遍路の旅日記.続き  最終回   04・4・19~23     加藤
4月19日(月) 旭川空港14:45-伊丹空港-三宮-徳島。21:00着
4月20日(火) 善通寺-金倉寺-(お墓参り、Aさん宅訪問-ホテル)

 昨夜は徳島で一泊し、すっかり馴染みになったニホンレンタカー(8:30)で契約を済ませてスタートした。
快晴で気分爽快、昨日の関西は大雨洪水注意報、伊丹空港と三宮乗り換えは土砂降りの雨だった、一転して今日は快晴、眉山がみずみずしい。
 徳島市内は通勤時間帯でやや混雑していたが鳴門まではおよそ30分で高松自動車道へ入った。
 津田の松原サービスエリアで小休止、高松市内を一気にぬけて善通寺へ向かう、お天気は申し分なし、溶岩台地の屋島に見とれながらのドライブだった。10時半善通寺、今年もよろしくとお参りを済ませて同行二人76番金倉寺(こんぞうじ)へ向かった。 
  ☆76番金倉寺
  善通寺からおよそ5km、高速、高松自動車道の下をくぐったあたりで右前方に境内が見える、駐車場は有料で200円だった。境内が広い、かって132坊をもつ広大な寺だったが戦国時代、長曾我部軍兵の讃岐攻めですべて消失した。実は私の母方の先祖はこの戦いに敗れて山中にかくれ姓を変えたと記録にあるらしい。境内に乃木将軍の銅像が建つ、乃木将軍が善通寺師団の師団長のころこの寺を仮住まいとしていた、将軍の遺品の展示もある。母が乃木将軍を崇拝していたので浪曲「乃木将軍」を聴きながら日露戦争の話を聞かせてくれたことが懐かしい。今年は日露戦争から100年、東郷平八郎とともに話題になることが多い。
 今日のお遍路はここまで、善通寺市街へ戻って、綾歌町へ向かう、綾歌町役場、楠見玄照寺、ご先祖様のお墓参り、飯山町役場、坂出市のいとこAさん宅訪問などが予定だった。役場では父母の除籍謄本を取る、玄照寺の老僧小川さんは89歳、裏山の果樹園で草取りをしていた、桃の実が花柄をつけたまま1cm位に生長して青く輝いている。
 昔話をききながらたくさんたくさん元気をもらった、父方、母方両家のお墓参りを済ませて坂出のAさん宅へ、いとこのAさんも89歳で玄照寺の老僧と同い年だ、Aさんも元気がいい、ショートステイからわざわざ戻って待っていてくれた、Aさんは昭和18年にご主人がビルマ(現ミャンマー)戦線で戦死、戦後は女手一つで二人の男の子を育ててきた。このたびは戦中戦後の苦労話はあまりしなかったがご主人と死別して62年になるという。「旦那さんの分も長生きしてください」というと「こればかりは寿命だから」と笑っていた。先の戦争の傷跡が一つ一つ消えようとしている。そして再び戦争の準備を始めた政治の動きが気になること、世間は戦争を否定しようとしないでイラクの戦場に近づいて人質になった若者を袋だたきにしている。Aさんの悲しみとご苦労を思うとき、このような世間の仕打ちにいらだちを覚え、うろうろするばかりだった。午後4時半ころ、施設へ戻るAさんを見送って分かれた、さぬき浜街道へでて瀬戸大橋の下をくぐり「オオクラホテル丸亀」へ安着した。
 ☆77番道隆寺
 4月21日(水)快晴。お遍路を再開した。
 昨日は気温28度、大阪は30度を超えて四月の気温としては観測史上最高になったと報じている。とにかく暑い今日も28度は超えそうだ、午前8時浜街道を西に向かってほどなく多度津の道隆寺に着いた。国道脇の駐車場から入るとここは北門で本堂の正面はるか向こうに仁王門が見える、付近一帯桑園の領主和気道隆(わけのみちたか)の子が弘法大師に師事し、後に寺を建てて父の名を取って「道隆寺」とした。父の道隆が分け合って刻んだ薬師如来像を大師は自ら刻んだ薬師如来のなかにおさめて本尊とした、体内にもう一つの如来像があることから「腹ごもり薬師」とよばれ、50年に一度しか開帳されない秘仏、次回は2033年となる。正面駐車場に次々と団体遍路バスが到着し広い境内がお遍路さんであふれてきた。
 
