それいけ専業主婦


 少し前の話ですが、「くたばれ専業主婦」という本を書いたライターの石原里沙さんが「そんなに私が悪いのか」というテレビ番組に出演されてました。彼女の持論(であるらしい)「専業主婦は家畜」論を展開し、それに賛同する人、反対する人にゲストを分け、それぞれの立場の主婦も招いて対立の形で討論をする、という番組です。この方の著書はかなり前に図書館で借りてはきたものの、途中でイヤになって読むのをヤメてしまいました。表現があまりに不穏当で不愉快で、こんなの読んでられっか、という気分になってきたからです。いくら個人的な感情論であるとは言え、相手を挑発するような表現で物議をかもし、本を売って稼ごうとするさもしい魂胆のように思えました。もちろん「専業主婦は悪いか否か」などという議論は「お好み焼きとピザはどっちがおいしいか」なんつー議論のようなもので、多数決で決めでもしないかぎり結論など出るはずもありませんし、もちろん多数決で決めていい問題でもありません。

 しかしながら「結論の出ない議論」が無駄かというと、実はこれこそが「文化の源」でもあり、過激だろうが不愉快だろうが世間を敵に回そうが、彼女の「ひとつの話題を提供した」という功績は認めていいと思います。実際、私もこうして「専業主婦」と「仕事をする主婦」のことをちょっくら考えてみようという気になったわけですし。

 さて、最近の私はいよいよヒマになり、仕事再開を具体的に考え始めました。結婚前には動物病院で獣医をしていましたが、妊娠を期に専業主婦になり、気がつけば10年が経とうとしています。もちろんその間に「子供を産んである程度まで育てる」という一応の義務(なのかどうかわからないけど)は果たしましたが、今後、無限ループのような「家事」や、徐々につまらなくなるであろう「子育て」に生き甲斐を感じることができるのか、と自分自身に問いかければ、私の場合、答えはNOだと思います。家事を最小限しかしない私はヒマをもてあまして釣りをしたり、ピアノを弾いたり、ネットで遊んだりしていますが、そういう「遊び」も「仕事」があってこそ楽しめるのではないか、そういう気持ちが芽生えても来ました。

 ただ、北海道の田舎であれこれのんびり考えながら10年も暮らしていますと、「女性としての理想の生き方」について自分なりの意見も出来上がってきます。都会に住んでいたらおそらく見えてこなかったであろうそれは、「一生専業主婦」という女の生き方を肯定するものであります。

 この場合の「専業主婦」とは「外に働きに出てお金を稼ぐことのない妻」ということです。彼女はあまり難しいことは考えないしわかりません。目の前の「しなければいけないこと」を片づける、それで一日を終えています。避妊とか家族計画とか、そういうことにも無頓着で、子育てで忙しいのに出産後間髪入れずに妊娠したりします。他人の贅沢な暮らしを見てもそれは彼女にとって「ひとごと」であり、人をうらやむことなく自分の暮らしに満足しています。包容力のある夫に正しく尽くし、夫もそんな彼女に満足してせいいっぱい養っています。彼女は、子供が笑ったとか、夫が優しいとか、卵焼きがうまく出来たとか、そういう「ありふれたあたりまえのこと」に喜びを見いだす才能に恵まれています。あまり求めることがないので不満もなく、よっていつも心は穏やかです。ちょっと一息入れる時にはテレビを観ます。近所の奥さんとの立ち話もニコニコ笑って相槌を打っているだけで、自分の意見はないので言いません。子供の宿題を一緒に考えますが、中学生の問題はもうお手上げでなんの手助けにもなりません。子供の進学については夫に任せています。子供の成績表は見るだけでノーコメントです。子供が大きくなってくるとテレビの前に座っている時間が増えてきます。子供が結婚相手を連れてくれば「よろしくお願いします」と深々と頭を下げるだけです。孫と散歩をします。テレビを観ます。食事の支度をします。夫を看取ります。自分が具合悪くても、それを周りに言いません。おばあちゃんはいつもテレビを観ている、と孫に言われます。そしてある日、ついたままのテレビの前で意識を失って倒れ、そのまま病院で息を引き取ります。子供達は口々に言います。「お母さんはあれで幸せだったのだろうか?」と。

