滋賀県まるごと周遊 3日間   

 平成22年09月12日(日)     新千歳 7:45→ →中部国際空港 9:30           ホームへ戻る
          【1日目】
 阪急交通社のこの企画を見つけて旅仲間5人が団体旅行に申し込んだのは7月の暑い盛りだった。9月も半ばになればこの暑さも多少は和らぐだろうと考えていたが今年の異常気象は容赦なく琵琶湖周辺も連日35度の真夏日が続いていた。
 この企画に興味を持ったのは竹生島(チクブジマ)と琵琶湖遊覧、それに比叡山延暦寺の参拝コースだった。しかし1日目の伊吹山は日本100名山の一つで、山頂付近の植物群落は花好きの自分にとっては十分に堪能出来るコースになった。


雲海に浮かぶ富士山

伊吹山

タムラソウ

イブキトリカブト

お花畑

ミヤマコアザミ

サラシナショウマ

シオガマギク

登山道

石灰岩の山

 伊吹山は標高1377m、天下分け目の古戦場関ヶ原から伊吹山ドライブウエイに入る。この山は古来から薬草の宝庫とされていたが、織田信長はポルトガルの宣教師に依頼して本国から3,000種の薬草を移植したという記録が残っている。
 夏は「百花咲き乱れて美しさを競う」とあったが9月中旬ともなれば花の種類はさほど多くない。
上段、アザミのような花はタムラソウ、隣の青紫の花はイブキトリカブト、下段左からミヤマコアザミ、サラシナショウマ、シオガマギク、遊歩道が白いのはこの山が石灰岩から出来ているためです。若い人は40分コースを20分くらいで駆け上がって、眼下に琵琶湖、鈴鹿連山、北の方角にアルプスを眺めて時間までにきっちりと下山してきました。

さてバスは今日の宿泊地長浜へ向かいます、


豊国神社

加藤清正

稲荷神社

黒壁スクエア

琵琶湖

長浜ではまず豊国神社と稲荷神社にお参りして、黒壁を散策今日の日程がすべて終わった、バスは5分ほどで長浜ロイヤルホテルに到着、ホテルの部屋からは琵琶湖の眺望がよく、また明日見学の長浜城博物館が望見できた。

        豊国神社と稲荷神社
 豊国神社由来、羽柴秀吉は織田信長の浅井長政攻めで手柄をあげ、その功績によって浅井氏領国の大部分を与えられた。一時小谷城に入ったが翌年から長浜に築城をはじめ、商家の町並みを作り1574年から10年のあいだこの地方を支配した。
 後に、1598年秀吉が亡くなると長浜の民衆(住民)は豊国神社を建立して秀吉を祀ります。しかし徳川幕府は秀吉を神格化することを許さず取り壊されてしまいました、そのご一計を案じ彦根藩へ「えびす宮」建立の許可を願い出て太閤さんを裏に隠してお祀りしたそうです。明治維新が過ぎ、天下晴れて豊国神社と名乗れるようになって祭りの行事は市民あげて盛大になったそうです、またご神霊が不運だった時代表に立って守ってくれた恵比寿神社の祭典も10日戎として盛大に行っています。

       2日目】 (9月13日)

 

 NHK大河ドラマのロケ、浅井3姉妹のふるさととして市内の至る所でポスターを見かけた、左 の写真は長浜ガイドブックより借用したものです。
 浅井家は3代にわたってこの地を支配した戦国の武将で、3代目長政は織田信長の妹お市 を妻としながら信長に立ち向かい敗れた悲劇の武将である。
 お市は信長の命による政略結婚であったが二人は仲の良い夫婦となって二人の男児と3人 の女の子に恵まれ、長女の「茶々」、次女の「初」、3女の江(ごう)、3姉妹それぞれ波瀾万丈 の生涯を送る、このたびの大河ドラマは、3女の江(ごう)が主人公となって後に徳川家に嫁  ぎ、三代将軍家光の母親となっていく生涯を描いている。





1、長浜城

2、琵琶湖展望

3、鉄砲

4、石田三成

5、マキノ桟橋

6、竹生島

7、歌碑

8、比叡山

9、根本中堂

10、参拝記念
                   
 《写真説明》
、長浜城歴史博物館、、長浜城天守閣より湖北、賤が岳古戦場方面を望む、、種子島鉄砲伝来の翌年にここで鉄砲が生産され、「國友鉄砲鍛冶集団」は堺と並ぶ火縄銃の二大生産地だった。、石田三成も一時期長浜を支配していた。、琵琶湖観光船、左奥に見える島が竹生島。、本堂に参拝して振り向くと。、琵琶湖周航の歌、(4)の歌詞が刻まれた碑の前で記念撮影。、比叡山延暦寺入山口、、根本中堂(国宝)。10、延暦寺参拝を終えて。

