旭川冬まつり        2009・2・11

 今年は政治も経済も、この閉塞感のなかで憂鬱な日々を過ごしてきた。旭川冬祭りもあまり乗り気ではなかったが、たまたま北海道立近代美術館の「一ノ戸ヨシノリ」展に誘われて出かけることになった。
 

「水と光ー異空間へのアングル」と題して造形作家、一ノ戸ヨシノリさんの作品を、じっくりと時間をかけて鑑賞する機会を得た。時間が早いせいか館内はわずかに3名ほど、後ほど数名の入館者が見えたが、作品の周囲を時間をかけて移動することで2枚の両面鏡の虚と実の駆け引きが面白かった。鳥かご、水と鏡とネオン管、自分の立ち位置を微妙に変えながら鑑賞してきた。
 隣の展示室は、洞爺湖サミット首脳会議の円卓と椅子、(北の住まい設計者(東川町)制作)が展示されていた。希望すればブッシュ大統領や、サルコジ大統領の座った椅子に座ってみることが出来る、写真もOK。
 ちなみにこの第二展示室、65歳以上の方は無料です。

一ノ戸さんの回顧展は一般観覧料900円)

 さて、美術館ロビーから眺める屋外は、旭川冬まつり常磐公園会場、「あさひかわ雪あかり」のオブジェが並んでいる、ここは光のオブジェなので夜になってあかりが点灯しなければ意味がない。この雪あかりも長年にわたり、造形作家「一ノ戸ヨシノリ」さんがプロデュースしてきたもので、この冬祭りの重要なイベントになっている。
 美術館を出て、石狩川河川敷の大雪像へまわってみた、昨年に比べると人出が少なくて淋しい。昨年は正午ころをピークに一日で20万人と言う人出だった、そのとき歩くこと、移動することが自由にならなかったが今年はその三分の一くらいだろうか。お陰様でゆっくりと会場を回ってみることが出来た。

美術館ロビーより・ 河川敷の大雪像・ 舞台ではヒップホップダンス・名古屋城・ひかりのオブジェ
「あさひかわ雪あかり」ひかりのオブジェは土橋平哉さんの写真を借用しました。

    ※一ノ戸ヨシノリ    1934年 上砂川町生まれ
                  北海道学芸大学旭川分校に学ぶ
                  前衛的美術運動にかかわる
                  1992年から「あさひかわ雪あかり」のプロデューサーを務める
       ホームへ戻る



                 ガラスのうさぎ      09・3・13

 昨日は映画を観てきた、映画の題名は「オーストラリア」勿論オーストラリアの作品で第二次世界大戦のころ、原住民アボリジニに対する差別、迫害。日本軍の爆撃などをからめて混血の少年のことが描かれている。主人公は英国からやってきた女性と牛追いの男性中心になるが、映画が終わってからもこの少年のことが頭から離れなかった。
 ストーリーの中に日本軍の爆撃シーンがあったが、しかし事実として日本の飛行機がオーストラリアを爆撃したことは無いと思う、日本の潜水艇が厳しい防衛網をくぐってシドニー湾に侵入したときは、海岸沿いのヨーロッパ系白人が土地を手放して内陸に移り住んだのは事実で、このあたりの一等地の多くが華僑の手に渡ったと聞いている。
 ところでこの爆撃の話から東京大空襲に思いが至り、3月10日は忘れてはいけない日として、たとえ1行でも語り継ぎたいと思った。実は私の友人にこの大空襲の生き残りの人がいて、この下町出身の相本さんから何度か話を聞いていたが、とにかく同級生、同期生が極端に少なく、盛大なクラス会にならないから、生き残った者で毎年追悼の集まりを持っているとのことだった。ただどれほどの被害があったのかは映画「ガラスのうさぎ」をみるまではまったく知らなかった。しかもこの原作者を作家の早乙女さんだと勘違いしていたので、いま、ここにあらためて訂正して書き留めて置きます。著者は高木敏子さんで、高木さんは疎開していて助かりますが、戦後の焼け跡で半分解けかかった「ガラスのうさぎ」を見つけます。このうさぎはガラス工場を経営していた父の作品です、このように実体験を基に書いたもので、映画には長門裕之、長山藍子、大和田獏、三崎千恵子などが出演しています。
 さて、高木敏子さんは今のこの不況を昭和4年、5年、6年ころの世界恐慌に似ていると心配します、私の生まれた昭和6年、農家は不作で大不況です、親父からは大変だった生活の実態を断片的には聞いていたが、この年に始まる満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と続く戦争への道を振り返って、高木敏子さんはまさにこのことを心配しているのです。3月13日の道新「卓上四季」によれば東京は一夜にして10万人が死亡したこの大空襲を含めて100回以上の空襲を受けているが、B29による都市攻撃は12日名古屋、13日の大阪、17日に神戸と木造住宅密集の一般市民を攻撃している。それでも軍部は米軍の本土上陸に備えて、一般市民を集めて竹槍訓練を続けていた。川中島の合戦だってもっとましな戦い方をしていたと思うが・・・・・・。
                                  ホームへ戻る


               加藤大平君
 2009年2月26日、スキーノルディク世界選手権(チェコ・リベレッツ)で日本複合チームは団体戦で14年ぶりに金メダルを獲得した。しかも前回荻原兄弟のころは前半ジャンプで得点を稼ぎ、後半の距離はジャンプで稼いだ時間差をつかって逃げ切る試合だった。
 
 その後、日本に不利なルールの改正があって、純ジャンプも含めて優勝から遠ざかる試合が続いた、それはジャンプで言えば板の長さの制限となって、身長の小さな日本人は浮力の大きい長いスキー板は使用が認められなくなったり、複合競技で言えば前半ジャンプの得点が抑えられ距離に強い選手が有利になるようなルールの改正だった。スキーの歴史が長いヨーロッパ、特に北欧の国々にとってアジアでただ一国だけ参加するニッポンに優勝を持って行かれることは許せないことだったのでしょう。
 ジャンプでどれだけ引き離すことが出来るかで勝負を決めた荻原時代から14年の歳月が流れて、今年の優勝は前半ジャンプが終わって5位からの逆転優勝だから、ニッポンはまったく生まれ変わったチームになっていた。エースでジャンプに強い高橋大斗選手をはずして加藤大平を入れたチームはみごとな滑りでトップ集団をつくり、秋田出身小林範仁選手のラストスパートでトップに立つとそのまま一着でゴールした、ドイツの選手と写真判定となったが見た目にも問題はなかった。長い年月をかけて走力を育ててきたコーチ陣とスキーワックスの研究の成果と言われている、

特に今回は秘密のワックスがみごとに的中したわけだが複合のワックスマンはオーストリア人だそうです。
 さて加藤大平君は和寒出身で中学生のころはクロカンの選手、特に目立つこともなく全国中学30位、高校はジャンプの名門下川商業、ここでジャンプが鍛えられて今回の優勝につながった。和寒の市街から12kmも離れた西和地区の出身で酪農業のお父さんがいつも送り迎えで練習をささえ、クロカンの名門和寒高校のスキー部が閉鎖されたため下川へ進学したと聞いていたが、これほど力をつけているとは知らなかった、これも14年前の金メダル河野チーフコーチの指導のたまものと思います、同じ加藤で家系図的には繋がっているが、遙かに遠く、この子のお父さんが(49)小学生のころ邦雄ちゃんと呼んでいたころの記憶しかない。
                                                ホームへ戻る