出来る、我々は南側から大潟村へ入っていった、まったく高低差のない直線道路が続く、大潟村干拓博物館の前でkさんと再会した。Kさんは第四次の入植で昭和44年、佐呂間町から入植希望願書を出し難関を突破しての移住だった、資料によると第五次までの選抜で入植希望者2463戸、入植者580戸で平均4.3倍の競争率だった。この計画が農林省によって立案されたのが昭和20年の後半、まだ国民の総てが満腹した状態ではなかった、しかし入植の始まった昭和42年は政府米の在庫は飽和状態に成っていた、神代の昔から米が国家だと思っていたところへ電氣、自動車の売上げで国民が食べていくことに変わってしまったから、米なんて安いカリフォルニア米輸入したらいいだろう見たいに激変してしまった。Kさんの案内で田植えが終わったばかりの水田を見せてもらった、1枚が2町5反(25hr)、これが左右4枚で10町歩(10hr)これが入植当時でその後第5次以降の入植を中止して各戸に5町歩ずつの追加配分があって15町歩の水田農家が誕生した。

干拓博物館で写真展を観た、kさんの長男が「寒立馬」を主題に10年以上下北半島に通い詰めて撮った作品が並び愛らしい親子の姿に癒された、「寒立馬は農耕馬としてこれ以上の馬はいません」とKさんがつぶやいた、この寒立馬のすばらしさについて後日思わぬ場所で証明されることになった、それは6月中旬会津若松への旅行で漆器工場を見学しているとき直売所の店員さんの声が耳に入った、馬の最高峰が寒立馬ならこのお箸は会津塗りの寒立馬です、会津塗り箸を寒立馬にたとえて説明する店員さんの声に耳をそばだてながら写真展を思い起こした。ちなみにそのお箸のお値段は一万円近いものでした。
話が横にそれたが干拓博物館で大潟村の成り立ちを見学し、失礼だがこの村に不似合いな大型ホテルの展望レストランで食事を取りながら何処までも何処までも水平な村の様子を眺めた。その後Kさんの案内で村内を車で走った、十字に区切られた道路は何故か砂利道で40年の歳月で育った黒松の並木は防風林の役目を持っている。車は記念碑のような塔の前で止まった、交会点標示とある、日本の国内ではこの一点が唯一の場所らしい、「交会点」それは整数値をとる緯線と経線の交点のことで、大潟村が陸地になったことで日本で初めて陸上に交会点標識が立ったそうです。北緯40度、東経140度です。交会点の詳しい説明は後日に回して、大潟村には海抜ゼロメートルの人工の山があって、山頂が海抜ゼロメートルの築山を山と呼べるのかどうかは別にしても村の全域が海水面より低いことはまちがいない。考えてみればこの陸地は湖を埋め立てたものではなく、堤防を作って中の水をくみ出して作られた陸地だった。それにしてもKさんの最後の言葉は「今でもこの干拓事業はやるべきでなかった」という人がたくさんいます。八郎潟の自然は未来に残すべき大切なもので取り返しのつかないことをしてしまった反省のようです。減反政策を受け入れてカボチャを栽培する風景を眺めながら複雑な心境になりました。最後に国の農業政策に翻弄されるKさんご一家のささやかな安定と大潟村の将来を案じながら、東北自動車道、五城目八郎潟インターで見送りのkさんご一家に別れを告げました。(以下角館は後日とします)
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