2001年5〜6月分の掲示板です

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じかん● Thu Jun 28 19:33:06 Japan 2001
おなまえ●天孫降臨
メッセージ● 黒岩 重吾 さんの検索で来ました。
私は、邪馬台国に興味があります、神功皇后の小説を読んでいます。
では。

http://www.bsb.ne.jp/~hisatu/


じかん● Wed Jun 27 9:42:52 Japan 2001
おなまえ●孫々
メッセージ● 「翔ぶが如く」の西郷って客観的に描かれていますよね。司馬さんは結局最後まで
西郷という人物を把握できなかったのでしょうか?それとも客観的に描いた方がわかりやすいということでしょうか。「国盗り物語」の信長もそうですけど、これは後者ですね。
じかん● Mon Jun 18 21:35:02 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 『翔ぶが如く』の旅の回想 - 竹田

竹田を訪れた理由は、そこが西南戦争において市街戦の舞台になった町であるということもあったが、それ以上に、竹田が滝廉太郎の生まれ故郷であり、「荒城の月」のモチーフとなった岡城址があったからだった。

司馬遼太郎が出演して語ったNHK『太郎の国の物語』が放送されたのが、平成元年のことで、その番組の中で、廃藩置県の歴史に及んだとき、司馬遼太郎が、「私は廃藩置県のことを考えると、必ず滝廉太郎の荒城の月を思い出すんです」と語っていた。荒城の月の哀愁を帯びたメロディが流れ、滝廉太郎の短い生涯が紹介され、そのバックに岡城址の映像が映し出されていた。

その映像と司馬遼太郎の語り口が印象的であったために、竹田に足が向いてしまった。

春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝 わけいでし
むかしの光 いまいずこ

秋陣営の 霜の色
鳴き行く雁の 数見せて
植うる剣に 照りそいし
むかしの光 いまいずこ

この曲の、ロマンチックでセンチメンタルな情感と、そして岡藩の7万石という石高規模からして、岡の上の小さな古城を想像していたのだが、実際に訪れてみると、それは想像をはるかに越えた巨大な山城だった。石垣沿いにタクシーで山道を登っても登っても、どこまでも堅牢な城郭の石垣が続いて視界から消えない。一体どれくらい大きな城なのだろう。廃城となった城郭の部分は小さいのだが、石垣で囲われた、いわゆる「丸」の部分が巨大なのである。そのときの私の感覚では、熊本城と同規模の巨城のように思われた。

ひょっとして、と思って後で調べてみると、やはり戦国末期、天正年間に薩摩の島津義弘が大軍を率いて豊後に侵入、岡城を包囲攻撃した歴史的経緯があった。このときは島津は岡城攻略に失敗している。つまり、薩摩(島津)の北上を阻止するための城なのだ。熊本城と同じ軍事的意味を持った城だったのである。そうでなければ、わずか7万石の小藩が、江戸期を通じて、こんな巨大な山城を所有・経営するはずがない。徳川幕府が豊後口方面での対薩摩防御装置として残していたのに違いないのだ。

九州には立派な城が多い。立派な城(址)と美しい城下町がいたるところにあって、九州の歴史的文化的豊かさを深く実感させられる。小さな城下町には、それぞれに育まれた文化的ストックがあり、それは現代の旅人たちを憩わせる観光価値となって生きている。しかし、それらの城や城下町の一つ一つが、実は薩摩の脅威という歴史を背負ってきたことを思わさせられる。

いつ翔ぶが如く襲いかかってくるかもしれない薩摩に対して、近世を通じて、一瞬の油断もなく緊張を強いられてきた、張り詰めた精神的文化性がそこにある。だから、九州は素敵な歴史的観光地だけれど、京都や奈良とは全く違う。公家文化や女流文化の手弱女的世界がない。そこには武家のにおいがする。武士の殺気を感じさせられる独特の文化的豊饒さがあるのである。

それは司馬遼太郎の言う明治国家の精神的美意識、「太郎の国」のクリスタルな結晶体の美学とよくマッチするものなのである。
じかん● Sat Jun 16 20:56:07 Japan 2001
おなまえ●ルーシー
メッセージ● 「翔ぶが如く」に夢中のルーシーです。改めまして、よろしくお願いします。
実は、「坂の上の雲」を読みはじめました。薩摩の本の紹介をお願いしておいて何ですが、ふと考えてしまったことがあり、手に取ってしまいました。
ところで薩摩本ですが、ほとんど反響がありません…さびしい。遼太の父さまがおっしゃるように、「翔ぶが如く」以上はなかなかない、ということでしょうか…。
さて、「考えてしまったこと」ですが、それは、なぜ無意味といっていい戦争を戦って自滅してしまう話にこうも心が動くんだろう、ということです。
これは10代のころ「燃えよ剣」に夢中になったときも思ったことで、明るく痛快な「竜馬がゆく」より、ある意味暗ったい「燃えよ剣」のほうが好きなことに引け目(?)を感じたものです。
ちなみに私は俳優で言えばジェラール・ドパルデューやリーアム・ニーソン(「マイケル・コリンズ」いいです!)が好きで、女として好みを言えば土方より竜馬です。関係ないですが…そういう問題じゃないと思う、と言いたかったんです…。
そこで、「健康な明治の青春」とうたい文句のある「坂の上の雲」を読んでみることにしました。自分でも唐突だと思いますが…これで答えが出るとは思ってませんが…。
 「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」、みなさんはどらちが好きですか?
 「燃えよ剣」(「翔ぶが如く」)が好きな方、どういうところが好きですか?
 「薩摩本」のご紹介も引き続きお待ちしています。
   司馬遼太郎が「肥薩のみち」で「発光する薩摩人」にあげた島津義弘、
   東郷平八郎等の本とかないでしょうか…。
e-mail lucy@aioros.ocn.ne.jp

※「マイケル・コリンズ」…アイルランド独立運動の指導者を描いた映画。
 私は高村薫の「リヴィエラを撃て」を読んで北アイルランドに興味をもって
 見ましたが、知らずに見ても感動したと思います。
 「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」のニール・ジョーダン監督作品。
じかん● Fri Jun 15 21:50:29 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 『翔ぶが如く』の旅の回想 - 人吉 

司馬遼太郎の歴史小説は全部そうだけれど、現場での取材が綿密で、現場で得た材料をよく小説のなかに取り込んでいる。『翔ぶが如く』もやはりそうで、司馬遼太郎は、西南戦争における薩軍の全行程を自分の足で旅して歩き確かめているに違いない。現地を歩き、野や山の風景を見、地形を確かめ、当時の戦場の状況を思い巡らせながら、小説の構想を練っていたに違いない。

だから『翔ぶが如く』は歴史小説ではあるけれど、同時に歴史紀行としても読める。特に後半の西南戦争の戦記部分は、読者は、そのように読んで楽しむことができる。

前に一度、ここで紹介したかも知れないが、人吉の旅館で給仕をしてくれた仲居さんは、彼女のおばあさんから西南戦争の人吉市街戦の体験を聞いていた。真夜中に官軍が球磨川の下流方面から市内に突入し、暗闇の中を銃弾の赤い閃光がそこら中で飛び散って、住民は生きた心地がしなかったと言う。人吉は敗走する薩軍に焼き払われて灰燼に帰し、住民にも多数の犠牲者が出た。

私が、「西郷さんもあの舟に乗って八代まで下ったそうですね」と、『翔ぶが如く』の一節を切り出して」みたところ、彼女は、「ほんなごつですか、そげん話は聞いたことがなかですよ」と言った。西郷が球磨川を舟で下ったというのは、ひょっとしたら司馬遼太郎の創作なのかもしれない。おそらく司馬遼太郎自身が舟下りを体験したのだろう。そしてその体験を小説のなかに描き入れたのに違いない。

『翔ぶが如く』を読むと、読者はどうしても人吉という街を訪れてみたくなる。そして実際に訪れると、そこは想像以上に美しく素晴らしい街だった。司馬遼太郎は、『街道をゆく』にせよ、他の歴史小説にせよ、いいところしか読者に紹介しない。司馬遼太郎の文章によって紹介された街や場所というのは、実際に素晴らしいところばかりなのだ。解禁されたばかりの球磨川の鮎の塩焼を肴に、球磨焼酎のお湯割がその夜のご馳走だった。

「一村一品て言いなさるが、ここでは昔から焼酎以外何もなかですよ」。「ここの人間は商売が下手なもんで、人吉ん者はみなお人好して言われますよ」。仲居の彼女は食膳を揃えながら、いろいろなことを話してくれた。かつての人吉の支配者であった相良家の歴史と家系のこと、相良藩の参勤交代のときの船下りの模様。江戸から明治にかけての球磨川の水運の変容。

「男んくせに酒の弱かとね、うわはは」。お湯割で4−5杯は行ったつもりだったけれど、彼女の基準からすれば、口ほどにもない下戸だったということだった違いない。肥後モッコスや薩摩隼人の酒量の基準値とはいかばかりのものなのか。すぐに前後不覚となり、窓の外の球磨川のせせらぎを聞きながら眠りについた。

