OMPのコラムでトーク バックナンバー

  「インターネット時代−虚実の見極め」 1999.12.26
      ミレニアム、Y2K問題、ペイオフ、リストラ、金融再編成、介護保険、環
    境ホルモン、警察腐敗、新興宗教、そしてインターネット、今年も数々の事
    件、出来事が「情報洪水」のごとく茶の間を駆け抜けていった。携帯電話にi
    モードが登場し、家電としてのインターネットが社会を大きく動かす時代の到
    来を告げた年とも言えるかもしれない。景気回復にベンチャー育成の大看板は
    インターネットビジネス社会が避けて通れないという「刷り込み」をあたかも
    国家キャンペーンのごとく展開させようとしているかに見える。マスコミの年
    末特集で登場する当世若者気質を映し出す映像には、「金」への執着が暗示効
    果の如く何度も繰り返されている。「情報メディア」が流す映像の一コマ、一
    コマがどうナレーションされ、どうフレーミングされているかで、知らず知ら
    ずのうちに私たちの思考や価値観は影響を受けてしまうことになる。新聞の時
    代からテレビの時代(映像の時代)、そしてここ十年の間に着実にインター
    ネットの時代へのシフトが進行している。インターネット絡みのベンチャー企
    業がこれからの時代の道しるべのように思われてしまうことも、ひょっとする
    と無意識のうちに私たちの中に刷り込まれてしまった価値観の一つなのかもし
    れない。
     だが、パソコン通信の黎明期から「情報社会」のあり方、匿名通信コミュニ
    ティーと人格攻撃の混沌と混乱をいやというほど見てきた一人として、そうし
    た情報社会のカオスに免疫を持たない人たちに伝えておきたいことを僕なりに
    述べておこうと思う。「虚実をもって知れ、作ることの意味を」。
     僕たちがパソコン通信という情報インフラの登場によって味わったことは、
    伝えたい気持ちや個性を狭い現実社会から、仮想コミュニティに発信できるこ
    との喜びだったかもしれない。理解してもらえる、話を聞いてもらえる、これ
    が映像の時代、受け身一方の情報社会にとって、ある意味で救いであり、そし
    て無限の可能性を秘めたものであることへの淡い期待につながっていたという
    ことだ。とりわけ、そうした可能性に目敏く反応した人間たちが比較的多く集
    まっていた黎明期のパソコン通信期、今から十数年前には、かつて「理想社
    会」に熱論を交わし合った学生たちのように、「情報と社会」についての話題
    が議論としてよく登場していたものだ。懐かしくも若き日々、閉じこめられた
    個の発露の場が双方向通信というメディアの登場によって、堰を切ったように
    電脳空間を駆けめぐった時代。ところが、やがて通信人口が倍増を繰り返して
    いくうちに、仮想空間の個の存在であるがゆえの光と影が見え始めるように
    なっていく。個の発露は、やがて現実での会話では到底起こり得ないような攻
    撃的性格の登場を招いていった。パソコン通信に「バトル」という言葉が頻繁
    に使われるようになり、そこに攻撃を受ける者、仕掛ける者、それを傍観する
    聴衆という構図の劇場化が起こってしまった。匿名性を最大限に悪用した人格
    攻撃、誰もが情報発信者であり、誰もが情報受信者であったはずの双方向通信
    のコミュニティが、真に理解しあえる仲間たち、そうではない人間の色分けを
    より鮮明につきつけてくるようになった。そして、パソコン通信にこれまでな
    かった人間関係や個性の発露を期待していた人たちが、一人、また一人とオン
    ラインネットワークから去っていった。
     かつて、パソコン通信でやり取りをしていた仲間たち、いつの間にか音信が
    途絶えてしまった仲間たちに、最近、インターネットのホームページで再会す
    る機会が多くなった。そんなかつての電子友人たちに出会うたびに、毎夜、深
    夜まで「双方向通信」への夢を語り合っていた十数年前を懐かしく思い出して
    しまう。「情報化社会」と「情報社会化」の違い、「情報の確度と信頼の意
    味」、自分の今の職業などすっかり忘れて、ひょっとすると「インターネット
    時代の虚と実」について語り合っていたのではなかったか。今にして感じる熱
    き議論の日々である。「情報化社会」とは、情報が文字通り「化ける」社会で
    はないか、双方向通信時代の真価は「思いやり」にこそ求められるべきもの
    だ。そんなにわか哲学者たちが、本業の疲れを忘れて毎夜、キーボードを打ち
    交わしていたものは、ひよっとすると「起こって欲しくない」電脳空間がもた
    らす社会の予言だったかもれない。
     そんな僕も、今はインターネットを媒体とするコミニュティでこうして文章
    を書いている。あくせくと作物と土と天候に向き合いながら汗する毎日は以前
    と同じ、いや、歳をとった分、しんどくなった気がしないでもない。その一方
    で、パソコン通信時代では為し得なかったワールドワイドな情報収集環境と人
    脈を得ることができるようになったことが大きな変化となっている。若気の至
