4.2アイヌ文化教育をどのように位置づけるか [目次へ]

   〜アイヌについての教育の歴史をふりかえって〜


 


4.2.1 はじめに
  町内の社会科部会で話し合いが行われたときに、今回のアイヌ文化の学習を社会科のどういった目的に位置づけてとりあげていったらいいかということが、話し合われていました。

 それで、私達がどのような地点にたっているのか展望するために、アイヌについての教育について歴史的な経緯について大まかにまとめておくことが大切だと思いますので、私なりに簡単にまとめておきたいと思います。

 


4.2.2 戦前のアイヌ子弟に対する教育
 アイヌ民族に対する戦前の教育史として最近まとめられた通史小川正人著『近代アイヌ教育制度史研究』をながめると、同化政策の一貫としてとして学校教育が大きな役割を担ってきたことがしめされていますが、その歴史な経緯も単純なものではないことがわかります。日高管内で編纂された『日高教育史戦前編』にも戦前のアイヌ民族に対する同化政策としての教育について記されています。そこを読むとアイヌ子弟からアイヌの文化や生活習慣を奪って日本人化するためにつくられた学校いわゆる「旧土人学校」でどのような教科が教えられていたのかを知ることができます。

 当時はアイヌの伝統的な生活がまだ色濃く存続していた時代であったので、今日のように教育でとりたててアイヌ文化をとりあげる必要はなかったであろうし、また、学校教育の目的としてそのようなことはまったく期待されていなかったようです。

 1890年代頃から和人と別な学校でアイヌの人たちは教えられていわけですが、1930年代に同化政策の一定の成果をみたということでアイヌ学校は廃止され和人の学校と統合されていますが、現実には財政的な問題もあって廃止されたようです。

 その当時小学校に通っていたというお年寄りに、そのときの学校での様子(学校の勉強のことやアイヌいじめの話など)をきくことができます(今回授業でお世話になった遠山先生もその一人です)。

 


4.2.3 戦後のアイヌ文化教育の流れ
 戦後の様子について『日高教育史戦前編』の続編である『日高教育史戦後編』を眺めてみると、皆無に近いほどアイヌに関する記述が見あたらりません。戦後編で見る限り、教育行政的なレベルでも学校現場でもとりたてて行われてはいなかったようで、アイヌ子弟に対する特別な教育といった内容のものは大きな教育研究の流れとしては行われなかったようです。

 様似でも岡田のアイヌ学校が1930年代で一定の成果をみたということで廃止されていますが、様似民族文化保存会の熊谷カネさんの話では戦後間もない頃、様似でもアイヌ語しか話さない大人の人がいたということですから今以上に文化的には残っていたようです。

 熊谷カネさんが小学校5年生のときの話をしてくださったことがあります。様似小学校の先生全員(当時の校長は加納親章氏)で熊谷さんの父親のところにアイヌ文化の話をききにきていたそうで、熊谷さんは同級生であった校長先生の息子さんに「おまえのお父さん、立派な人なんだってな」と尊敬の念をもたれていたということで、アイヌということで馬鹿にされることがあまりなかったということです。50年ほど前には本校の教員にも全体で前向きに学んでいこうという姿勢があったようです(その頃、アイヌ言語学者知里真志保氏の奥さんになられた、アイヌ口承文芸の研究者である萩中美枝さんも本校で教鞭をとられていました)。

 1960年代以降の学校での教育実践について米田優子氏が『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』でまとめていますので、それをみて行きたいと思います。

 


4.2.4 1960年代の学校教育の中で
 1960年代後半以降、アイヌに関する教育は、アイヌの子弟に「誇りをもたせる」ことを目指してきたようです。

 日高でも1966年に 歴史教育者協議会の日高支部でアイヌの歴史を学校教育の中でとりあげることが確認されています。同年「北海道ウタリと教育を守る会」が結成され、運動が行われていたようです。当時のアイヌに関する教育の中心課題を差別の解消にもとめようとする傾向がつよかったが、浦河高等学校の伊藤明氏は三重教研で「北海道各地の教育による闘いの中で民族教育が正しくなされることが大切であり、アイヌ教育を考えることなしに北海道の民主教育の確立はない」と発表しています。戦後、アイヌのことを学校教育で取扱おうという動きは、戦後民主主義教育運動の中に位置づけることができるようです。

 1969年には、北海道歴史教育者協議会でアイヌ問題を民族なのか、階級としてとらえるかが問われはじめ、教研集会では、アイヌ問題を北海道における労働者階級の問題として位置づけることを課題とするとともに、部落解放運動に学びながら開放の道すじを明らかにすることが共通認識されていたようです。

 


4.2.5 1960年代の授業で〜差別へ目をむける〜
 綴り方教育などの実践が行われていたが、差別の実態に目を向けさせることを中心に授業は行われた。しかし、当のアイヌの子どもたちにとっては、このような教員の取り組みはむしろ苦痛を伴うものとなっていたようです。

 平取町立貫気別中学校の中村節郎氏が1971年の合同教研資料で「私達の取り組みは、単に差別を掘り起こしさえすればよいものではない。子どもたちに展望、確信をもたせないで終わらしてしまうならば、逆に私達は無責任のそしりをまぬがれないであろう」と述べています。

 これを見るかぎり気まずい雰囲気で授業は行われていたようです。

 


4.2.6 1970年代以降の学校教育で
 1970年代にアイヌが「民族」の概念でとらえられるようになったことを契機として、アイヌの民族教育的役割も期待されるようになってきました。