人吉には、西南戦争を物語ってくれる歴史博物館がなかった。田原坂や熊本城と並んで西南戦争の激戦の舞台でありながら、当時を偲ぶものはほとんどなかった。しかし人吉は、一度は訪れる価値のある場所である。東京や大阪から遠く、観光地としてさほど有名でないため、団体旅行客が群らがっていないことも、旅人にとってとてもありがたい。旅らしい旅ができる。
じかん● Fri Jun 15 9:45:26 Japan 2001
おなまえ●ショウ
メッセージ●  初めまして、僕は歴史小説が大好きな大学生のショウって言います。特に司馬遼太郎の小説が大好きで特に「竜馬がゆく」や「関ヶ原」が大好きです。特に「関ヶ原」は本当に感激しました。徳川家康と石田三成の二人の攻防。徳川家康の天下を狙う野心と豊臣家を守ろうと狂気に近い忠義心をもつ三成の二人の天下を巻き込んだ戦いを描いた作品には感激しました。僕はどっちかというと石田三成が好きです。たった17万石の佐和山城主の小大名が300万石の徳川家康に挑みかかった勇気、天下の形勢が家康に傾いているのを知っていながら敢えて豊臣家をまもろうとする忠義心といろんな点において三成には共鳴するところがあります。特に三成のなかで印象が残るのは大谷吉継との友情が強いです。吉継の病気による見るに絶えない姿をしているのでだれも近寄らないなかただ三成だけが彼と親友であったということに彼の純粋さが見られると思う。本当に下克上の戦国時代のなかこんなに純粋な武将がいたということに三成のすばらしさがあるんではないかと思う。
じかん● Thu Jun 14 2:08:39 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● めぐみ様、

おひさしぶりです。

中国へ初めて行って参りました。中国、とてもいいですよ。でも、勿論ですが、私は日本を愛しています。それは、司馬遼太郎と同じです。司馬遼太郎と同じつもりです。

2年前の梅雨の頃のことを思い出します。掲示板に書いたことはずっと読み直しています。2年前の6月の書き込みに新鮮さを覚えます。なんか、たった2年前なのですが、あの頃の日本の方が、今より(少しは)よかったのではないかと思います。本当に、私たちはどこへ向かって行っているのでしょう。あの頃ここにいた人たちは、一体どこへ行ってしまったのでしょう。
じかん● Wed Jun 13 19:46:16 Japan 2001
おなまえ●めぐみ
メッセージ● 遼太の父さんの書き込みを読んで過去ログを覗いてみました。2年前の今頃、奇しくも薩摩の話題が出ていたのですね。日本の行く末についても議論がありました。あれからこの世の中はますます暴力が横行しています。すさまじい勢いで。私たちはいったいどこへ向かっているのでしょう。

最近「竜馬がゆく」を再読しました。以前とはまた違った印象ですね。次は「翔ぶが如く」を再読しようと思います。

遼太の父さんの中国紀行、興味深く拝読しました。中国の知識も興味もあまりなかったのですが、一度西安を訪れてみたいと思いました。それにしても遼太の父さんは人との出会いが豊かでうらやましい。旅の達人ですね。
じかん● Tue Jun 12 23:03:26 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ●
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を最初に読んだのは、今から20年前のことだったけれど、その中でひどく強烈に焼き付いた印象は、武士の切腹という問題だった。それまでの私は切腹とかハラキリというものが理屈抜きに本能的に大嫌いで、戦前の軍国日本を想起させる野蛮で粗暴な日本的悪習の象徴のように嫌悪していたし、また特に、例の三島由紀夫の事件もあって、余計に無条件にそれを忌み嫌っていたと思う。

『竜馬がゆく』のなかで強く印象に残った描写は二つあり、ひとつは薩摩の内ゲバ事件である寺田屋騒動での有馬新七の「おいごと刺せ」の場面で、もう一つは武市瑞山の奈半利河畔での三文字切りの切腹と絶命の場面だった。今でも、書きながらそれを思い出すと、少しうすら寒い感じを覚えてくる。

世界中に様々な自死の形式があるが、切腹はきわめて特別なもので、類例が無い。恐るべき美学と狂気の精神性を持ち、それを習いとするところの武士なる範疇を他と区別する特殊な人間類型に仕上げている。切腹があるから武士なのだ。そして、日本の男として生まれた限りは、武士(サムライ)であらねばならぬという自意識と共感の意識は、きっと、たれでもたやすく持ち得るものだろう。

私は2年前の6月24日にこう書いている。

男は長生きすればいいというものではないなと最近は思いますね。無駄に生きて癌か何かで悶え苦しみ、家族に迷惑をかけながら病院で臨終するよりも、村田のような「生の終え方」もあるなと思ったりもします。刑死、闘死、自死。その三つから自由でいられるのが現代であり、逆にまた、その三つを選ぶことができないのも現代であります。

無責任な放言を散らしているのかも知れないけれど、そしてそれは実行することは不可能だろうけれど、死ぬときは腹を切って死にたい、という気持が自分の中のどこかにある。切って見せたとき、見苦しくないように、平素から腹筋を鍛えて整えておくのだという、三島由紀夫的な(他人には言えない)倒錯した自意識がある。ひょっとしたら、司馬遼太郎の中にもそれはほんの少しあったんじゃないか、と私は思っている。

中本さん、

自由でありたいという欲望が、私の場合、ひと一倍強くて、確かに自由に生きているようです。人生はきっとトレードオフで、世俗の出世を交換に出したり、老後の安定(年金や退職金)を交換に出せば、結構、たくさんの自由を手に入れることができるのだなあと、最近は思ったりしはじめました。年をとると、こんなふうに変に図々しくなるのが悲しいところです。

じかん● Tue Jun 12 19:52:51 Japan 2001
おなまえ●ルーシー
メッセージ● 遼太の父様。
イメージ豊かな九州旅行のすすめ、ありがとうございます。
確かに今、現地に立って、薩摩弁(鹿児島弁というべきか)を聞いたりしたら、もう、大変でしょう。考えただけで舞い上がってしまいます。

西郷(薩摩武士?)には、英国貴族のノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)に通じるものがありますね。確かに近代国家とは矛盾しています。階級差が前提という点で。
じかん● Mon Jun 11 22:41:59 Japan 2001
おなまえ●中本
メッセージ● 遼太の父さん
 多分、商売を引退するまでの楽しみに取っておくことになるでしょう。生業的商いは定休日もしくは盆暮れ以外の休みなんて無理なんです。如何にも日本的発想でしょう。これは親からの唯一の遺言。そのかわり、仕事止めたら飛ぶぞってダハハ。自由な貴方が羨ましいです。
じかん● Mon Jun 11 21:05:44 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● ルーシー様 - 『翔ぶが如く』の昔話

この掲示板の99年6月のところに、『翔ぶが如く』と司馬遼太郎の薩摩論について書いたものが残っていますので、ご参照ください。もう2年前になりますね。

@ 無題 (Jun 7 1999)
A 龍馬暗殺と薩摩 (Jun 14 1999)
B 薩摩 − 西郷と龍馬(再論) (Jun 23 1999)
C 薩摩 − 薩人たちの生と死 (Jun 24 1999)

繰り返しの話になってしまうけれど、私が『翔ぶが如く』を読んだのは今から7年も前のことで、読んだ後、すぐに南九州に飛んで行った。季節はちょうど6月の初旬で、入梅の直前の時期だった。

東京から鹿児島空港に降り、南州墓地と城山、そして加治屋町を放浪して鹿児島で一泊。翌朝、薩軍のルートをなぞるようにして、西鹿児島駅からバスに乗り、加久藤峠を越え、ループ橋を旋回して人吉盆地に入り、球磨川べりの人吉の旅館で一泊。次の朝、西郷たちがそうしたように球磨川を小舟で川下りして球泉洞まで行き、そこから電車に乗って熊本に出、熊本城でしばらく過ごした後、田原坂古戦場へ。夕刻、電車で阿蘇を横切って竹田で一泊。

最後の日は、岡城跡を散策した後、大分に出て日豊本線に乗り換え、途中、可愛岳の山容を右手に見ながら宮崎に着、人吉市街戦に負けて敗走を始めた桐野が舟を浮かべ芸者をあげて遊興した大淀川の川べりに佇んだ。南九州をぐるりとまわり、西南戦争の主だった故地を拾い歩き、宮崎空港から東京へ帰った3泊4日だったが、時間があれば、もっと九州山地の奥の方、村田新八が手風琴を焼いた椎葉のあたりまで足を伸ばしてみたかったと思う。

『翔ぶが如く』を読んだら、すぐに南九州を旅することをお勧めしますね。

印象がくっきりしている間に訪れるのがいい。『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』を読んだら、誰でも京都へ行きたくなる。京都へはいつでも行けるけれど、南九州には行く機会というのはなかなか無いものです。そうこうしているうちに。時間が経ち、日常の雑事の中で『翔ぶが如く』の感動や印象も薄れて行ってしまう。他に行きたいところができてしまう。関心が移ろいでしまう。トータルに見たとき、それは人生の損だと私は思う。思い切って「翔ぶ」べきだ。

『翔ぶが如く』の西郷論には賛否両論があって、司馬遼太郎自身も、それを十二分に描けたかどうか確信が持てないような回顧を残しているけれど、私は十分だと思う。武士としての死に場所を捜し求める西郷の姿。そこに武士よる近代化の革命という明治維新の矛盾が象徴的にあらわされている。西郷は、勝利するのは大久保の側だということをよく理解していたはずで、戦いの目的や展望を明確に持っていたとは思えない。