    りで、「都市と農村の信頼関係」などという雲をつかむような話に真顔で取り
    組むこともしなくなったし、「オンラインネットワーク論」を情熱的に語るこ
    ともなくなった。「食と農」というライフワークの現在形は、環境ホルモン汚
    染とその影響という、より切実な現実への対処の姿にたどり着いている。
     「温故知新」、パソコン通信時代も座右の銘としてきた言葉だが、温める故
    を持たないで「新」を知ったつもりになること、これは免疫がないばかりに病
    原体に感染し、重篤な症状に陥ってしまうことの逆説でもある。インターネッ
    トの家電化という状況も、双方向通信社会への夢と挫折を味わってきた人たち
    とそれを知らずに今を迎えている人たちとでは、たぶん受けとめ方も違うので
    はないかと思うのだ。もちろん、「免疫」にも程度の差があるように、それを
    受けとめる側にだって百八十度の開きはあっても不思議ではないけれども。た
    だ、インターネットという言葉の響きに、何かしら虚々実々めいたものを感じ
    る感性、きっと同輩の中には多いと思うのだ。ベンチャーとインターネットが
    脚光を浴びようとも、人間社会の土台となる「ものを作ること」「ものを使う
    こと」を離れて、「金」だけが移動して回ることなどあり得ない。「金」は社
    会にとってのしくみでこそあれ、社会の目的ではありえない。仕事に汗する現
    実と電気信号が飛び交う中から生じる「金」、それが等価であるがごとく感じ
    られてしまう意識が知らぬ間に刷り込まれてきてはいまいか。「情報が化ける
    社会」についての議論の日々が、「インターネットの虚と実」をより現実味を
    もって語りかけてくるような気がするのである。
     年末テレビで、エボラ出血熱を題材にした「アウトブレイク」という映画を
    やっていた。あの中で、病原ウィルスの汚染された町の存在を情報メディアが
    伝えるか伝えないか、米軍の生物化学兵器開発とその隠蔽という物語設定でも
    汚染された町に爆弾を投下する権限を持つ大統領にそれが伝えられる、伝えら
    れない、が物語の横糸として作られていた。もちろん、キーパースンが隠蔽を
    画策する軍の幹部に命がけで立ち向かっていき、愛する妻を救おうとするのが
    この映画の見所であることは言うまでもない。もたらさせる「情報」の真偽は
    一部の人間の手によっていとも容易く改ざんされてしまうものかもしれない。
    「バーチャル」への依存度が高まれば高まるほど、そうした「虚」が付け入る
    頻度も大きくなっていく。最後の砦は、「信頼」の絆の太さと「思いやり」な
    のかもしれない。
     土と作物と天候が相手の僕の仕事は、インターネットでの金融商品トレード
    で利ざやを稼ぐような経済行為とは、およそかけ離れたところにある。太陽の
    恵みによって収穫物をいただいて、それで日々の糧を得ている身からすれば、
    インターネットビジネスがこれからの日本の経済を支えるという発想は、どう
    も「虚と実」の判断能力に問題を抱えているような気がしてならないのだ。
    「虚と実」の判断能力を培う生育環境に問題があるからこそ、フライトシュミ
    レーションゲームでできた橋の下くぐりを機長を殺してまでやってみたい若者
    が生まれてくるのではないだろうか。小中学生たちのゲーム感覚の猟奇的殺人
    を生み出す土壌は、果たしてインターネットの時代と無関係と言えるだろう
    か。我田引水ではないけれども、内分泌撹乱物質への曝露環境が、胎児の神経
    系の発達に不可逆的影響を与えてしまうために、やがて成長していく段階で知
    能発達の低下や行動異常をもたらすという最近の研究も気がかりだ。もちろ
    ん、こうした最新情報をインターネットから得ている身としては、これが「虚
    実」の実の部分であって欲しいと願わずにはいられないのだが。幸いにして、
    インターネットを利用する人の中には、こうした問題について相互に情報の検
    証をしあえる人たちの輪も存在する。インターネットは情報インフラ、それを
    活かすも殺すも使う側次第であることは間違いない。珠玉混交、現実と虚構の
    違いを見分けるには、自らが真実に接する機会を意識して重ねることが何より
    必要なのかもしれない。四十年も前に、化学物質の汚染問題に警鐘を鳴らした
    レイチェル・カーソン女史の遺稿「センス・オブ・ワンダー」、それは生涯消
    えることのない神秘さや不思議さに目を見はる感性を子供たちの中に育ててや
    ることの大切さだった。そんな感性を与えてやることが大人の務めであり、そ
    して「虚と実」が混在する時代に生きていくための何よりの贈り物。荒れる子
    供たちを前に、私たちはどれだけ「センス・オブ・ワンダー」を育んでやって
    いるだろうか。時代が経過しても色あせないもの、レイチェル・カーソン女史
    の遺言もまたしかりと感じるこの頃である。 
                     COPY RIGHT 1999    Seiji.Hotta
    

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