  ☆78番郷照寺
 今度は折り返して国道21号から丸亀高松線へ入る。
右に丸亀城を見上げながら宇多津町までくると、国道から少し入った門前町へ駐車して坂道を歩いた。
 小型車は回り込んで境内まで行けることがわかったがこのフイールドは歩いて正解だった、写真の通用門からだらだらと上りながら右眼下に瀬戸内を眺め道の脇はツツジが満開だった、さらに急な階段の上に山門が建ち振り向くと前方に瀬戸大橋が眺められる。ここも戦国時代兵火で消失したが高松藩主松平頼重によって再興された。本尊は阿弥陀如来「厄除けうたづ大師」ときいて懇ろにお参りして下山した。今年も門前のお店で草餅2個を買い求めて車へ戻った。 
☆79番天皇寺
 自分としては四国で一番数多く尋ねた場所で懐かしい、いつもは白峰宮の裏手から入ったが今日は正面赤鳥居をくぐった。ここも長曾我部軍の兵火で焼け落ちたが江戸期は朝廷と高松の庇護を受け復興した。本堂と太子堂はそのころ再建された、正面から直進すると神社の境内なので間違う人が多い、外人のご夫妻はじめ何人かのお遍路さんに天皇寺を教えてあげた。
 さて自分は神社の境内をぬけて八十場の墓地の方へ出た、ここでもお墓参り、祖母、いとこ、叔父さんの墓前に線香を立てる。
 墓地の入り口が八十場の湧水、「この湧水で80人の命が救われた」という伝説があって八十場(やそば)または弥蘇場と呼ばれるようになった。 
 
 さらに1156年、保元の乱に敗れこの地に流された崇徳上皇が死んだとき、遺体をこの霊泉につけて朝廷の指示が届くまでの間腐敗を防いだと言われている。そのことからここに崇徳天皇社がたてられていた、しかし明治の神仏分離で天皇寺が分離され崇徳天皇社は白峰宮となった、創業200年以上という茶店に休んで湧水の話になったが今は生水では飲めないそうだ、1時間以上過ごしてしまった。9:50。 
   ☆80番国分寺
 国道33号はJR予讃線にそって走る、およそ5kmで一級国道11号との立体交差、この下をくぐってまもなく国分寺に着いた。仁王門前のみごとな枝振りの松が歓迎してくれる。
 境内が広い、天平13年(741)聖武天皇の勅願で諸国に建立された国分寺の一つ、本尊の十一面千手観音菩薩を直接拝むことができる。
 このたびを振り返ってみると徳島の15番国分寺は広い境内に大伽藍の礎石がむき出しになり異様な雰囲気を感じた。高知の29番国分寺は風格漂うさわら葺きの本堂が広大な庭園にとけ込み見とれてしまう風景だった。聖武天皇は「諸国で最もよい土地を選んで建てよ」と指示している。いずれも
豊かな田園に囲まれた一等地に建っているのが特徴だ。
 愛媛の58番国分寺は今治郊外の平坦な土地にたっていた、この今治の国分寺は、1184年の源平の合戦で焼かれ、1364年讃岐の細川家の進入で焼かれ、さらに1584年長曾我部元親軍の兵火で消失する。現在の国分寺は100mほど移動しているため旧国分寺の跡の礎石は離れた場所にあるらしい。さてここ讃岐の58番国分寺も1579年長曾我部軍の兵火にかかり焼失したが、江戸時代は高松藩により庇護され老松に囲まれた現在の国分寺を見ることができる。
 
☆81番白峰寺
 国分寺から少し戻って高速道のような国道11号に入り、さらに分かれて北に向かって進むとまもなく五色台白峰の登山口を見つけた。急勾配を進むとやがて瀬戸内の展望が開ける、ここは再び坂出市内、崇徳上皇の陵墓があり、崇徳上皇の霊を鎮めるお寺「頓証寺殿」が立つ、 武家屋敷のような七棟門をくぐり左手正面に頓証寺殿、ここから100段くらいの石段を上がってようやく本堂にたどり着く、暑い。
 境内で草むしりのおばさんと話し込んだ、私が暑がっているのを見て「ぬく~なったなあ」と独特の柔らかな讃岐弁が帰ってきた。言葉の響きは気に入ったけど私にとっては「ぬくい」をはるかに超えていた、たぶん28℃を超えている状況だった。 
 