『翔ぶが如く』は、明治維新論(の一部)であると同時に薩摩論であり、そして何より武士論なんですね。武士とは何かを描いた作品で、これ以上のものはなかなか無いのではないかと私なんかは思っています。とてもわかりやすい。


中本さん、

西安行きはそろそろですか。
じかん● Sun Jun 10 23:31:03 Japan 2001
おなまえ●中本
メッセージ● 遼太の父さんへ
 ちょっと体調が悪くて遅くなりました。突っ込み様が無いほどの文面はさすがですねえ。
天安門の幻影が遥か昔の物に思はれる、今の中国の変化をうまく表現されてるとうなりました。
理論的にどうこう書けませんが、現在の世の動向は経済、政治に心理学を含めて考える方法があるらしいです。株式学からのだそうで複雑系と呼ぶとか。それらしきくだりがあったのでちょっと気になりました。要するに思うようにはならないのが世の中よってことですか。
じかん● Sun Jun 10 17:30:34 Japan 2001
おなまえ●ルーシー
メッセージ● はじめまして。昭和46年生まれの会社員(女)です。
「翔ぶが如く」で検索していてたどり着きました。(古い話題ですみません)
読み終わったばかりですこし興奮しています。
西郷も大久保も、本当に、うまく言えませんがこんな人が存在したのかと感動しました。村田新八もいいですね、男らしいという感じ。
が…、私が一番好きなのは実は桐野利秋だったりします。
先に池波正太郎の「その男」と「人斬り半次郎」を読んで、天真爛漫で人懐っこい池波桐野の単純なファンだったのも大きいかもしれませんが。
作中、川路が独白するところの「犬」とか「古代の酋長ならうってつけ」とかいう評価にうなずきつつも、火のような覇気(負けず嫌いというか)、進退の潔さはやはり一つの生き方として美しく、感動を覚えるものがあるように思います。
彼のような「薩摩隼人」に会いたくて、これから海音寺潮五郎など読んでみようかと思っています。みなさん、お勧めなどありましたら教えて下さい。あ、著者は問いません。
e-mail lucy@aioros.ocn.ne.jp
じかん● Thu Jun 7 21:59:26 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 エピローグ(3)

社会主義経済という問題を少し考えている。司馬遼太郎もまた、同時代人として、この問題について思索をめぐらせていた。私は素人なのでよくわからないが、私たちが子どもの頃は、社会主義経済というのは評判がよくて、それを専門にする経済学者が多くいて、本も多く出版されていた。今では社会主義経済を専門に研究している理論経済学者は日本中に一人もいないだろう。そんな時代錯誤な看板を掲げていたら、研究者はとても商売を維持できないからである。

そういうことで、いま社会主義経済を考えるという営みは、大学の外で、趣味人が趣味としてやるものという範疇になっている。その典型が、たとえば柄谷行人のNAMのような文芸趣味運動であろう。浅田彰や柄谷行人のような貴族たちが、戯れに文芸趣味を語るとき、社会主義経済というのはもってこいの食材を食卓に提供するのである。だからいま社会主義理論をやる人間というのは、プロレタリアではなくて、名もあり金もある、文芸富豪貴族でなければならない。

資本主義経済に対する社会主義経済の特長の一つは、それが計画経済の原理を持つということだろう。これは、個別企業の利益追求だけを唯一の運動原理として経済を循環させてゆくと、必ず恐慌が発生して経済全体が混乱するという資本主義経済へ反省的観点から基本政策原理となったものである。需給の調整を市場メカニズムのみにまかせると、膨大な過剰生産が生まれ、失業者と倒産を生み出す。だから全体経済の需要と成長を予め政府が計測して、計画的に生産と供給を図ればよいだろうという考え方である。

この考え方の根本的欠陥は、今日すでに明らかとなっており、いまさらその誤謬と失敗について論ずる必要はあるまい。幾多の悲惨な失敗事例がその理論の無理と不可能を歴史的に証明済みであると言える。

しかしながら、計画経済というのは、実は現在でも家計や企業のなかで生きている原理でもある。企業は事業するとき必ず年度予算を立てて、売上と経費と利益とを計上する。年度が終われば、実績を会計のフォームに落とし込んで総括する。その家計版が家計簿である。企業も家計も、それらの作業をただ漫然と形式的にやっているのではなく、必ず将来の目標があり、それを実現するべく、計画と総括を繰り返しているのである。このプロセスが精密で優秀であればあるだけ、企業も家庭もうまく回る。幸福となる。

ミクロの話ではそういうことだが、マクロでもやはり計画経済はある。国家予算やGNP計算の話だけでなく、たとえば、地球環境で問題になっているCO2の削減などは、それを個別企業の利益追求だけを唯一の経済原理としたままで試みたとき、いったいどうやって実現できるというのだろうか。あるいは社会全体のゴミの量を減らさなければならないという場合に、現状の個別企業の営利追及原理、すなわち市場原理に委ねて、本当にそれを達成することができるのかという根本的な問題がある。

CO2もゴミも、やはり政府が削減目標を立て、目標が実現できるように、市民社会に積極的に働きかけてゆく必要があるのに違いない。個人や企業の自主規制にまかすのではなく、強制力を持って、場合によっては企業の営利追及原理を否定する形で、われわれの将来の生活基盤と経済基盤を守ってゆく必要があるのだろう。目前の企業の利益や個人の便利を阻害するかたちでしか、地球環境というのは守りようがないのである。エゴイズムを厳しく抑制することなしに環境保護など絶対にできない。

西安の排気ガスによる大気汚染はひどかった。北京は西安よりはまだひどくないように感じられたが、東京よりはひどい。だから国際五輪委員会は、2008年度五輪の北京開催について、意義は認めながらもその大気汚染に警告を発している。豊かになれる者から豊かになれというケ小平の市場原理優先論が、中国人をエゴイズムに駆り立て、中国の大気汚染を重症のものにしてしまった。何ともパラドクシカルな現実である。
じかん● Wed Jun 6 20:17:23 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 エピローグ(2)

北京はケ小平の社会主義市場経済の都だった。社会主義的なものと市場経済(資本主義)的なものが両方混在して、互いに多少の遠慮を見せつつ自己主張し合っている。天安門広場の付近は社会主義的なものが濃厚だが、それとて、きれいにライトアップして、演出をして、市民に景観と散策のアメニティを提供している。

コミュニストの革命家で、経済建設に成功した指導者はケ小平ただ一人である。レーニンは戦時共産制からネップ(新経済計画)に移行する途中で死んだため、結果から見れば農村からの食糧徴収だけで終わった。スターリンは食糧収奪で膨大な農村餓死者を出しただけでなく、生産手段である土地を農民から収奪し、ロシア全土の農村を集団化によって丸ごと強制収容所化した。

毛沢東の経済政策も、基本的にはスターリンを踏襲するものであり、ソ連の農業集団化の中国版である人民公社を推し進めて大失敗し、大躍進では全土で膨大な餓死者を出すに至った。本来そこで政治の表舞台から退場すべきだったが、権力に固執して悲劇を増幅させた。文革によって国内のあらゆる工業生産を麻痺させ、経済を大混乱に陥れたばかりでなく、本来、中高等教育によって産業の担い手となるべき若年労働力を下放によって散失させた。

ホーチミンは新生ベトナム経済建設の時を得ることなく、対米独立戦争を指導して勝利目前の戦火のさなかに逝き、カストロはキューバ革命後に資本論をめくってマルクス経済学理論を学んだが、サトウキビ経済のモノカルチャーと貧困からキューバ経済を脱却させることが遂にできなかった。

ケ小平は今日、改革開放路線や天安門事件の現代史で有名であり、有能で果断な実務家のイメージが強いのだが、実は筋金入りの革命家であり、フランス留学組のエリート知識青年であり、そして抗日戦と国共内戦において幾多の英雄的な武功と戦績を上げた勇猛無比な将軍であった。毛沢東がケ小平を買って、文革の最終局面まで彼を党政治局から手放さなかったのは、単に行政的な実務能力だけではなく、革命家としての鉄の意志と軍人としての戦闘任務遂行能力を高く評価し、信頼していたからに他ならない。

その不倒翁の革命家、ケ小平の経済建設のトライアルだけが、社会主義の名において現実に成功をおさめたのである。
じかん● Thu May 31 20:01:17 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 エピローグ(1)

O嬢は日本語のスペシャリストである。市場経済の中国で特別な専門技能をすでに持ち、したがって若くして確かなステイタスを保有するミドル・エリートである。これからの中国の経済発展を考えれば、その人生は前途洋々たるもののように思えたのだが、実はあまり元気がなかった。

どうも彼女は、日本語を自らの専門職能として選んだことを後悔しているように見えた。日本語ではなく英語の方がよかったかしらと、迷い悩んでいるフシがあった。中国では、今、日本の株が落ちている。日本に対するモメンタムが下がっている。90年代を通じての経済の長期低落傾向と、それに続く政治的右傾化と、そして日本の社会状況の悪化の現実が、中国における日本評価を落としている。

中国における日本語熱は依然として高い。中国にはTOIECのような確固たる日本語の検定試験制度があり、毎年、何十万という数の人がそれを受験しているという。われわれ日本人にとって外国語と言えば英語であり、就職のための必修科目は英語である。しかし中国の場合は、英語と日本語の二つが各々にとって選択の問題となる。日本語のステイタスが高いのである。

