上川紀行   岩村道利    明治18年(1924)8月
 (八月)
十九日
朝、農商務大書記官山内堤雲(炭坑事務所長)と札幌より汽車に乗りて幌内に至り、その炭坑を視る。午下、返って幌向太に至れば、すなわち陸軍少将永山武四郎(屯田司令長官)・農商務大書記官長長谷部辰連(工業事務所長)・札幌県大書記官佐藤秀顕(県令代理)・林昌介(永山随員)・足立民治(長谷部随員)・福成豊・内田捨六(佐藤随員)等来たり待つ。永山・長谷部・佐藤は皆旨を受けて余と同行するなり。上川は札幌を去ること四十里ばかり、未だかって一つの経路をも通ぜず。足その地を踏むもの極めて希なり。佐藤・内田はかって一たび至るも、未だ詳しきこと能わず。ひとり福士のみはしばしばこれを探り、実にこの行の主人たり。幌向太に宿す。
 二十日  暁、山内と別れ、幌向川より船に乗る。船は木の腹をくりてこれを造り、長さ丈ばかりより丈二ないし三尺に到り、幅二尺より三尺に到る。名づけて丸木舟という。蝦夷は船を造るの術をしらず。これを以て水をやるの具となし、大海といえどもおそれざるなり。一船、わずかに客二人をいるゝのみ。二客対座するのみにして、みだりに舷により舳に立つを許さず。一たび禁をおかさば、すなわち旋転して覆らんと欲す。
 船ごとに船子三人、その二人は土人たり。けだし上流急湍のところは、土人に非ずんば盪する能はざればなり。幌向川をさかのぼること丁余、石狩川と合す。両岸の楊柳、蔭を交へ、これを望むに極まりなし。岸上、蚊虻多く、好んで人をさす。船の過ぐるあれば、すなわち樹陰より来進し、随って払へば随って集まる。衆皆、一沙布を携えてこれをかぶるも、頭より頸に到り、なほ防ぐ能わざるなり。
 さかのぼること数里、美唄多布にいたるに州あり、船を下って午餐を喫す。薄暮樺戸に達す。集治監のあるところなり。典獄安村治孝に迎えられてその偕樂亭に宿す。亭は石狩川に臨み清楚なること都会地の見るところの如し。云う、さきの典獄月形潔の治するところと。この地にしてこの結構あり。また一奇なり。
 二十一日  暁、樺戸を発す。
石狩川の左右は、沮鋤、里にわたり、葦芦叢生、池水滲みて川中に入り、水色混濁、漸くさかのぼって漸く清し。数里に到ればすなわち澄明鑑みるべし。午後五時半洞にいたる。日なほ高し。而れども筵を敷き、幕を張り、以て寝臥の具に備ふ。時を費やすこと許多、尽日つとめて行くべからざるなり。州によって飯を炊き酒を温む。この夜、天に繊翳なく、月色晶の如し。水声せんかん、衆皆流れに臨んで箕踞し、杯をあげて景を賞すること久し。三更、始めて幕に入る。
 二十二日 暁、衆、未だ幕を出でず、ひとり川のほとり立てば爽気骨に徹す。六時平洞を発す。尾白利香にいたって宿す。この日褥暑やくが如く、夜に到れば蚊群幕をおかした入る。蚊の形少しく尋常に異なる。ぬか蚊と名ずく。好んで毛髪の間に潜入し、防がんと欲するも得ず。余、もっともこれを畏る。そのさすところたるや、面首及び手足、腫起こして、状、癬を患う如く、かゆきこと忍ぶべからず。月にわたり京に帰りて、なほ癒えざるなり。 午後7時27分
 二十三日  天未だ明けず。衆を促して船に上る。午時小雨あり。妹背牛に到る。水声甚だ激し。船子、力を出してこれを過ぐ。四時驟雨盆を傾くるが如し。霧多布にいたりて宿す。夜、大雨、幕を撤して入り、衣衾浸せるが如し。中夜しばしば起きてこれを避く。
 二十四日  暁に霧多布を発す。夜来の雨やまず。ここに到ってますます甚だし。午時始めて晴る。すでにして河流、山に従いて屈し、これを望むにたちまち近し。両岸の樹木、蓊蒋として、枝葉垂れて流れに臨む。丸木船に乗りてその間を過ぐるに、ほとんど画中の人の如し。ようやく進めばすなはち懸崖削るが如く、湍水奔逸して、跳って船に入り、衣袂皆湿ふ。船の覆らんと欲することしばしば、神居古潭に達すれば、すなわち崖ますます高く、流れますます激す。峰巒河を圧し、老樹千年、真にこれ神作鬼造、覚えず奇絶と呼ぶ。これより春志内に到る一里弱は、また船をやるべからず。すなはち崖を礬ぢて山にのぼり、平坦の地を求めて幕を張るのところと為す。夜月明らかなること昼の如し。衆、崖頭に鳩首して相語るや久し。