      長浜城物語
 今日の観光はまず長浜城から始まる、1573年、秀吉が初めて自分の城として築城、初代の城主となる、信長に仕え信長の天下統一を助けてようやく一国一城の主となって城下町を整えた。およそ10年の後、「本能寺の変」で信長が倒れ、1582年織田家の跡取り問題を相談した清洲会議でこの城は柴田勝家に譲られ甥の勝豊が入城した、しかし柴田勝家と対立した秀吉はすぐにここを攻め落とし翌年の「賤ケ岳合戦」の拠点としている。天守閣展望台から琵琶湖が眼下に広がり竹生島が望見出来る。
 柴田勝家は信長の臣下として最強の武将だったが本能寺の変では北陸の武田と対戦中で主君のかたき明智光秀を倒すのは秀吉に先を越されてしまった。清洲会議のあと勝家は北の庄城(現在の福井)に居を構える。一方3人の娘を連れて小谷城を出たお市は織田家に戻っていたが、本能寺のあと娘を連れて柴田勝家に嫁ぐ、翌年羽柴秀吉と対立した勝家は「賤ケ岳の決戦」となり秀吉に敗れる。このときお市は3人の子供を残して勝家とともに自刃、命を絶つ。1583年4月24日、柴田勝家に嫁いでわずか半年後のことだった。
 秀吉の築いた長浜城は後に山内一豊など何人かの城主が変わった後、取り壊されて彦根城の資材として運び出され、長浜城としての絵図や古文書はほとんど残されていないらしい、現在のお城は昭和58年に再興され長浜市「長浜歴史博物館」となっている。企画展示として「石田三成と湖北」が三成生誕450年記念として開かれていた。江(ごう)浅井三姉妹に関しては10月13日から「浅井三代と小谷城」としての企画展が予定されていた。大河ドラマの予備知識として見ておきたかったが残念。



     竹生島(チクブシマ)
 さて観光バスは湖北を回ってマキノプリンスホテル桟橋より竹生島へ向かう「びわこ観光船」に乗船する、マキノの地名から高知の牧野植物園を連想したが関係はないようだ、カタカナ町名の町としてリゾート開発が盛ん、冬はスキー場、夏は海水浴場、リゾートホテルの前浜に小さな桟橋があって乗船出来る、竹生島が近い(写真5)およそ30分で島に到着した。
 上陸してすぐ急な階段をのぼる、本堂まで165段。宝厳寺にお参りしてお札をいただき、三重の塔から国宝「唐門」、船廊下(秀吉の遺言で秀忠が京都豊国廟から移築した廊下)を渡り「都久夫須磨神社」に参拝する。この島への信仰は浅井家とも関係が深く神仏一体の霊場だった、ただ明治の「神仏分離令」によってこの施設は全て神社にせよとの命だったが、しかし建物は神社のものとして寺の本尊だけは残してもらい、昭和17年に現在の宝厳寺を建て西国33番札所として賑わっている。
 
    比叡山延暦寺
 快晴、波静かな湖上遊覧を楽しんで再びマキノ桟橋へ戻る、観光バスは湖西を南下して次の目的地「世界遺産・比叡山延暦寺」へと向かう。国道から離れて比叡山への道路はきれいに整備されたドライブウエイになって手入れの行き届いた雰囲気が気分爽快にさせてくれる、バスは多分東塔に近い第3駐車場に入ったと思われるが巡拝マップを見てもどこから入山したのか見当もつかない。ガイドさんの案内で根本中堂へ向かう。天台宗の総本山、巨大な本堂の外観は表からは見えない(写真9)、お参りのため廊下へ入って案内されたお座敷から御本尊の薬師如来は目線の高さに祀られてお堂全体は見下ろす形になっていた。76本のケヤキの柱に支えられた本堂は回廊の向こうの低いところに建っていて正面からは見えないのだった。さてお説教を聞いて感心して有り難いと思ったが、いまになって考えてみると具体的には記憶に残っていない。後にいただいた資料によると「個々が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる、すなわち一人ひとりが相手の立場に立って考え、自分の出来ることを精一杯行うことがまわりが良くなっていくことにつながる」と説かれていた。
 ただ最澄(さいちょう)がここにお堂を建ててから1200年、この法灯は一度も消えることなく守り継がれています。と言うことは信長の叡山焼き討ちに際してすべて焼き尽くされ、見つかったものは皆殺しになったという史実は根本中堂も灰になったのだから法灯は一度は消えたのではなかったのか、そんな疑問が残った。その答えは最澄のともした灯は山形の立石寺に分灯されていたので江戸時代に入って再建されたとき、その灯を持ち帰ってともしたのだそうです。
 まだまだ早い時間におやまをおりて大津プリンスホテルに入った。