このことは日本にとって実にありがたいことだと私は思う。これほど日本語のステイタスが高い国は世界中に中国しかない。それは唐家旋外相の日本語を聞けばよくわかる。

O嬢は日本語を選んだのだが、今、中国のエリート学生はみな英語の方に流れて行って、英語圏での大学留学を希望しているという。日本語を学んで日本の大学に留学しようとする学生が激減し、特にトップ・エリートの部分では誰も日本へは行こうとはしないらしい。米国、豪州、カナダへ行く。

O嬢によれば、自分も一時日本留学を考えたが、日本の治安状態があまりに悪いので、計画を取りやめてしまったと言う。昨年から、もう二人も中国人女子留学生が東京で殺されたと彼女は言った。O嬢から見たとき、日本は米国よりもはるかに治安の悪い物騒な国なのである。日本が豪州のように平和で平穏な国であったら私も留学してしただろうとO嬢は言った。O嬢のご両親が、一人っ子で箱入娘の彼女を留学させるには、日本はあまりに危険で殺伐とした社会環境だったのである。

私たち日本人は、日本を治安のよい国だと思っている。私と同じか上の世代はその観念が強い。しかしよく考えてみれば、ここ数年の殺人事件の多さは一体どうだろう。検挙率の異常な低さは一体どういうことだろう。毎日毎日、複数の殺人事件が新聞やニュースで報道され、事件が解決する前に次から次に異常な殺人事件が発生している。いちいち覚えていられないほどの凶悪殺人ラッシュである。世田谷の一家殺人事件も青森の放火殺人事件も未解決なままであり、毎日毎日幼児虐待で子どもが殺されて行く。われわれの感覚はどんどん麻痺して行っているのに違いない。

せっかく日本語を選び日本語を習得してくれたO嬢に、私は申し訳ない気分になった。外国語の習得と簡単に言うが、それは誰にとっても苦しく困難なものだ。学ぼうとする当の国の言語や文化に魅力を感じ、好きにならないと身につかない。いま中国で、日本と日本文化は、かつての魅力を失い、希望を失いつつあるようだ。そしてその原因と責任は全面的に日本の側にある。

じかん● Thu May 24 0:54:31 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 11

北京最後の夜だったから、なるべく雰囲気がよくて美味しい店でディナーをと考えたのだけれど、ガイドブックに載っている店はどこも王府井から遠かった。北京の街は広く、人と車が多く、移動に時間がかかる。迷った末に王府井のそばにある北京貴賓楼飯店3階の明園というレストランを選んだ。少々味を犠牲にしてでも、客の少ない静かで落ち着いた店へ行きたいという気持が強かった。それまでガイド氏に連れて行かれたレストランが、あまりに騒々しくて不愉快なところばかりだったからだ。そして明園には、実に思い通りの、まずくて高くて客がいないために静謐という格好の食事環境が用意されていた。

私はJに、中国の食事は美味しくないと正直に言った。残念だが、同じ中華料理でも東京や横浜のレストランの方がずっと美味いよと。Jはこう答えた。中国人はレストランで出される料理よりよっぽど美味しいお料理を家庭で作って食べているのよ。私がクックしたものの方がここのものよりずっと美味しいわ。なるほどと思った。中国はホテルやレストランなどのサービスのクォリティがとにかく低くて粗末なのだ。

衣料製品は生産すればするだけ輸出して外貨を稼ぐことができるが、サービスはそういう資本主義的な工業生産の蓄積論理に馴染まない。そして観光娯楽市場は国内で圧倒的に需要過多であり、今後さらに激しく過多になってゆく。サービスのクォリティの改善をもたらす競争必然性の契機はきわめて弱い。当分レストランより家庭料理の方が美味いという食事事情が中国では続いてゆくことになる。

しばらくすると、10人くらいの団体客が入ってきて奥の丸テーブルを囲んだ。見るからに地方からやってきた観光客という風情だったが、Jによると地方の政府関係者のグループらしい。この北京貴賓楼飯店は、そういう地方から北京にやってくる政府党関係者の幹部御用達のホテルなのだと言う。見ていると、ウェイトレスのサービスの品質が、われわれに対してとは比較にならないほど劇的に向上した。きっと明日のメーデーの政府主催のパレードにでもご参加される団体様なのだろう。ご苦労様なことだ。

英語であることをいいことに、私たち二人は好き放題、彼らについてああだこうだと喋り合った。誰もこちらを振り向かなかった。Jは安心したように、私が繰り出す社会主義市場経済のジョークにケラケラと笑い声を上げた。楊貴妃もきっとこんな風に笑ったのだろうか。

外に出るとすっかり日が暮れていた。私にとっての今回の中国旅行最後の夜が始まっていた。明日は日本に帰る。最後の夜はメーデーの前夜祭だった。昼間よりもさらに多い数の人々が、長安東街の歩道に集まり、天安門前に集まって、思い思いの時間を楽しそうに過ごしていた。明日から一週間の長い長い連休が始まる。解放感にあふれた人々の表情がそこにあった。ライトアップされた天安門が美しい。夜の天安門広場は不思議な異次元の空間の趣があり、集まった人々の気分を高揚させていた。

中華人民共和国万歳。世界人民大団結万歳。

Jに中国語の発音を教えてもらって、私は何度も大きな声で叫んでみた。気分はそう、あの12年前の夜、国際労働歌「インターナショナル」を歌って民主化を求めた学生たちのところにあった。中華人民共和国万歳、世界人民大団結万歳。Jも真似して叫んでいた。どんなに大声で叫んでも、天安門広場は広く、そこに群れ集まった人の数はあまりにも多く、それぞれの人民の関心は無数の個別のうちにあり、私たちの建国のスローガンの連呼はかき消されて、広場の闇のなかに消えてゆくのみだった。
じかん● Tue May 22 21:51:53 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 10

北京でも一つの出会いがあった。名前はJ。ふとした偶然で知り合うことになった。きっかけは英語だった。彼女は英語ができた。中国では基本的に英語が通じない。中国語しか通じない。だから中国語のできない旅行者は、添乗員であるガイドに何から何までお世話にならなければならないことになる。わがままな旅行者である私は、旅の後半には、このコミュニケーション環境が窮屈で仕方なくなっていた。

Jはラジオを聞いて英会話を勉強したと言う。決して達者な英語とは言えなかったが、私の未熟な英語と彼女の初級英語はよく波長が合い、一日中会話して飽きることがなかった。年齢はガイドのO嬢と同じ23歳。だが、O嬢とJとは外見も境遇もずいぶん違っていた。北京っ子のO嬢はハイセンスで色白で一人っ子の四大卒のお嬢様だったが、Jは河北省の田舎から出てきた専門学校卒の普通の中国の女の子だった。O嬢は北京の実家から一流企業に通勤するOL嬢だったが、Jはアパート暮らしで自活する働く女性だった。

Jは私を王府井に案内してくれた。

予想したとおり人が多かった。しかし王府井も故宮と同じく人の多さに負けない堂々とした街の風格がある。北京一の商店街なのだという伝統的な格の高さと言うか、自負のようなものを、訪れた異邦人にも十分感じさせられる。Jの案内で中国でいま二番目に大きいという書店に入った。池袋のジュンク堂と同じか一回り大きいかも知れない。中の客の数はジュンクの四倍はあろうか。本を求める人で蒸せ返っている。これほど大量の書籍が売られていて、果たして言論の自由の統制などあり得るのだろうか。そう思わせるに十分な店舗の大きさと本の多さだった。

次につい最近できたばかりだという商業ビル(パルコのような)に入ったが、中の店舗の雰囲気や商品の品質は東京と全く変わらない。商品の豊富さも陳列のスタイルも照明の演出も、渋谷や新宿のそれと全く同じであり、さらには価格まで(円元換算レートを妥当なものとするなら)東京とほとんど変わらないことに驚かされた。北京の物価は決して安くない。高い商品であってもそれを買える人間(階層)が多く存在していることの証明なのだろう。すでに金持ちがたくさんいる。

考えてみれば日本で流通している衣料商品のほとんどが中国製のものである。われわれが喜んで買っているユニクロの商品と等しい品質とデザインのものが、王府井のショッピング街で普通に売られていると考えればいい。日本と同じなのは当然である。日本製の自動車や電気製品がその品質の高さで世界の市場を席捲しているように、中国製の衣料品が品質と価格で世界に君臨しつつあるのである。

けれども九割の市場経済の中に一割の社会主義が残っていた。街を案内してくれたお礼にJに何かを買ってあげようとしたとき、会計のカウンターはガラスで囲われたボックスの中にあり、中の従業員は座ったまま無愛想に支払を受け取って釣銭を客に返した。かつてのソ連の国営商店がそうであり、現在の日本のJRやNTTや郵便局や銀行が同じ営業スタイルを踏襲してくれている。私が死ぬほど嫌いな「社会主義的営業様式」である。

王府井にはスターバックスも出店していた。私は久しぶりに飲みなれたコーヒーの味にありつけたが、Jの味覚には濃すぎて合わないもののようだった。シアトルの陰鬱な冬の雨の日が生んだグローバル資本主義のストロングコーヒーの味。口に合わない人間の方が、個人的には私は好きだ。仲良く会話をはずませていると、隣に座った家族連れの男の子(5歳くらいの一人っ子)が珍しそうにこちらをじっと見ていた。同じ中国人(の筈)なのに、聞きなれない変な言葉を二人がずっと喋っていたからである。
じかん● Mon May 21 22:30:26 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 9

