昔あったアイヌのための特設の小学校
これは様似小学校開校110周年記念事業の記念誌に掲載されたものの抜粋です。

二つあった岡田小学校(道立岡田小学校について)

 

1.はじめに

 

 30年前に様似小学校に統合された学校の中に、岡田小学校があります。実は同じ名前の学校がもう一つありました。もう一つの岡田小学校は、今ではそのほとんどが分からなくなっています。この110周年を機にその学校の存在に目を向けてみましょう。

 

2.植民地政策の中で

 

 明治政府は、北海道の植民地化を押し進める傍ら、アイヌ民族の言語や風習や伝統文化を捨てさせ、日本人に同化させるための教育を行いました。明治5年の学制が出された頃より、東京の開拓使仮学校、強制移住させた樺太アイヌの教育所、宣教師の開いた教会の学校が作られましたが、1899年の「旧土人学校保護法」に基づき国費によってアイヌ学校が全道に25校設立されました。アイヌ児童だけを分離して、義務教育、忠君愛国を教育の柱とした皇民化教育が行われました。(『アイヌ民族の歴史と文化〜教育指導の手引』:P.75)

 一般に、これを「アイヌ学校」と呼んだり、「旧土人学校」と呼んだりしていました。全道に25校あったうちの一つがこの道立の岡田小学校でした(『近代アイヌ教育制度史研究』:P.8)。

 

3.岡田小学校について

大正13年新しくなった岡田小学校(写真提供:熊崎直良氏)
アイヌの人たちの学校(大正15年3月末) 『日高教育史(上巻)』P.226

アイヌの人たちの子弟就学状況(大正15年の学校も含む)『日高教育史(上巻)』P.226

 

 この学校に関する写真も記録も様似小学校にはほとんど残っていません。岡二尋常小学校の沿革誌に、岡二尋常小学校が明治41年3月までは2学級編成だったのが、新年度の4月から1学級編成となったことと、4月「岡田尋常小学校」新設し、「旧土人学校学童分離」となっていることから、『様似町史』では学校創立の時期を明治41年4月1日と推定しています(『様似町史』:P.495)。

 日高の公教育の足跡をたどった『日高教育史』によれば、「明治39年、岡田に道直轄として、アイヌの子弟のみを収容する小学校が創立され、明治41年4月1日、道立岡田尋常小学校として開設された」(『日高教育史』(上巻):P.179)とあり、39年からアイヌ子弟に対する特別な教育が行われていたことをうかがさせる記述がありますが、その裏付けとなる資料は明記されていません。

 校舎は岡田シャモマナイに接続するムナシペの小高い場所(今の岡田の共同墓地のそば)に新築され、1学級編成の小学校でした(『様似町史』:P.495)。明治41年より昭和7年までの間、1学級編成のままでした。(『日高教育史』(上巻):P.200、『様似町史』:P.495)。

 岡田小学校の歴史について簡単にまとめると、明治41年に村立岡二小学校から分離されて、道立岡田小学校がつくられ、昭和7年に廃校となり、岡二小学校や様似小学校に吸収されたということです(吸収については、町内の北海道ウタリ協会のお年寄りの話にもとづく)。

         

4.アイヌ学校での学習活動

 

 この学校では、次のような学習活動が行われていました。1916年(大正5年)、庁令86号を以て、アイヌの子弟に対する特別なカリキュラム「旧土人教育規程」が公布されました。アイヌの人たちの学校の教育内容も、修業年限を4年とし、就学年齢のはじまりを7才(一般は6才)よりとしました。学校では主に修身、国語(日本語)、算術、体操を教え、実業(農業、裁縫)をも教えることとしました。一方、家事手伝いを認め、週18時間まで、授業時間を減らすことができるようにしました。しかし、この簡略を旨とした教育、特に、地理、歴史、理科をのぞいた措置は、アイヌの人たちのみならず教師側からも反対があり、大正11年より本規程を破棄して、他の子どもたちと同じ一般法によることになりました(『日高教育史』(上巻):P.226)。就学年限は6カ年とし、就学年齢も7才から6才となり、地理、日本歴史、理科、図工も加わりました。勿論、アイヌ語などアイヌに関することは学習内容として盛り込まれてはいませんでした。

 

5.在籍者・卒業生・教職員

 

 現在、岡田小学校の在籍児童・卒業生名簿などは残っておりません。わずかに児童数がわかるだけです。明治41年開校当時、男子13名、女子15名、計28名の児童がいたことが、記録されています(『アイヌ人物傳』:P.198)。また、1926年(大正15年)の統計では児童数29名の記録が残っています(『日高教育史』(上巻)、図表参照)。その他には、岡田小学校の熊崎直平先生の遺族のもとに卒業記念写真が数枚残されており、当時の様子を知ることができます。

 在職されていた教職員は、研究者の『北海之教育附録』の文献調査によると表のようになっています。

 

6.熊崎直平先生

 

 次に、長年在職されていた熊崎直平先生の伝記(『アイヌ人物傳』)から、当時の様子を見てみましょう。

 明治の終わり頃から様似で先生をされていた熊崎直平先生は、アイヌ学校に転任希望し、大正2年3月岡田小学校に着任しました。

 明治41年当時29人の児童を一つの教室に収容して、教育が行われました。この学校では、先生はただ一人、それに先生の奥さんが裁縫を教えることが多かったようで、熊崎先生の場合も同様でした。昭和7年3月、廃校になるまで20ヶ年ほどの長い間、このような形で熊崎先生夫妻は教職を務められました。

 道立図書館にこの熊崎先生が書き残した岡田の学校の教育方針が蔵書として保管されています。それにもあるように、熊崎先生の教育活動は学校教育という範囲に留まらなかったようで、社会教育、家庭教育にまでおよんでいたようです。

 「冬期間は男子に夜学会を、女子に家事講習会を興し、校内には風呂場を設けて・・・、理髪会を開いて、・・・」といろいろ行っています。その他にも、「給与地及び所有地の整理」「家屋の改善」「戸籍の整理」「納税の完納」「貯蓄の励行」といったことまでも行いました。また、「旧土人報公会」という会を組織し、先生自ら会長となって、その運営に当たったり、「信用購買組合を起こして金融貯金機関とし」ました。

 熊崎先生のように旧土人学校に長く在職された方は少なかったようで、そのため、アイヌ学校の教育界でも「重きを為した」ようです。全道旧土人小学校校長会議に校長代理として出席、道庁の諮問に応じ、アイヌの就学年齢を6才からにするか7才にするかついて吉田巌、ジョン・バチェラーらと議論を交わしたという逸話も残っています。(『アイヌ人物伝』P.201-202)

 

7.おわりに

 

 さて、このように岡田の小学校のことを振り返ってみたわけですが、これには二つの意義があるように思います。一つには、様似小学校の統合の歴史を振り返り、歴史として残すということ、それと、もう一つは、これからに関わることです。これからの社会を考えると、今まで以上に国際化・多民族化が進んでいくことが予想されます。いろいろな人との関わりやそのような時代の学校教育の在り方を改めて見つめ直すよすがになればと思います。

 


引用参考文献
『北海之教育附録』(1907-1917)
田端博史・桑原真人監修『アイヌ民族の歴史と文化 〜教育指導の手引』(山川出版社)
小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』(北海道大 学図書刊行会)1997
様似町史編さん委員会編『様似町史』1992
様似町立様似小学校統合20周年開校100周年記念 事業協賛会編『記念誌悠久』1990
村上久吉『アイヌ人物傳』(平凡社)1942

                    (様似町立様似小学校教諭 小松和弘)