  大師堂のはるか向こうでお参りの団体遍路さん、先達さんの前に整然と整列している。こんな軍隊みたいなお遍路を初めて見た。一般のお参りのじゃまにならないように構えている、ふつうは一人で歩いていると団体さんに囲まれて落ち着かないことがしばしばあった。おかげでゆっくりお参りすることができた。
 <一口メモ>
 ここは五色台、坂出市と高松市にまたがる標高500m位の台地、紅峰、青峰、白峰、黄峰、黒峰と五つの峰が連なっている、五色台スカイラインにそってスポーツ、レジャー施設が点在する観光地、、白峰寺はここ白峰の中腹に立つ。
   ☆82番根香寺(ねごろじ)
 白峰の中腹をぬけて青峰の山中に入る、四国へ来て初めて新緑のみずみずしさを感じながら森の中を走った。
 山菜採りの家族に出会う、イタドリも摘んでいたが姿が小ぶりだ、北海道のイタドリを「オオイタドリ」という意味が理解できた。昨年の土佐、愛媛は新緑の洪水だったが讃岐は春だというのに乾いている、もみじは淡い緑色なのに風景が乾いた色に感じていた、ここにきてはじめて木漏れ日の和らぎを感じながら歩いた。
 境内もカエデが多い、珍しいコの字形の回廊を回って本堂にお参りした、モミジの淡い緑と木漏れ日がよかった。
☆83番一宮寺
 讃岐国一宮、かっては田圃の中に建っていたと聞くが今は住宅地のど真ん中、五色台を下りて慎重に道を選びながら進んできた、神社の大鳥居が見えたのでぐるっと回るが入り口がわからない、今は神社と寺に分かれていてもかっては同じ一宮、複雑な道筋をたどってついた駐車場は西門だった。表に回り仁王門を出るとすぐ前が田村神社。寺の境内も広く、神社とあわせるとかっては広大な寺社だったように思う。806~808年弘法大師が逗留したおり、聖観音像を刻み本尊としている、この寺も長曾我部軍の兵火により焼失したが元禄14年高松家によって再建された、これが現在の本堂と言われている。 
 
※一宮寺から高松市の中心部に向かう途中「栗林公園」に立ち寄ってみた。母親から何度か話には聞いていた、しかし前回は高松に宿泊しながら時間がなくて公園に入ったことがなかったので。このたびは駆け足だったが雰囲気を確かめてきた。(写真)
   ☆84番屋島寺
 香川県を代表する景勝地、溶岩台地で源平の古戦場がある、ロープウエイもあるがここは屋島ドライブウエイ(有料)を利用した。途中、古戦場「壇ノ浦」を右手眼下に見ながらのドライブ。寺の開基はは753年、あの鑑真和尚がお堂を建てたのが始まりとか、そのご弘法大師が伽藍を造営した。(資料)この写真は小さな大師堂だが境内は広く鎌倉時代に建てられた朱塗りの本堂は国の重要文化財、宝物館には源平合戦の遺物が多く残されていると聞いたが時間がない。
 駐車場から入ると東門、お参りを済ませて四天門をでて展望台へ出た、母親の思い出の地なので家を出るとき母の写真を持ってきた、写真と同じ場所に立って瀬戸内を見下ろし一緒にかわら投げに挑戦してきた。いつまでもいたい場所だったが1時間くらいで下山した。
 ☆85番八栗寺
 屋島を下りる途中、再び断崖絶壁の古戦場を眺めて八栗寺に向かった。車でも境内近くまで上がれるがケーブルが安全で早いと聞いていたのでロープウエイ乗り場にやってきた、途中に石工の街がある、「石匠の公園」が整備され石の民俗資料館が建つ、牟礼町は石材の町として発展したところらしい。 さて八栗寺は断崖絶壁をもつ五剣山の中腹に立つ、ロープウエイを下りて岩壁を伝って5分くらいで大師堂の前に出る、緑の木陰に朱色鮮やかな多宝塔が目を楽しませてくれる、続いて本堂。納経所のお坊さんの話では屋根が宮島と同じ作りですと言っていた。鳥居の次にこの仁王門が立つ。後方が垂直の岩壁、神社とお寺が同居した雰囲気の境内に分かれて下山し、高松市内に戻った。
 
最終日へ 準備中
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