 二十五日  人をして上川に到りその土人を召さしむ。けだしここより上川に到る三里弱は、河流懸かるが如く、巨巌その間に突出し、上川の土人に非ざれば船をやる能わざればなり。この日快晴、衆は行季をひらきて衣物をさらす。足立・田内等筆硯をだして書を求む。すなはち紙を巌頭に展べて即吟数首を揮ふ。午飯を喫し、巉巌を踏みて進み、春志内にいたりて止り、上川土人の来るを待つ。余、福士が携ふるところの釣竿を垂るゝに、垂るればすなわち獲。けだし魚は未だ鈎を知らず、故に畏れざるなり。また笑うべし。魚は大きさ尺余、烏鯉という。すなわち桃花魚なり。割きてさかなとし団座酣飲す。衆皆大いに酔う。高歌放吟、暁に到って止まず。
 二十六日  午時上川土人二十一人、船七隻を以て来り迎ふ。余等の乗るところに比すればやゝ小。けだしここより上流は、皆、急湍檄滝、交ふるに乱巌を以てし、小舟に非ざれば、回避すること能わざればなり。夜、上川土人に飲ましむ。土人にはおのずから尊卑長幼の序あり。その余等を見るやおのおの次を以て跪踞し、両手をあげて額に到り、また台掌して排すること六、七回。その酒を飲むに臨んでや、長者まづ箸を酒に浸し、空に播き地にそゝぐこと数回。曰く、天地河岳の諸神を祭ると。礼をはって始めて自ら飲む。その酔ふに及んでは、長者まず起ちむねをうってうたひ、且つ舞う。少き物は一斉にこれに和す。曲は解すべからずといへども、そも音鳴々として、おのづから悲
越の情あり。維新以後、府県より本道に移住するもの日に多きを加へ、土人と雑居す。土人もまたやゝその言語風俗に習い、一見よくその土人たるをわきまへられざる者あり。ひとり上川は、すなわち人世と隔絶し、依然としてその旧を改めず、今において土人の真面目を見るもの、上川あるのみ。而してこの行は、余、司法大輔を以て東京より来り、佐藤は本地方官を以てし、永山・長谷部もおのおのその属するところの長官を以て来り、酒と物とを賜う。彼らは驚喜おく能わざるの状あり。
 二十七日 暁に春志内を発す。巉巌河中に削立し、流水奔ってこれに触れ、砕けて雪の如く、舟のこの間を過ぐるや険甚だしく、危甚だし。船子すなはち挙げて舷をたゝく。云う、河神に祷って、以て覆没を免るゝなりと。八時上川に達し、近文山にのぼる。山は川を距てゝ十余丁。原野を一嘱すべきなり。時に微雨瞑矇、眼を馳するあたはず、すでにして雨はれ雲散じて、山河の形勢、歴々として睫上にあり、余、この行を図ること年あり。而も職業鞅掌、東西に奔走してこれを果たすあたはず。今や山に臥し野に宿すること六日、始めてこゝに到る。天にして知るあらば、またまさに雲霧を開いて、以て相酬ゆべきなり。すなはち福士をして全景を写さしむ。上川は東西約四里、南北七里。石狩岳高く半空に聳え、遠く十勝・忠別の諸峰と相接し、群巒重畳、波の如く濤の如く、起伏際無し。而して石狩・美瑛・忠別の諸川、その間に貫絡す。皆曰く、何ぞ甚だ西京に類するや。これ実にわが邦他日の北都なりと。けだし石狩岳は比叡山に似、その川は鴨川の如く、而して規模の大、遠くこれに過ぐ。行厨をひらいて一酌し、午時山を下って舟に上る。舟の疾きこと箭の如く、瞬間にして春志内に達し、即時帰途に就く。霧多布にいたって宿す。
 二十八日 前二時、霧多布を発す。
 舟すでに流れを逐い、軽駛して棹を留めず。 まさに明日をもって札幌に帰らんとす。時に万籟声を収め、淡月朦朧、水色煙の如く、欸乃してその中を過ぐ。風流の遊びもまた加ふるなからん。下ること七里ばかりにして天始めて明るく。後三時樺戸に到る。また偕樂亭に宿す。初め樺戸を発してより舟行七日、未だかって一たびも安眠せず。こゝに到りて沐浴して寝に就く。爽快言うべからず。
 二十九日 前三時樺戸を発す。
雨ふる。八時幌向太にいたり汽車に上る。十時、札幌に達す。夜、一行諸人を公園の偕樂亭に饗す。皆曰く、上川を検するは吾人を以て嚆矢とす。よろしく一碑を近文山に建てゝ以て永く不朽に垂るべしと。余をして文を撰せしむ。すなわち数言
を草して以てこれに付す。
曰く、明治十八年八月、岩村道利・永山武四郎・長谷部辰連・佐藤秀顕等、おのおのその官事を以てこの山に登る。すなわち山河囲繞し

、原野広大、実に天賦の富あり。多年大道、砥の如く、都府すでに成らば、相ともにふたたび登り、杯を挙げて酣飲、以て今日を談ぜん。すなはち相謀って碑を建て、以てこれを後に遺すといふ。       
                     旭川市史より 2012・10・3日加藤転記 
     
 神居古潭吊り橋 神居古潭渓流  石狩川と近文山 

                                国見の碑へ戻る            ホームへ戻る