 1974年に日本共産党、日本社会党のアイヌの民族権利の確立を政策としてうちだされた。その後1976教育運動の研究大会でも「アイヌ系日本人」から「アイヌ民族」と呼び名がかわっていくように、アイヌの問題は階級闘争の一課題から日本国内の少数民族の問題へとかわっていったようです。そのことによって、アイヌの伝統的生活文化に注目と関心を集めていくことになった。

1970年代以降の環境保護思想に対する社会的関心とあいまって、アイヌの伝統的世界観が注目を集めるようにもなってきました。この当時から、アイヌ文化に学ぶという視点が強調されるようになってきました。

 その後、アイヌに対する誤った理解をただすために和人の子どもたちに対する教育の必要性が唱えられたようです。

 また、教材化が試みられる実践が蓄積される課程で、副読本に目が向けられ、その記述の問題がしてきされたことが契機となり、教育行政レベルの動きへとつながっていったようです。1973年には北海道教育委員会で研究協議会が組織されたり、1982年の札幌市教育委員会の教育課程編成などの動きがみられます。

 アイヌに関する教育が学校教育におけるカリキュラムに組み込まれる中で、数の上では圧倒的に多い和人の子どもたちが、アイヌについて学習するという状況が生まれてきた。アイヌに関する教育の必然性と価値を問う過程で、環境教育と異文化教育と結び付けた「アイヌ文化」の学習がとりわけ重要視されるようになってしまいました。

 様似小学校での松本先生の実践もこのような流れの中にあると思いますし、様似の社会科部会での議論もここと重なってくるところだと思います。

 


4.2.7 1970年代以降の授業〜文化への注目〜
  1970年代以降は、アイヌ民族のもつ文化風俗習慣等を通し、その民族のすばらしさがでる授業が目指されているようです。

 白老の小学校の小松博子氏が、<北海道史とりわけアイヌ史はやりくいもので、いつの間にかアイヌ哀亡史になり、胸を重たくするような気がする。それにくらべると「文化」は、どの子も表情が和らぎ、自らもっと知りたい、もっとやりたいと前進してくるようなプラス面がたくさんある>と述べています。

 アイヌ文化教育の実践で有名な千歳市立末広小学校の佐々木博司氏も、<生活に身近なところから取り扱っていくこと><本物のアイヌの文化を取り扱うこと>を強調されています。

 


4.2.8 アイヌ文化教育の問題点
  以上のように簡単にアイヌに関する教育の流れを見てきましたが、その中でアイヌ文化教育が注目されてきていることがわかります。

 今年、アイヌ文化振興法(「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」)が成立しました。これから学校にも教育行政機関からアイヌ文化を扱うように要請が降りてくることでしょう。平取町では学校も教育委員会も熱心に取り組んでいるということですが、それ以外の町でも考えて行かなくてはならない問題でしょう。

 また、二風谷ダム裁判で「先住民族」の存在が確認されていますが、「子どもの権利条約」の第30条との関わりを今まで以上に意識させるものであります。

「子どもの権利条約」の第30条

「種族的、宗教的若しくは言語的少数民族又は原住民である者が存在する国において、当該少数民族に属し又は原住民である児童は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」

     (児童の権利に関する条約=政府訳)

 改めて地元のアイヌの文化について考えていかなければならない時期にさしかかっています。アイヌ文化を扱う上での問題点について見ておくことにしたい。

 米田氏によると、アイヌのことがよくわからないという状況は、単に教師の認識不足あるいは「教科書の中に現代のアイヌの姿が描かれていない」という点だけに原因があるのではないということです。

 それは、一つには、アイヌに関する教育の多くの部分が、かつてのアイヌ社会における「アイヌ文化」についての学習で占められていること、もう一つは、しかもその際、アイヌの世界観や生活様式の描き方に過度のエコロジカルな精神性が加味され、子どもたちに強いインパクトを与えていること、だということです。

 さらに、近年「多文化教育」の観点からアイヌに関する教育をとらえられるという試みが意欲的な教員の間で注目されてきています。多文化主義的感性を育てることは、今日の日本の教育における重要な課題であるが、かつての「アイヌ文化」だけを「多文化教育」の中に安易に位置づけることは、異文化に対する誤った認識を生む原因になりかねないことも指摘しています。

 この点は様似の副読本での扱われ方にもいえる部分ですし、様似町の社会科部会の今後の課題となる部分です。

 


4.2.9 おわりに
 川村シンリツエオリパックアイヌさん(川村アイヌ記念館館長・旭川アイヌ語教室運営委員長)が「アイヌに関して系統的に教えているのは、北海道でも数えるほどしかいない教師の個人的努力に限られている。その教師も学校内では孤立していたり、児童・生徒にまで「先生はアイヌにこだわりすぎている」とさえ皮肉られているのが実態である。」と述べているのを読みました。

 このようなアイヌについての教育実践は志をもった点でしか存在してこなかったように思われます。過去をふりかえりながら、過去の経緯を反省しつつ、このような数少ない実践研究を点を線にしていくのが私達の課題であるように思われます。


引用文献

小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』北海道大学図書刊行会1997

日高教育史編集委員会編『日高教育史(戦前編)』平成2

日高教育史編集委員会編『日高教育史(戦後編)』平成4

『別冊宝島EX アイヌの本』宝島社 1993

米田優子「学校教育における「アイヌ文化」の教材化の問題点についてー一九六0年代後半以降の教育実践資料の整理・分析を中心として」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』二号、1997

『先住民族の10年newsNo37』先住民の10年市民連絡会1997



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