 今書いていて感動して泣けてきました(←バカ)。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の女性版をイメージしてましたが、ちょっと違いますかね?確かに「家畜」と言われればそうかもしれませんが、私は今、こういう生き方を本心から素晴らしいと思っています。さまざまな「欲」を持っているのが人間という動物ですが、時折そういう「欲」の希薄な、あるいは「欲」を超越した人がいて、やはりニコニコしながら上に述べた女性と似た一生を送ったりしています。日々淡々と、最小限の起伏の中で暮らす。「欲」のない専業主婦は一見家畜でも、実は尊敬に値する人物だと思います。だいたいこんな生活の出来る女性など、昔はともかく今の世の中いるものではありません。ここまで神々しい専業主婦であれば、誰も彼女の生き方を批判したりはしないでしょう。

 議論のターゲットにされるべきは「中途半端な欲」を追求しきれず、かといって捨てられもせず、家にいることで周りの人々に害(主に口害)を及ぼすような専業主婦でしょう。これは石原さんの表現を借りれば「家畜」というよりももはや「寄生虫」であると言えます。今の女性は主婦であれなんであれ、高いプライドを維持していることが多いように思うので、そうそうあからさまな根性ワルはいないのではないかと思いますが、「子供のため」とか言って自分の希望をぐいぐい押しつけたりするのは、押しつけてるヒマのある専業主婦の方が多いような気がします。私ももしかしたら「寄生虫」かもしれないと今すごく心配になってきました。とうちゃん、私に悪いところがあったら言ってね、直すから(←大嘘)。

 専業主婦でも働く主婦でも、自己完結していればそんなトラブルはないのでしょうが、専業主婦という人種は働く主婦よりも「くすぶりやすい」ようで、その「くすぶり」の産物である「イライラ」が身近にいる子供に向かったり、夫に向かったり、隣の働く主婦に向かったりしやすいのだと思います。よくある光景ですが、周りの人間にとっては真剣に迷惑な話なのですね。ですから「あそこの子はお母さんが働いているからしつけが行き届かない」などとしたり顔で的はずれな批判しているヒマがあるなら「アンタ、とりあえず働けば?」「働かないんだったら、せめて黙ってろ」と言いたくなる気持ちはごもっともだと思います。まあこの不況で働きたくても口がないとか、保育園の空きがない、というのも単なる言い訳とは限らないのでしょうけれど。

 しかし専業主婦で日中はヒマでも、うまい具合に酸素を取り込んで完全燃焼できていれば、それはそれで全く結構な話だと思います。自分が専業主婦でいられるだけの甲斐性のあるダンナを捕まえた、というのもその女性の人徳だと思いますし(私です)、とりあえず今は専業主婦だから、と誰もやりたがらないPTAの役員を快く引き受け(私です)、さらに町内会の仕事も引き受け(私です)、働くお母さんの子供を遅い時間まで預かったり(私です)、こりゃもうすげえ偉い、どこにこんな気のいい家畜がいるんじゃ、と思うのですが違いますか。そんな風に便利に使われて、働くお母さんの家が海外旅行に出かけたり家を新築したりした時にちょっと自分を振り返り、そういう愚鈍で善良な自分もステキだと思えれば完璧なのですが、なかなかそこまで突き抜けられるものでもありませんからやはり損な役回りが度々であればあるほど「引っかかり」は残りましょう。

 一応両者ともフォローしてみましたが、要するにこの議論の基本は最初から最後まで「感情論」だということです。ですからこれはどうしたって大人げないケンカになるわけですが、これほど娯楽に適した素材もなかったのではないか、と思います。専業主婦は「私の人生これでいいのか」と常に自分に問いかけ、働く主婦は「子供が寂しい思いをしてないか」と日々気にかけている。この議論はお互いがお互いの「地雷」を踏んでしまったことで、全員逆上したガチンコ議論になったように思えます。 だってこの番組とっても面白かったですもんね。

 まとまるはずのないテーマなので、予定通りまとまりませんでしたが、そういうわけで次はぜひ「さらしハゲVSカツラ」希望。これも「地雷踏み合い」の白熱したバトルが期待できますね。ああ、楽しみ。

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