    【三日目】 (9月14日)
 二日目の宿泊は大津プリンスホテル、38階・136mの超高層ホテルだった。出発は9:00、朝食前に湖畔を散歩した。

大津プリンスホテル

近江八幡

八幡城跡の石垣

近江の商人町

彦根城・天守閣

 三日目のバスは大津プリンスホテルを出てすぐ近江大橋(有料)を渡り湖岸を北上する。車窓左に琵琶湖を眺めながら一時間くらいの行程で近江八幡市内へ入ってきた。近江商人で名高いこの町の成り立ちを事前学習なしに飛び込んできたが八幡堀周辺の観光マップを見ると碁盤目の町並みなのでおおよその見当がついた。
 早速お堀端へでて八幡山ロープウエイ山麓駅へ向かった。お堀と言えば城を守るための内堀、外堀が連想されるが、ここのお堀は交易のため荷物積んだ船が出入りする掘り割りだった。
   豊臣秀次
 豊臣秀次は豊臣秀吉の姉、ともの長男として生まれ、後に秀吉の養子となる(14歳)。翌15歳のとき「本能寺の変」、羽柴秀吉が明智を滅ぼし、また16歳で賤ヵ岳の合戦で大将をつとめ柴田勝家と戦う、さらに四国の長宗我部攻めにも出陣。この年1585年18歳で近江48万石の領主に任ぜられる、19歳で結婚。このころ八幡山に城を築き、掘り割りを琵琶湖につないで水運の便を図り町作りを始めました。城下町は碁盤の目に整えて、信長が倒れたあと主いなくなった安土城下の商人や職人に屋敷地を無償で貸し与え城下町発展の基礎をつくりました。信長の安土城は現在のJR東海道線で言えば隣の駅です。さて秀次の城下町は自由商業都市を目指して楽市楽座を施行、往来する船を寄港させわずか5年の間に商人の町としての基盤を築きました。
 しかし平和な商業都市建設をめざす秀次の願いもむなしく26歳のとき秀吉と淀殿(三姉妹の姉ちゃちゃ)のあいだに男の子が誕生し家督争いにまきこまれます。1595年、28歳のとき謀叛の疑いで豊臣家を追放され、高野山へ入り、切腹を命じられ自害します、この争いで秀次に関わる親族はすべて殺害され秀吉は跡取りを盤石にしたはずだったが、後の天下分け目の戦いで豊臣方に謀反がでたのはこのときのしこりがあったからだと何かの本に書いてありました。わずか5年で自害させられ、主をなくした近江八幡は商人の町としていまに生きているのだそうです。(この稿は近江八幡観光物産協会 歴史を楽しむ−豊臣秀次から学習しました)

八幡山ロープウエイから山頂へ向かった。標高271m展望台から八幡堀周辺の市街地が眼下に広がる。さらに山頂まで行くと北の方角に安土城跡が見えるようだがそこまでは上らなかった。
 戦国の武将は若干二十歳でここに城壁をつくり麓に城下町を開き、楽市楽座(自由市場)をもうけて商いを奨励するなど、現代の若者とは比べようもない。若くして悲運の最期を遂げた城主秀次はいまも市民に慕われている、麓の八幡公園に秀次の銅像が建てられているそうです。

  彦根市・彦根城
 悲運の武将、豊臣秀次の八幡城跡と八幡堀を見学、さらに市内を歩いて商業都市の面影、御朱印船などを見学してバスに戻った。バスはさらに湖北を北へ移動してこの旅行の最終コース、彦根市、彦根城を見学した、徳川家康の大阪城攻め冬の陣、夏の陣にも功績を挙げた井伊家の居城で将軍徳川家康の命を受け1604年から20年の歳月をかけて完成させた。2007年に築城400年祭が開かれたそうです。
 近江は琵琶湖の地形から南と北を結ぶ重要な位置にあって戦国時代は各武将の覇権争いの地であった。当時の城跡を訪ねると。
        浅井長政・・・・・・・・小谷城(3姉妹、茶々、初、江、はこの城で生まれた)
        織田信長・・・・・・・・安土城(信長の館、本能寺の変で倒れる)
        羽柴秀吉・・・・・・・・長浜城(秀吉が初めて自前のお城を築いた)
        明智光秀・・・・・・・・坂本城(比叡山焼き討ちのあと治安維持のため信長は光秀に命じて築城した)
        羽柴秀次・・・・・・・・八幡山城(28歳、謀反の疑いをもたれ、秀吉の命で自害させられる)
        石田三成・・・・・・・・佐和山城(西軍を率い関ヶ原で家康の東軍と戦い味方の裏切りで負ける、京都で切腹)
        京極高次・・・・・・・・大津城(三姉妹の次女「お初」は京極高次の妻となってこの城に入る)
        井伊直考・・・・・・・・彦根城(徳川譜代の城主、幕末の井伊直弼はここで生まれ少年期を過ごす)
平成23年、大河ドラマ「江(ごう)〜姫たちの戦国」が楽しみです。
 追記  柴田勝家の辞世  夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲居にあげよ山郭公(やまほととぎす)
      お市の辞世     さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路をさそう郭公(ほととぎす)かな。


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