ダルビッシュ・有 加藤 05・6・20

2005・6・15、日本ハムダルビッシュ投手はセ、パ交流戦の広島戦にデビユーした。初登板、初勝利でしかも完投、完封目前まで行って9回途中で交代したもののすばらしいデビユー戦を飾った。おめでとう、フアンの一人として率直に嬉しい。東北高校ダルビッシュ投手の応援を始めたのは2003年の甲子園からで、そのころから優勝旗が「白河の関を超えるか」が話題になっていた。それ以前私は東北旅行の折、坂上田村麻呂の蝦夷征伐について史跡や遺構のあることを知り。大和朝廷の命で蝦夷征伐に当たった歴史、蝦夷が差別語であること、白川の関は蝦夷の南下を防ぐためにもうけられたなどの歴史を知ることができた。
さて、深紅の優勝旗は03年は準優勝で終わり、よく04年は強く期待されていた東北高校だったが準決勝で敗退し、その優勝旗は「白河の関」どころか津軽海峡を越えてしまった。
この年、仙台に誕生した楽天は一場投手を一位指名し、日ハムはダルビッシュを一巡目で指名、入団が実現した。この笑顔、初心を忘れず日ハムの為に、さらには日本のプロ野球界の為にいつまでもいつまでも頑張ってほしいと願っています。この笑顔から元気をもらう一老人の願いです。
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沖縄・慰霊の日 05・6・23 加藤
6月23日は沖縄の慰霊の日で、糸満市摩文仁(まぶに)の丘で慰霊祭が行われている。
私は沖縄旅行で買った「旧海軍司令部壕の軌跡」宮里一夫編著を読み返してみた。
1945年3月17日 硫黄島の日本軍全滅
1945年3月26日 米軍沖縄上陸(沖縄地上戦が始まる)
1945年6月13日 太田司令官海軍司令部壕にて自決
1945年6月23日 第32軍司令官牛島中将自決(日本軍の組織的抵抗が終了)
(慰霊の日)
小泉さんは硫黄島の慰霊祭に出向き、今日また沖縄県の慰霊祭に出かけた、反戦の誓いと述べているがどこかうさんくさい。靖国参拝の地ならしだろうか、この時期何かとかしましい。麻生総務大臣は「亡くなられた方は靖国で会おうという前提で戦争で命をなくしたのだからこっちの都合で別の追悼施設をつくるのはまずい」といっている。
死人に口なしで、戦死した若者がすべて靖国を目指したとは思えないし。私は戦死した兄貴の思いを代弁することはできないが本心は父母の待つ故郷へ帰りたかっただろうと思う。私がこの兄貴を最後に見かけたのは昭和16年の夏のころ、自分は小学校5年生だった、教室で授業中に突然教室の戸が開いてそこに兄貴の姿があった、それは私の担任、小北先生に挨拶に見えたのだが、この日が兄貴の入隊の日とは知らず先生に挨拶を済ませて立ち去って行く兄を見送った。このころは日米の開戦間近で以前のようにのぼりを立てて部落のみんなで派手に見送ることもなかった、当然その日は帰宅しても兄の姿はなく二度と会うこともなかった。こうして多くの若者が戦場へ出向いて行ったが、ニユーギニアのジャングルで何を考え、何を夢見て死んで行ったのだろうか。靖国で会うことを夢見たとも思えないのだが・・・・・。
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旭川第四小学校 05・7・11 加藤
旭川市立旭川第四小学校・開校100年記念誌、郷岩山(ふるさといわやま)の表紙を眺めている。実は先日ペーパン在住の同級生K君からめずらしく便りが届いて、旭川第四小学校が2006年3月で閉校になること、最後の運動会に出かけた様子と写真が同封されていた。
彼の便りでは生徒数7人の運動会で審判係をしたこと、運動会の様子(写真)と校舎の裏に旧裁縫室が残っていてあまりの無惨な姿に写真には撮れなかったことが書き記されていた。母校が無くなると知ったときは全身の力が抜けるようだった。
K君が届けてくれた旭川市立旭川第四小学校1007年目にして最後の運動会。
平成12年編集の開校記念誌
1945年(昭20年)3月23日、灯火管制のうす暗いこの和室で担任を囲んで最後の別れを惜しんでいた。小北先生からはおまえたちは援農、援農で基礎学力が身に付いてない、卒業しても勉強は続けなさい、、、。そんな意味の訓辞を受けていた記憶は忘れがたい。夏の晴れた日はほとんど毎日援農で雨の日は模型飛行機をつくったり、手旗信号を習ったりしていた、それはそれで結構楽しい学校だったが担任は学力をつけないで卒業させる生徒のことを心配していたのだろう。
1学年1クラス、30数名の卒業生で進学は4〜5人、男子のほとんどは百姓の担い手だった、何しろ農家に働き手は残っていなかった。戦況は厳しい局面で特攻隊の記事が毎日だったが勝利する日を信じていた。いくら厳しい戦時体制でも卒業の最後のときは感傷的になっていたので、そんな思い出の和室が校舎の裏に残されていると聞いて一度尋ねてみたい気持ちになっている。
岩山・・・学校の正面にたつ標高300mほどの山、頂上が安山岩の岩石山、学校行事の登山で懐かしい。
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