西安から北京に着いて、最初に地に足をつけたところは天安門広場だった。広い広い天安門広場。間もなく一週間の黄金連休が始まろうという時節柄、全国各地から溢れんばかりの人が集まっていた。天安門広場の実感はテレビで見て想像していたものとは少し違っていた。都市の広場としてはあまりにもだだっ広く、そしてあまりにもたくさんの数の人が広場の上にいる。

そして何とも言えない不思議な魅力がそこにはある。人の多さと広場の広さに目が眩みそうになるけれど、こういう場所・空間は日本のどこにもない。もう一度訪れてみたいと旅人に思わせる独特の魅力がある。しかし一度だけ私は似たような場所に立った記憶がある。そうだ、あのモスクワの赤の広場に雰囲気がよく似ている。赤色の高い城壁の連なり、城壁の中の宮殿群、指導者の肖像画とスローガン、国中と世界中から広場に集まってきた観光客の群れ、乾燥した大陸の大地と空気。

天安門広場の南端近く、人民英雄記念碑の斜め後方に、孫文の大きな肖像画が立てかけられていた。真正面にある天安門の毛沢東の肖像と向かい合っている。肖像画は孫文だけであった。かつての中国ではメーデーの前ともなれば、この天安門広場にマルクス、レーニン、スターリンの共産主義の聖人たちの肖像画が堂々居並んだことだった。今はもうない。近代中国の父である孫文が彼らにとってかわってしまった。

台北では蒋介石が消えて孫文だけが残り、北京ではマルクス・レーニンが消えて毛沢東の先輩として孫文が復活した。体制の対立する両岸で、孫文だけがひとり世紀を跨いで悠然と生き残る。われわれはこの事実こそに注目すべきなのだ。両岸はすでにこうして一つになっているのであり、さらになろうとしているのである。

それにしても北京の近代化・現代化は、外見的にはほとんど究極のところまで到達していると言っていい。天安門前を東西に伸びるメインストリート長案街の両側には、真新しい高層ビル群が延々と立ち並んで、この国の近年の著しい経済発展ぶりを存分に示している。市中心部だけではない。北京空港から市内までの沿道のいたるところで30階近い高層ビルが林立している。マンションや商業ビルや、これでもかと言わんばかりに多く立ち並んで高さと新しさを競い合っている。

そこはケ小平の社会主義市場経済の都だった。

北京のガイドはO嬢という23歳のチャーミングなお嬢様だった。大学の文学部で近代日本文学を専攻し、大手旅行代理店にご就職された現代中国のピカピカのミドル・エリートのお嬢様。色白のいかにも育ちの良さそうな顔立ちで、服装も北京っ子らしくアカ抜けていた。日本人の女の子と変わらない。

文化大革命など何の記憶も関心もなく、天安門事件でさえわずかな記憶の片隅にあるだけの、まさに新しい世代の若い中国女性(アジア女性と言うべきか)がそこにいた。重労働で激務であるガイドのお仕事を二日間こなしていただいたが、正直なところ、世代の差を感じさせられて仕方がなかった。もっと若い日本人の男性客の方が、彼女にとってはコンフォタブルだったに違いない。

もうそこまで中国は新しい時代になっていて、もうそこまで私は古い時代の人間になっていた。
じかん● Mon May 21 22:11:28 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 木春菊様、中本様、

ご声援どうもありがとうございます。
ユン・チアンの「ワイルド・スワン」については、機会があれば別途また論じてみたいと考えております。

− 訂正 −

5/12の中国紀行6の中の「林則除」は「林則徐」
5/9の中国紀行4の「文春文庫」は「新潮文庫(上巻)」
他にもたくさん間違いがありますが、とりあえずこの2点を謹んで。

じかん● Mon May 21 0:15:47 Japan 2001
おなまえ●中本
メッセージ● 遼太の父さまへ
西の方陽関を出でなば故人無からんには涙する思いです。私の中の凍結された中国観を呼び覚まされるとはオーバーでしょうか。単純な感傷とお笑い下さい。はきっり言って当時学んだ中国は面白くなかった。文革礼賛ばかりだった。でも、あれは権力闘争にすぎぬなどの話はありました。あとで「ワイルドスワン」で事実を知った、また「大地の子」をTVで観た次第です。
かのくにの失われた年月は痛々しいばかりです。
西安はますます心惹かれる所です。名文をありがたく思います。
じかん● Sun May 20 13:58:52 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 8

C氏が案内してくれたのは、西安城の中心にある鼓楼の門をくぐり抜けたところにある北院門街だった。古くからの屋台飲食街で、外国人観光客があまり足を踏み入れることのない地元の人たちだけが集まる場所だと言う。いわゆる回族、イスラム教徒の人たちが多く住み着いて作られた回族街であり、唐代の頃に西方からやってきて長安に住みつき、以来ここでずっと商売をしている。

回族料理の定番であるシシカバブー(羊の焼き肉)のお店に通された。よく見ると店の人の目は青く、普通の中国人とは明らかに異なっている。皿に山盛で出されたシシカバブ−の串をくわえ、粗末なビニールコップにつがれた青島麦酒を流し込みながら、異国情緒あふれた酒宴と歓談が始まった。私にとって最高の演出であり、私は生涯この西安の夜を忘れることはできないだろう。

李白たちの頃、大唐帝国の都長安は空前の西域ブームで、胡(イラン系)の風俗が大流行した。酒家は胡姫を雇って客をもてなし、そこではエキゾチックな胡楽が奏でられ、胡姫たちが胡旋舞を舞い踊って客である男たちの心を蕩かしていた。「李白は酒一斗詩百篇、長安市上酒家に眠る」。美しい胡姫の酌の傍で李白が詩想に耽りながらうたた寝していたのも、こういう回族の主人が経営する居酒屋だったのかも知れない。

初対面の外国人だったが、前回も述べたように、私はC氏に心の底にあるものをすべて言葉にして訴えた。もっともっと長い時間、彼と向かい合って話し合っていたかった。日中国交回復の時のこと、天安門事件の時のこと、そしてこれからの日本と中国のこと、これから中国がどうあるべきかということ。社会主義市場経済を次にどうドライブしてゆくかということ。

私の周囲には、それらを論じ合うことのできる人間はいない。これからも現れることはないだろう。共感や感動を深く覚え合う議論などは、それを期待することすら無理で不可能のように思われる。途方もない知性の低下と際限のない右傾化のなかで、私が求めるようなものは、この日本で失われ損なわれてゆくだけの運命だからだ。

論談のなかば、彼の口をついて王維の七言絶句が出た。

渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青々 柳色新たなり

途中から私も声を合わせた。

君に勧む さらに尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出でなば 故人無からん

渭城朝雨潤軽塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽関無故人

人生にはこのような至福の瞬間がある。彼と知り合えて本当によかった。人生はかくも孤独だが、孤独が深ければ深いほど、出会いの歓びはまたひとしおのものとなる。もう一度西安においでなさいと彼は言った。もちろん行く。シルクロードを廻る旅が私には残っている。そのとき西安を再訪する。だが、できればその前に彼を一度銀座で接待してみたい。

翌朝、私は「故人」となって陽関ならぬ西安空港を後にした。C氏への感謝の気持でいっぱいだった。知性のみが人間を普遍化する。知性のみが人間をコスモポリタンにする。私はまだその信仰を捨てない。
じかん● Sun May 20 13:25:16 Japan 2001
おなまえ●木春菊
メッセージ● 遼太の父様へ
“ワイルド・スワン”“ユン・チアン”久しぶりに聞く名にせつなくなりました。
“大地の子”とどちらを先に読んだかなぁ。10年くらい前?そんなにたっていないかなぁ。
私は高卒でそれも商業高校で中国の歴史を学びませんでした。
文革の恐ろしさを知りませんでした。そしてそれを“中国の歴史”と思っていましたが、自分がもう生まれていた時代だとしり愕然としました。なにも知らない自分が恥ずかしくなりました。私の中の大切な一冊です。
そして“何も知らない自分”が“知った”と思ったことはほんのわずかなことで、結局“中国の歴史”というものは深すぎ、難し過ぎ、わたしの手には負えないと思いました。
じかん● Fri May 18 23:42:41 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 6

西安では一つの大きな出会いがあった。仕事以外の関係でこれほど濃密に対話し、真剣に議論し合った外国人は、私にとって彼が初めてである。私自身の遅まきながらのオクテの「国際化」が漸くこの年になって始まろうとしている。名前はC氏。ふとした偶然がきっかけで短い西安滞在中に知り合うことになった。

彼は48歳。1953年生まれである。その自己紹介を受けた瞬間、私には直感するものがあった。中華人民共和国の激動の時代を生き抜いてきた生き証人であり、日本語が話せる人。そういう人がいま目の前に現れてくれた。私はこの千載一隅のチャンスを絶対に逃したくなかった。 とまれ、情報はどこでどのように漏れ流れて行くか分からない。中国は未だ完全な言論の自由と思想信条の自由が体制的に確立された社会ではないのだ。まして彼は社会的に責任ある身分と立場の人間である。だからここで多くを明らかにすることはできぬ。

