遍路旅日記 その9 04・4・19〜23 加藤 登
76番金倉寺〜77番道隆寺〜78番郷照寺〜79番天皇寺〜80番国分寺〜81番白峯寺〜82番根香寺〜83番一宮寺〜84番屋島寺〜85番八栗寺〜86番志度寺〜87番長尾寺〜88番大窪寺(結願)
4月19日(月) 旭川空港14:45ー伊丹ー三宮ー徳島。21:00着。
4月20日(火) 善通寺ー金倉寺ー(お墓参り、Aさん宅訪問)ーホテル泊。
昨夜は徳島で一泊し、すっかり馴染みになった二ホンレンタカー(8:30)、で契約を済ませてスタートした。
快晴で気分爽快、昨日の関西は大雨洪水注意報、伊丹空港と三宮乗り換えはどしゃ降りの雨だった。一転して今日からは快晴、眉山がみずみずしい。
徳島市内は通勤時間帯でやや混雑していたが鳴門までおよそ30分で高松自動車道へ入った。津田の松原サービスエリアで小休止、高松市内を一気にぬけて善通寺へ向かう、お天気は申し分なし、溶岩台地屋島の台形に見とれながらのドライブだった。
10時半善通寺、今年もよろしくとお参りをすませて同行二人76番金倉寺(こんぞうじ)へ向かった。

76番金倉寺、およそ5km、高速の下をくぐったあたりで右前方に境内が見える、駐車場は200円、境内が広い。かって132坊をもつ広大な寺だったが戦国時代,長曽我部軍兵の讃岐攻めですべて焼失した(資料)。
境内に乃木将軍の像が建つ、乃木将軍が善通寺十一師団の師団長のころこの寺を仮住まいとしていた、将軍の遺品の展示もある。私の母が乃木大将を崇拝していたので。浪曲「乃木将軍」のレコードを聴きながら日露戦争の話を聞かせてくれたことが懐かしい。今年は日露戦争から100年・東郷平八郎とともに話題になることが多い。
今日のお遍路はここまで、善通寺市街へ戻って飯山、綾歌へ向かう、綾歌町役場、楠見玄照寺、ご先祖様のお墓参り、飯山町役場、坂出市のAさん(いとこ)宅訪問が予定だった。玄照寺の老僧小川さんは89歳、裏山の果樹園で草取りをしていた。桃の実が花柄をつけたまま1cmくらいに生長して青く輝いている。話を聞きながらたくさん、たくさん元気をもらう。父方、母方両家のお墓参りを済ませて坂出のAさん宅へ、いとこのAさんも89歳、玄照寺の老僧と同い年。Aさんも元気がいいショートステイからわざわざ戻って待っていてくれた、Aさんは昭和18年にご主人がビルマ(現ミャンマー)戦線で戦死、戦後は女手一つで二人の男の子を育ててきた。このたびは戦中、戦後の苦労話はあまりしなかったがご主人と死別して62年になるという。「長生きしてください」というと「こればかりは寿命だから」と笑っていた。先の戦争の傷跡が一つ一つ消えようとしている。そして再び戦争の準備をはじめた政治の動きが気になこと。戦争、そのことを否定しないで戦場に近づいた若者を袋だたきにする世間や政治家にいらだちを覚え、うろうろするばかりだ。
午後4時半ころ、施設へ戻るAさんを見送って別れた。さぬき浜街道へでて瀬戸大橋の下をくぐり「オオクラホテル丸亀」へ安着した。
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4月21日(水) 快晴
77番道隆寺 さて、お遍路を再開した。昨日は28℃、大阪は30℃をこえて4月の気温では観測史上最高になったと報じている。とにかく暑い今日も28度は超えそうだ。午前8時浜街道を西へ向かってほどなく多度津の道隆寺に着いた。国道脇の駐車場から入るとここは北門で、本堂の正面はるかに仁王門が見える、付近一帯荘園の領主和気道隆(わけのみちたか)の子が弘法大師に師事し、後に寺を建てて父の名をとって「道隆寺」とした。
父の道隆がわけあって刻んだ薬師如来像を大師は自ら刻んだ薬師如来のなかにおさめて本尊とした、体内にもう一つの如来像があることから「腹ごもり薬師」とよばれ、50年に一度しか開帳されない秘仏。次回は2033年となる(資料)。正面駐車場に次々と団体遍路バスが到着し広い境内がお遍路さんであふれてきた。