私は彼にユン・チアンの「ワイルド・スワン」について語った。それを読んだ時の大きな大きな大きな感動を、熱っぽく渾身で語り抜いた。こんな議論は日本では絶対にしない。する相手がもういない。日本ではもう二度と死ぬまでできないだろう。当然のことながら、大陸では「ワイルド・スワン」は公刊されていない。彼は「ワイルド・スワン」を知らなかった。しかしユン・チアンとC氏はまさに同年代の人間であり、同じ時にそっくり同じ経験を、苦汁に満ちた過酷な人生を強いられていた者同士だったのである。C氏がその世代に属しながら流暢な日本語(外国語)を話せることの事情や背景について、中国現代史を知る者ならば、何事かを思い及ばねばならない。私は言葉を交わし合った瞬間、即座に彼の全てを、彼の周囲にいる若い中国人以上に明瞭に理解できていた。

直感したとおり、彼もユン・チアンと同じく党幹部の息子というバックグラウンドを持っていた。毛沢東思想によって反革命の危険分子として終始攻撃の対象とされつづけた知識青年の一人であった。そしてやはり紅衛兵の経験(60年代後半)があり、農村への下放の経験(70年代前半)を持っていた。76年の四人組逮捕と文革終結、78年のケ小平による改革開放路線宣言を経て、ようやく農村から大学にカムバックして外国語(日本語)を自力で独習。それを見事習得して、80年代改革解放時代の中国の第一線で活躍してきた経歴の持ち主だった。彼とユン・チアンの差は、わずかに英語と日本語の差であり、海外留学経験の差だけであった。

私は彼に率直に言った。

「ワイルド・スワン」は中国文学史上三本の指に入る歴史的な名作です。一つは司馬遷の史記、もう一つは三国志、そして三番目が「ワイルド・スワン」です。ユン・チアンは明らかに司馬遷を意識しているのです。彼女は現代の司馬遷となって歴史を書いたのです、彼女こそまさに現代の司馬遷です。私が中国の指導者だったなら「ワイルド・スワン」を早い時期に解禁します。これは現代中国の誇りとなるものであり、読んだ中国人は、あの過酷な時代にこういう素晴らしい人間的知性が存在したことを発見して、きっと勇気づけられることだと確信します。初対面の人間(しかも外国人)を相手の、思いのたけの告白と絶叫であった。

彼は言った。

ご存知ですか、文革前の1950年代後半にはトランジスタの開発で、日本と中国はほぼ横一線で並んでいたのです。その後でこんなに差がついてしまいました。文革は何もいいものを残さなかった。大躍進のときに飢饉があったのをご存知ですね。私は小学生でしたが、学校に通う途中の道端で、捨てられた赤ん坊が犬に喰われるのを見たことをを覚えています。

私は言った。

大陸でそういう出来事が続いていた頃、私は平和な日本で小学生、中学生になって、楽しく不自由なく育っていました。その頃の日本は高度経済成長が長く続いている時代で、本当にいい時代でした。今よりもずっとずっといい時代でした。

これは私がユン・チアンに言いたかった言葉だった。「ワイルド・スワン」を読みながら、その同じ年同じ月に自分がどこで何をしていたのか思い出しながら、ぼろぼろ涙をこぼしながら、作者である彼女に告白したかったことだった。それを吐露する相手を見つけられて私は幸せだった。
じかん● Fri May 18 18:16:28 Japan 2001
おなまえ●岡本
メッセージ● 最近司馬遼太郎を読み始めた大学生です。ぜんぜん詳しくないのですが、とても面白く読んでいます。
そこで、どなたか僕といろいろ司馬遼太郎について話をしてくださる方がございましたら、メールをください。
study_law@hotmail.com
まで
じかん● Sun May 13 10:40:37 Japan 2001
おなまえ●じゅんこ
メッセージ● 欧陽詢
書家で評論家でも有る、石川九楊氏が書かれたエッセイ集の中に、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」が出てきます。太宗皇帝が杖でとんとんと叩くと水が湧き出たのを、記念して建てた碑だそうですです。「杖」という題名で新潮文庫から出ている「書字ノススメ」に納められています。私はこの文も好きなのですが、全般的にこの人の書いた物を読むと、書というのは何と奥の深い事か、日本人の血や肉そのものではないのか、なんて考えこんでしまいます。
じかん● Sat May 12 1:26:46 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 6

西安の街の景観的魅力は何と言っても城壁と楼閣である。碁盤の目のような市街路の中心に鐘楼が位置し、鐘楼を中心に交差点がロータリー状に旋回する。この鐘楼ロータリーの絵が、西安を紹介する冊子や映像の冒頭に必ず使われている。鐘楼は大雁塔と並んで古都西安を象徴する建造物である。

鐘楼の隣に鼓楼がある。鐘楼の鐘の音は場内に朝を告げ、鼓楼の太鼓の響きは夜を告げた。鐘がゴーンと鳴ると、西安城を閉ざしていた東西南北の城門が開けられ、ドンドンという太鼓の音と同時に城門が閉ざされ、堀の上に架けられた橋が跳ね上げられて外部との交通が遮断された。四方の城門が閉ざされると内部は完全に密封状態となる。

鐘楼も城壁も明代に築かれたものだが、規模も大きくて景観として実に素晴らしい。いかにも中国へ来たという実感がわいてくる。夜は美しくライトアップされ、城門と城壁の稜線のシルエットが夜景に浮かび上がって雰囲気を醸し出す。ライトアップされた城門のそばまで行って見上げていると、次第に意識が漢楚の興亡劇や三国志の世界にすべりこんで行く。壁の厚さは13メートル。われわれの想像をはるかに超えて、突拍子もなくぶ厚い構造にできている。

昼間の観光地まわりの中で、もう一つ印象に残ったのは碑林博物館である。その前に立ち寄った陜西歴史博物館も、真新しい建物で展示も立派だったのだが、そこは欧米からの団体観光客が幾組も押しかけてきていて、館内に仏語や英語や伊語が騒然と飛び交って居心地がよくなかったことがある。実は兵馬傭や後の北京の八達嶺などでも、凄まじい数の欧米人観光客で溢れ返っていて、京都で見る外国人の数よりも多かった。

さすがに彼らは碑林には関心が無かったらしい。見物客は日本人だけで、おかげで落ち着いた雰囲気で鑑賞することができた。まず大門から入って中庭から正面への景観がよい。清朝以前は孔子病であり、経学研究の学房であった。そういう古のアカデミーの雰囲気がよく伝わってくる。中門の「碑林」の扁額は阿片戦争のとき左遷されたあの林則除のものであると言う。「碑」の字の上の点の欠落は、官職を解かれて冠を失った林則除の作為であり、清朝政府に対する揶揄であるとガイド氏が説明してくれた。

展示室に入ると無数の石碑が所狭しと並べられてあった。論語、尚書、礼記などの儒学の経典が、何百枚もの石碑にすべて彫り刻まれて保存されている。唐代に皇帝の命により彫られた。つまり紙に転写するかたちで経典を保存しようとすると、原書の紙の損失や写し間違いによって原典が失われる可能性があるが、石なら半永久的に不変のまま保管できるという考え方である。紙には拓本で写し取る。

ガイド氏が、平成の元号の由来となった尚書巻ニの字句のある石板の前まで案内してくれて、得意顔で「兪、地平天成」の文字を指さした。日本人観光客に対する毎度のアテンドサービスの一環のようだった。碑林の石板は博物館に陳列された歴史的展示物であるけれども、しかし同時にこれこそが古典の原本なのであり、最も正確なオリジナルソースであり、したがって古典の原本として現役の働きをしているものである。石碑こそがオリジアルで書誌の方がコピーなのである。

私はここで台北博物館ではついに相まみれることのできなかった顔真卿に出会うことができた。王義之の碑もあった。欧陽詢も蘇軾も。ギフトショップで王義之の「蘭亭序」の拓本を買った。値切った価格は日本円で5千円だった。よく売れるのは王義之の千字文で2万円だという。
じかん● Thu May 10 21:55:12 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 5

始皇帝陵のすぐそばに、もう一つの著名な観光地である華清池がある。ここの最大の見せものは、楊貴妃が浴を賜ったとされている温泉の浴槽である。付近に驪山という馬の形をした山(死火山)があり、山麓に温泉が沸いていて、古来より都の皇族や貴族たちが別荘地をつくって遊興した。

この驪山が都(咸陽・長安)の東方にぽっかりと浮かぶ小高い山で、おそらく東京方面からの筑波山のような格好で都の方から見えたらしい。その山容を愛した始皇帝が山の麓に陵を作らせたという。地図ではそのように確認されるのだが、生憎肉眼では驪山の姿を西安市内からは望むことができなかった。黄沙の塵埃のせいである。

そういう次第で、始皇帝陵と兵馬傭、華清池はすぐ近くにまとまってあり、これらの主要観光地を西安市街から半日で回るツアーが西安東線コースと呼ばれて、西安観光のメイン・パッケージとなっている。このことについては前にも述べた。

漢皇色を重んじて傾国を思う
瞳を廻らして一笑すれば百媚生じ 六宮の粉黛顔色無し
春寒くして浴を賜う華清の池 温泉水滑らかにして凝脂を洗う

すぐに白楽天の長恨歌の一節が浮かび、美しかったであろう楊貴妃の白くて細い裸身が念頭をよぎる。誰もが楊貴妃の官能的な美しさを思いながら眼下の浴槽を覗き込んでいる。見物客用に浴槽を覆った建物の内部の四方の壁には、玄宗と楊貴妃の悲恋物語の各シーンが、映画の一繋ぎの絵コンテのように、最初の出会いから楊貴妃の死まで何枚も台描かれて飾られていた。

九重の鼎も四海の富も、貴妃よ、そなたがいるからこそ私にとって意味があるのだ。そなたを失ってしまえば何の価値があるだろうか。

京劇の台詞のようなそんな漢詞が、嘆き悲しんで肩を抱き合うニ人の姿を描いた絵コンテの横に書かれてあった。反乱軍に追われて逃亡するさなか、遂に死を賜わることになった楊貴妃は、そのときすでに38歳の熟年女性の筈なのだが、絵コンテの楊貴妃は20代の若々しい美しさのままであった。

春宵短きに苦しみ日高くして起く 此れより君王早朝せず
春は春の遊びに従い 夜は夜を専らにす
宮中の佳麗三千人 三千の寵愛一身に在り

玄宗55歳の老いらくの恋。かつて開元の治と称される空前の理想政治を行った名君玄宗も55歳にして傾国の恋に陥り、政治に飽き、大唐帝国の経世済民を放棄して、享楽の私生活に耽溺するところとなった。後世「何々の治」と名づけられて賞賛される皇帝の政治は、長い中国の歴史の中でもごく僅かしかない。玄宗は、明らかに中国悠久の歴史の中でも五指に入る有能有徳な英君であった。

中国の歴史にはキリストや仏陀のような神格的な人間像は出て来ない。誰もがどこまでも人間臭く、人間の生のドラマをリアルに演じ見せてゆく。人間の弱さ愚かさの真実がストレートに表出され、そしてまさに人間の弱さの裏返しとして、人を変え、人を虜にする権力や性愛の底知れない魔力が思い知らされてくるのである。
じかん● Wed May 9 23:57:34 Japan 2001
おなまえ●中本
メッセージ● 遼太の父様へ
 私が一番行きたい西安の話、うれしく読ませて頂いてます。たまたま当地で中国文明展が開催中にていっそう心躍るものがあります。今年の初夏は<長安の春>で過ごせそうです。
じかん● Wed May 9 21:56:05 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 4

西安を旅することは、秦と始皇帝について濃厚に思いをめぐらすことでもある。

始皇帝という人物についての認識や理解は、私の場合、その存在を知悉してから今日までかなり大きく変化を遂げた。かつての私の始皇帝像は、残虐で冷酷で妄想的なアジア的専制君主の代表格であり、人間的に共感を覚えるところなどありはしなかったが、今は全く違う。人間として親しみを感じるところ大であり、またさらに中国を中国たらしめ、中国史を中国史たらしめた決定的な歴史的人格であるように思われてならない。

わが司馬遼太郎を含めて、中国が中国となり、中国史が中国史として不変に継続する最大かつ最重要の歴史的契機を儒教(礼教)に求め、孔子の人格と思想から中国というものを考える方法が一般的である。だが私の認識では、むしろ孔子以上に始皇帝の存在が大きいように感じられる。始皇帝の出現以降、中国は牧歌的で多様性のある柔軟な中国から、苛烈で即物的で巨大で固い岩盤のような中国になって今日まで至っているように見えるからだ。

司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』の冒頭部分では、晩年の始皇帝が次のように描かれて登場する。

皇帝は、毎夜、女を必要とした。..皇帝は毎夜のように幸する女を変えた。..それもなみはずれた荒淫の人であり、そしてその荒淫をつづけたいために自分が衰えを怖れ、自分だけが死をまぬがれたいと妄想している...。(文春文庫 17-18ページ)

司馬遼太郎はこう描写している。しかし私が耳にしたもう一つの説によれば、始皇帝の荒淫は彼の人生の目的ではなくて手段であった。つまり不老不死のエネルギーを得るために、毎夜毎夜、都周辺から狩り集めてきた処女を抱いていたというものである。処女を抱くことで生のエネルギーを体内に取り込み、永遠の若さを保つことができると素朴に信じていたのであり、したがって荒淫は趣味であると同時に真摯な健康法であった。いや健康法と言うよりもより切実で神聖な信仰実践のように本人は意識していたのかも知れない。

司馬遼太郎が言うように荒淫が目的で不老不死を願ったのか、それとも不老不死を願って荒淫に及んだのか、そのいずれであったとしても、この話は始皇帝の男としての弱さや人間臭さを如実に示す歴史的エピソードである。さらに言えば、男の性の何たるかを示唆する壮大な歴史的スケールの参考材料として考えることもできるようにも思われる。

始皇帝の強烈な性欲の犠牲となり抵抗する術もなく供された女たちの境遇に立って考えれば、何とむごくて哀れなことだろうという同情が当然に成り立つ。けれども中には、そうした不運を好機として逆に利用してやろうと打算したしたたかな女もいたかもしれない。何と言っても、今宵肌を合わせる相手は中国世界を統一した始皇帝であり、地上の全ての富と権力を一人で独占している男だからである。

男は誰しも内なる始皇帝を自らの中に持っている。荒淫問題のみにとどまらず、不老不死の滑稽劇にしても、焚書坑儒の権力政治にしても同様である。逸脱と過剰と暴走への衝動を自らの内側に飼って生き続けているのである。
じかん● Wed May 9 21:50:17 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 皆様、
ご声援どうもありがとうございます。これから4、5、6とさらに盛り上がってゆきます。読みものとしてご満足いただけますよう、一生懸命書いてまいりますので、どうぞお楽しみになって下さい。

じゅんこ様、おひさしぶりです、お元気でいらっしゃいますか。
華子様、まあご様、はじめまして、どうぞよろしく。
じかん● Wed May 9 16:16:00 Japan 2001
おなまえ●じゅんこ
メッセージ● 遼太の父様
念願の中国大陸へ旅行できてよかったですね。
中国との国交が回復された時の様子、兵馬庸の発掘をテレビで見た時の驚き、国交正常化十周年記念の敦煌壁画展を見た時の興奮、まるで昨日の事のようです。
中国紀行の続き、楽しみにしています。
じかん● Tue May 8 21:59:57 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 3

西安のホテルで中国最初の夜を迎え、翌朝、兵馬傭に向かった。兵馬傭のすぐ近くにはかつて楊貴妃と玄宗が遊興した温泉地の華清池があり、その両方を巡るコースが「西安東線コース」として半日パッケージになっている。土埃の中を市内から1時間半ほど車で行くと、右手に始皇帝陵の丘が見えてきて、それを通り越した隣側に兵馬傭がある。兵馬傭は陵墓に眠る始皇帝を守るための軍団なのである。

駐車場に車を停め、商売熱心な土産物屋の中ををくぐり抜けると兵馬傭博物館の敷地に至る。博物館の建物は1号から3号までの坑館と銅車馬館と合わせて4つ。ガイド氏に案内されて最初に銅車馬館に入り、掘り出された二つの銅車馬の展示を前にして思わずハッと息をのむことになった。この銅車馬二対が実に素晴らしい芸術的傑作だったからである。ルーブルでミロのヴィーナスの前に立った時と同じ感動と興奮。単に著名な歴史的文化遺品に直に接し得たという感激だけでなく、作品自体が持つ芸術的価値に圧倒されてしまったのだ。

この銅車馬は特に素晴らしい。銅車馬像の精密な造形美と加工美、実物模写の驚くべき精緻さ、御者の表情と姿態の精巧さ。とても二千年前の古代の加工品とは思えない。まさに近代の金属加工そのもの。二千年前の中国戦国にわれわれの近代がある。何故だ..。この銅車馬の前では半時間でも一時間でもゆっくり鑑賞して思索していたいと思った。

写真でよく見る1号坑の秦歩兵軍団も噂に違わず壮観で圧巻だった。兵士たちが実物の表情で、実物大の大きさで生々しく迫ってくるだけに、写真で見るのとは迫力が違う。恰も自分が戦国の中原にタイムスリップして、これから精強無比な秦軍を迎え撃って亡国の一戦を交えようとする六国の一将にでもなったような気分になった。

虎狼の兵団と言われた秦軍の圧倒的な強さと勇猛さ。敵軍に対する容赦ない無慈悲で残忍な殲滅戦法。そうした秦軍団の戦国の殺気が、想像とともに館全体に充満してくるようで、何となく肌寒い感覚すら覚えてくる。傭は実物の軍隊の正確な模写であるから、歴史に実在した秦軍の実戦兵団そのままに、歩兵がいて、騎兵がいて、射撃(弓)兵がいて、そして将軍がいて、参謀長がいた。

博物館の敷地内に国営の兵馬傭ギフトショップがある。この店の中に、1974年にこの兵馬傭を発見して一躍有名になった楊志発老人が座っていて、観光客の握手攻めにあっていた。TBSテレビ「世界ふしぎ発見」でも紹介された兵馬傭の有名人である。兵馬傭を見るためなら、もう一度あの苦しい土埃の中を這って西安に戻ってもいい。そう思わせる確かなものが間違いなくここにはある。
じかん● Tue May 8 7:47:13 Japan 2001
おなまえ●秦太
メッセージ● 大変久しぶりにお邪魔いたします。
遼太の父さん、今度は大陸の中国に行かれたのですね。
ずいぶんとお疲れになったそうで。
十数年前に旅行した私は、子供だったせいか、ぜんぜんストレスを感じない旅でした。
大気汚染は当時よりひどくなっているようですね。湿潤な江南ならまた少し違うのでしょうが。