78番郷照寺 こんどは折り返して国道21号から丸亀高松線(33号)へはいる、右に丸亀城を仰ぎ見ながら宇多津町までくると、国道から少し入った門前町へ駐車して坂道を歩いた。小型車は境内まで行けることがわかったがこのフイールドは歩いて正解だった。山門から右眼下に瀬戸内をながめ路の脇はツツジが咲き誇っていた。さらに急勾配の階段を上がって振り向くと右前方に雄大な瀬戸大橋が眺められる。
ここも戦国時代の兵火で焼失したが高松藩主松平頼重によって再興された。本堂は99年「平成の大修理」を終えたばかりで境内の雰囲気と併せてすっきりしている、本尊は阿弥陀如来、「厄よけうたづ大師」ときいてねんごろにお参りして山を下りた。今年も門前のお店で草餅を2個買い求めて車へもどった。

79番天皇寺 自分としては四国で1番多く訪ねた場所で懐かしい、いつもは白峯宮の裏手から入るが今日は正面赤鳥居をくぐった。ここも長曽我部軍の兵火で焼け落ちたが江戸期は朝廷と高松藩の庇護をうけて復興、本堂と大師堂はそのころに再建された。正面から直進すると神社の境内なので間違う人が多い。外人のご夫婦をはじめ何人かのお遍路さんに天皇寺を教えてあげた。さて自分は八十場の墓地の方へでてここでもお墓参り、祖母、いとこ、叔父さんの墓前に線香を立てる。
墓地の入り口が八十場の湧水、この湧水で80人の命が救われた伝説があって八十場(やそば)または弥蘇場と呼ばれるようになった。さらに1156年保元の乱にやぶれこの地に流された崇徳上皇の遺体をこの霊泉につけて腐敗を防いだといわれる。そのことからここに崇徳天皇社が建てられていたが明治の神仏分離で天皇寺が分離され、崇徳天皇社は白峯宮となった。操業200年以上という茶店に休んで湧水の話になったが今は生水では飲めないそうだ、1時間以上を過ごしてしまった。9:50。

80番国分寺 国道33号は予讃線にそって走る、およそ5キロ、1級国道11号の下をくぐるとまもなく国分寺に着いた、仁王門前のみごとな枝振りの松が歓迎してくれる。境内が広い。天平13年(741)聖武天皇の勅願で諸国に建立された国分寺の一つ。本尊の十一面千手観世音菩薩を直接拝むことができる。この旅を振り返ってみると徳島の15番国分寺は広い境内に大伽藍の礎石がむき出しになり、崩れ落ちそうな明王堂、異様な雰囲気を感じた。高知の29番国分寺は風格漂うさわら葺きの本堂が広大な庭園にとけ込み見とれてしまう風景だった。聖武天皇は「諸国でもっともよい土地を選んで建てよ」と指示している。いずれも豊かな田園に囲まれた一等地に建っているのが特徴だ。愛媛の国分寺も今治郊外の海に近い平坦地に建つ。ここも1184年の源平の合戦で焼かれ、1364年讃岐の細川家の侵入で焼かれ、さらに1584年長曽我部元親軍の兵火で焼失する。現在の国分寺は100mほど移動しているため旧国分寺跡の礎石などはこの境内にない。ここ讃岐の国分寺も1579年長曽我部軍の兵火にかかり焼失したが。江戸時代は高松藩により庇護され老松に囲まれた現在の国分寺を見ることができる。

81番白峯寺 国分寺町から少し戻って高速道のような国道11号にはいり、さらに別れて北に向かって進む、まもなく五色台白峯の登山口をみつけて急勾配の道を進むとやがて瀬戸内の展望が開ける。ここは再び坂出市内、崇徳上皇の陵墓があり、崇徳上皇の霊を鎮めるお寺「頓証寺殿」が建つ、
頓証寺殿
武家屋敷のような構えの七棟門をくぐり左手正面に頓証寺殿、ここから100段くらいの石段を上がってようやく本堂と大師堂に着く、暑い。境内で草むしりのおばさんと話し込んだ、私が暑がってるのを見て「ぬくーなったなあ」と独特の柔らかな讃岐弁が帰ってきた。言葉の響きは気に入ったけれども私にとっては「ぬくい」をはるかに超えていた、たぶん28℃を超えている状況だったから。
大師堂のはるか向こうでお参りの団体遍路さん、先達さんの前に整然と整列している。こんな軍隊みたいなお遍路を初めて見た。一般のお参りのじゃまにならないように構えている、普通は団体さんに囲まれると落ち着いてお参りができないのでなるべく避けるようにしてきたがこれでゆっくりお参りができた。
一口メモ
ここは五色台、坂出市と高松にまたがる標高500mくらいの台地。紅峯、青峯、白峯、黄峯、黒峯と五つの峯が連なっている、五色台スカイラインにそってスポーツ、レジャー施設が点在する観光地。白峯寺はここ白峯の中腹に建つ。

82番根香寺(ねごろじ) 白峯の中腹をぬけて青峯の山中に入る、四国へ来て初めて新緑のみずみずしさを感じながら森の中を走った、山菜採りの家族に出会う、イタドリも摘んでいたが姿が小ぶりだ、北海道のはオオイタドリという意味が理解できた。昨年の土佐、愛媛は新緑の洪水だったが。讃岐は春だというのに乾いている、モミジは淡い緑色なのに風景は乾いた色をしている。ここに来て初めて木漏れ日の和らぎを感じながら歩く。境内もカエデが多い、めずらしいコの字形の回廊をまわって本堂にお参りした。モミジの淡い緑と木漏れ日が良かった。

83番一宮寺 讃岐国一宮、かっては田圃の中に建っていたときくが今は住宅地のど真ん中、五色台を下りて慎重に道を選びながら進んできた。田村神社の大鳥居をみてぐるっとまわっても入り口がわからない。今は神社と寺に別れていてもかっては同じ一宮、複雑な道筋をたどって着いた駐車場は西門だった。写真、仁王門のすぐ前が田村神社。806〜808年弘法大師が逗留したおり、聖観音像を刻み本尊としている。この寺も長曽我部軍の兵火により焼失したが元禄14年高松家によって再建されたものが現在の本堂といわれる。13:00。
一宮から市の中心部に向かう途中栗林公園に立ち寄ってみた、駆け足だったが話に聞いていた公園の雰囲気を確かめてきた。(しゃしん)

84番屋島寺 香川県を代表する景勝地、屋島の山頂に建つ。ケーブルも有るがここは屋島ドライブウエイ(有料)を上る、途中、古戦場「壇ノ浦」を右手眼下に見ながらのドライブ。寺の開基は753年、あの鑑真和尚がお堂を建てたのが始まりとか、その後弘法大師が伽藍を造営した。(資料)写真はささやかな大師堂だが境内は広く鎌倉時代に建てられた朱塗りの本堂は国の重要文化財、宝物館には源平合戦の遺物が多く残されている。駐車場から入ると東門、お参りを済ませ四天門をでて展望台へ出た。母親の思い出の地でもあり写真を持っていたので一緒にかわら投げに挑戦してきた。13:40〜14:40。

85番八栗寺 屋島を下りる、再び断崖絶壁の古戦場を眺めて八栗寺へ向かった、車でも境内近くまで上れるがケーブルが安全で速いと聞いていたのでケーブル乗り場へやって来た。高松郊外にこれほど厳しい岩山があるとは知らなかった。途中に石工の街がある。「石匠の里公園」が整備され石の民族資料館が建つ。牟礼町は石材の町として発展したところらしい。さて八栗寺は断崖絶壁をもつ五剣山の中腹に建つ、ケーブルを下りて五分くらいで大師堂の前にでる。緑の木陰に朱色鮮やかな多宝塔が目を楽しませてくれる。続いて本堂、その前に写真の聖天堂(しょうてんどう)が建つ。納経所のお坊さんの話では屋根が宮島と同じ造りですといっていた。弘法大師作の歓喜天は黄金の像で50年に一度開扉される秘仏とか(資料)。
メモ・歓喜天とは福徳財宝・商売繁盛・縁結びの御利益ありとされるインド伝来の天尊だそうです。