しかし、柳絮を御覧になったのはうらやましい。
謝道ウン{韋+囚/皿}が雪の散るさまに勝ると歌った楊柳の棉、一度はこの目で見たいものです。

じかん● Mon May 7 20:14:17 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 2

西安に着いたのは4月25日の夕刻で、間もなく日も暮れようかという頃だった。北京から国内便(西北航空)に乗り継いで3時間1千キロの空の旅。そして郊外の空港から市内までは車で1時間ちょっとの距離である。道路の周囲は茫漠たる乾燥した広い大地で、小麦とトウモロコシの畑であった。広大な畑の中を西安市に向かって一本道が続いてゆく。前を行く車やすれ違う車の後に猛烈な砂塵が巻き上がる。

西安は北の黄土高原から渭水盆地に吹きつけてくる夥しい量の黄沙のために日中は常に大気が白く霞んでいる。いや、霞むというような雅な風情ではなくて、もっと強烈に街全体が黄沙の土埃の中に覆われて澱んでいると表現した方が正しい。大気が乾燥している上に土埃が大量に混じっているため、一日空気を吸って吐いているうちに、すっかり喉をやられてしまった。頭髪も顔も土埃まみれになり、鼻や耳の中も土埃まみれになる不快感が当初は少し辛い。

乾燥と土埃だけでなくそれに車の排気ガスが充満して、西安の大気は脆弱な旅人の肉体にとってまさに毒気となる。日中市内の道路は車がびっしりで、交差点の前は必ず渋滞している。西安の人口は7百万人。混雑しないはずがない。そして案の定、運転手たちのお行儀が猛烈に悪い。台湾以上である。凄まじい交通道徳の現実がある。西安で移動のために車に乗っていると、それだけで激しく心身が疲労する。

その土埃と排ガスの充満した乾燥した空気の中を、白いものがフワフワと舞い上がり舞い散っている。それは西安だけでなく北京も同じで、旅行期間中ずっと私のゆくところを舞って異国情緒をかきたててくれるところとなった。柳だかポプラだかプラタナスだか分からないが、街路樹の綿がはじけて一面に飛び散り漂う、中国特有の春の風情である。何処へ行っても粉雪のようにそれが天から舞い降りてきて、その場を演出してくれた。

西安空港から西安市内までのいかにも中国らしい広大な大地は 地理的には渭水盆地の中の平野であったが、まわりを見回しても山らしい影は全く見えない。大平原が地平まで果てしなく続いている。それは単に黄沙風塵による視界の曇りだけでなく、まさに中国の国土の広さであり、盆地と言われて甲府盆地程度のものを思い浮かべてしまう日本人の地理的スケールの小ささにあらためて気づかされる思いだった。

途中、高速道路が渭水を渡った。渭水盆地が予想を越えて広大だったのと同じく、渭水(現在の名称は渭河)もやはり大河だった。ガイド氏の話では、渭水も黄河と同じく近年水枯れがひどく、川の水量が激減しているという。言われたとおり、長い橋の下には涛々たる奔流が流れているのではなく、細い小さな川筋が幾筋か分かれて流れているだけで、橋の下の景色の大半は干上がった河原の状態だった。

この渭水の北側の川べりにかつての秦の都咸陽宮があった。唐の長安は渭水の対岸、南岸に築かれた都であり、現在の西安市もその同じ場所にある。われわれの車は渭水を渡り、西安市内へと入った。すでに日も暮れて、夜の帳が下りていた。
じかん● Sun May 6 14:31:25 Japan 2001
おなまえ●華子
メッセージ● 遼太の父さんへ
ながいこと掲示板でみなかったので・・・たぶん旅行だと・・・
いろいろなお話いつも楽しく読ませています。



じかん● Sat May 5 18:53:31 Japan 2001
おなまえ●遼太の父
メッセージ● 中国紀行 1

北朝鮮の金正男が偽造旅券で不正入国を図って成田の入国管理局に身柄を確保された4時間後の5月1日夜、北京からJALで帰ってきた。初めての中国の旅は、想像した以上に心身疲労をきたすものであり、帰国して2日間、不覚にも熱を出して寝込む結果となってしまった。

ある程度予想はしていたけれど、中国の旅行というのは、市場経済が進展している現在でも、一般の外国人旅行者にとっては相当にタフなものである。

実は2年前の99年から中国でも5月1日のメーデーからの一週間が国民の休日となっていて、日本のゴールデンウィークと同様に旅行シーズンになっている。外国旅行は未だ制限が厳しく、費用的にも一般的ではない代わりに、国内旅行についてはまさに怒涛の如くと言っていいほどこのシーズンに盛り上がっているのである。中産化しつつある膨大な数の「中国人民」が、地方から大都市に押し寄せ、著名な観光地に押し寄せてくる。

そうした人民の国内旅行ブームの波の奔流の只中にそこへ乗り込んでしまった結果、私の旅は過剰かつ苛烈にタフなものになってしまった。体験からの教訓を述べれば、これから中国へご旅行されようという日本人は、ゴールデンウィークは避けた方がいいだろう。

西安で3泊、北京で3泊の長い旅だった。西安も北京も決して全てを見て来得たわけではない。振り返ってみれば、見逃したものの方が圧倒的に多い。しかし、私の現在の体力と気力では、西安のあの環境とホテルで3日以上滞在して生活するのは困難だったと思うし、同様に北京で3日以上暮らすのも困難だったと言わざるを得ない。タフなのである。

台湾への旅とは全く逆に、中国では癒されることは全くなかった。全く逆で、帰国してから日本で癒しを必要とする旅になってしまった。覚悟はしていたが、自分の余生の残り少なさを思うとどうも辛い気分になる。もっとコンフォタブルな旅ができるようになるまで中国は何年かかるのか。

人民元は現在1元15円のレートとなっている。私はまずこの交換レートに胡散臭さを覚えずにはいられない。社会主義国特有の(特有のと言っても最早幾つも地上に残っていないが)外国人観光客に対する不当な交換レートの押し付け。どう考えても1人民元は5円、高くても7円がいいところだろう。持って行った日本円の半分は騙し取られたと感じる。

土産物も本物のものがない。上質の食指が動くものが何もない。価値のあるものがない。翡翠のジュエリーもシルクのスカーフも偽物臭くインチキ臭くて、ショッピングの満足感が全然ない。これらは「人民」観光客が騙され半分に喜んで買うものだ。茶も台湾とは比べ物にならない。まずい。だから何も買うものがない。陶磁器や書画もつまらない子ども騙しの偽物ばかりで、価値のあるレプリカすら置いてない。レベルが低いのである。
じかん● Sat May 5 12:07:53 Japan 2001
おなまえ●華子
メッセージ● まあごさんへ
歴史の本、ずいぶん読まれたことでしょう?最近はあまり読まれてないようですが・・・
私はまだ日本の歴史を読み始めて1年ぐらいなんです。
その2年ぐらい前に外国の歴史に興味をもって読んでたのですが、日本の歴史も充分じゃないのに・・・・と思い、本屋さんに行くたびにいろいろ集めたのがきっかけです。
1年ほど前に母が亡くなり親戚の人から平家の直系の子孫だったと聞いたら、なおさらです。
学生時代に「何を勉強していたのか?」と思うと恥ずかしいしだいです。
でも、日本、ヨーロッパ、中国、と歴史ものは「おく」が深くすばらしいですよね?
まあごさん、読者の皆さん、よい作品を紹介して下さいね?


じかん● Fri May 4 13:15:09 Japan 2001
おなまえ●まあご
メッセージ● >華子さま
始めは私も何度も系図を確かめつつ読みました。慣れです。本を読む量が増えてくるに従って
だんだんと頭に入ってきますよ。


じかん● Thu May 3 13:14:07 Japan 2001
おなまえ●華子
メッセージ● 昨日からインターネット使いほうだいになって忙しくパソコンさわっています。
主人が休暇で家に居て暇がないはずなんですが・・・なんか夢中になってしまって・・・
本も美貌の女帝を読み終えて、次はやはり永井路子さんの「氷輪」を読みにかかっているんですが、この本はすごく読みがいがあると思います。字もかなり小さく内容がくわしく書いてあって系図もわかりやすく・・でも私って系図をしっかり頭に入らなくては前に進めずこの本はたぶん時間がかかるのでは・・読者の皆さんはすぐに呑み込めます?
じかん● Thu May 3 0:56:00 Japan 2001
おなまえ●島津
メッセージ●
じかん● Thu May 3 0:55:50 Japan 2001
おなまえ●島津 正洋
メッセージ●
じかん● Tue May 1 11:44:40 Japan 2001
おなまえ●まあご
メッセージ● 3回目です。こんにちわ。
今、海音寺潮五郎さんの本を再々読してます。
歴史小説に目覚めるきっかけは司馬遼太郎さんでしたが、最近は読んでません。
「峠」ではおいおい泣いて読み、「世に棲む日々」では晋作に惚れ、「花神」では蔵六という人物がおもしろく、「項羽と劉邦」ではわくわくしました。
今はどうしても読みたいと思う作家がいない状態です。
じかん● Tue May 1 0:12:55 Japan 2001
おなまえ●JIR
メッセージ● >しんぺいさん

ありがとうございます。
今度早速あたってみます。

読んでみたい本が、こういう形で自分のアンテナに引っかかるのって、なんかこう、
うれしくて、燃えてきませんかー。「ヨ、ヨ、ヨーシ!」みたいな…