バックナンバー


第100回(02.10.18)

 皆様こんにちは。「オカ船長」のあつよです。めでたく100回を迎えました「今日の常識」へようこそ。50回の時にはクイズをやったんでしたっけね。今回もなにか企画を立てたかったのですが、ちょっと間に合いませんで、また後日ということにしたいと思います。この不景気で在庫を抱えて困っている方がいらっしゃいましたらぜひ賞品を寄付してください。よろしくお願いします。

 先日一家で札幌に一泊してきました。夜はススキノに出て、日頃食べられない「都会ならでは」の美味しいものを食べ、ビールを飲んでホテルまで歩いて帰りましたが、ススキノというのは「ガイドブックに載っている食べ物やさん」と「別なガイドブックに載っている優良店」が平気で混在している町なんですね。子供を連れて歩くとちょっとばかし困ってしまう場所なんだなあ、というのがよくわかりました。4人の子供が全員ひとつの看板を異様なまでに凝視しつつ歩く光景、というのはなかなかに感動的なものですが、中には といった「一家全員で店の名前を連呼しつつ大爆笑」な看板もありまして、やはりダジャレをやらせたらエロ業界にかなわないなあ、とシャッポを脱いだ夜でもありました。ま、ススキノは「外来種」が繁殖していないだけ東京の繁華街よりはずっと安全な感じではありました。

 さて今回の「札幌行き」は珍しくダンナが「土日連休」を取ったのですぐさま計画したのですが、「札幌に一泊」という事になると、まずは「どこに泊まるか」「どこで夕飯を食べるか」「子供が寝てからどこのラーメン屋に行くか」「一日目と二日目の昼食はどこにするか」とたくさん「決めなければいけないこと」があるわけです。もちろんホテル以外は「行き当たりばったり」という作戦もアリなのですが、しょっちゅう「アヤシイ出張」で札幌に行くダンナと違い、繁華街で遊ぶことなど年に2回のオフ会くらい(←病んでます)、という私にとってはやはり「完璧かつ綿密な計画で臨みたい」という固い意志がありまして、さっそく「我が家のガイドブック総出動!」「じゃらんバックナンバー整列!」「ネット検索フル稼働!」で作戦を練り始めたのですが。

「情報というのは多ければいいというものではない」

 もうね、全然決まんないんです。「選ぶ」という作業はその「選択肢」の量に比例して難しくなっていくものなのでしょうが、札幌でビールを飲んでゴハンを食べる、ただそれだけの行動に膨大な数の選択肢が示されてしまう今の世の中。「情報に振り回される」というのはこういうことなんだなあ、とつくづく思いました。結局初日の昼は「生ラムジンギスカンと地ビール」夜は「香港屋台風中華と紹興酒」(←大当たりだった)夜中のラーメンは「ホテルから近い有名店」二日目の昼は「ハンバーガー」(←子供らに訊いたのが間違い)というスケジュールをこなし、ここ半月ぐらいのダイエットの効果を「無」にして帰りました。

 ラーメン屋にて。お運びさんが他の客の会計をしている間に我々のラーメンが出来上がったのですが、厨房で黙々とラーメンを作っていた「いかにも」という感じの無口な大将がささっとこちらに出てきて、みずからラーメンを運んで来てくれたのが印象に残りました。お運びさんの手が空くのを待っていたってほんの10秒くらいだったと思うのですが、やはりその「10秒」が許せないんでしょう。

「ラーメンは愛情である」

 細部にこだわり、手をかけて作った美味しいラーメンを最も美味しい状態で食べてもらいたい。そこには「自分のラーメンに対する愛情」と「客に対する愛情」が感じられました。支店をどんどん出している有名店も多いですが、やはりこういった「愛情」までフランチャイズ展開するのは難しいようで、ラーメン屋は特に支店ごとの味の差が激しいようです。中には「自分のラーメンだけ溺愛」して、客をラーメンの言いなりにするような店もありますが、いくら美味しくてもそんな店はまっぴらごめんだと思っております。で、今回のラーメンはもちろん大変美味しかったのですが、食べ始めて数分したら隣の席の客がタバコを吸い始めまして、せっかくのラーメンが台無し。こんなことは今までなかったのですが、おそらくダンナが吸わなくなったので私も煙に敏感になったのでしょう。「タバコを吸わない権利」を主張したくなるのも当然だなあ、と思いました。ま、酒の席ではまだ許せますけどね。

 今年も学芸会シーズンとなりました。保育所では長男が主役で「浦島太郎」をやることになりました。末っ子は「子ガメ」と「おばあさん」の2役。長女は動物劇で「ひつじ」、次女は「自動販売機5」だそうです。無機物かいな。衣装も「段ボール」だそうで。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第101回(02.11.25)

 おやいつの間に一ヶ月も。皆様こんにちは。「見た目はおばさん、頭脳は男子中学生」(注:事件は解決できません)のあつよです。今日の常識へようこそ。

 先日ダンナと長男が2人で群馬の実家に法事のために帰省したのですが、羽田に向かう飛行機の中での出来事。ボーズ頭の長男には頭部を守る目的で外出時はなるべく帽子をかぶらせています。もちろん巨人の野球帽です。いまどき珍しい巨人の野球帽をかぶった「日本の正しいガキ」である長男を見たスチュワーデスさんが、ダンナと長男にいい事を教えてくれたそうです。

「この飛行機に原監督と松井が乗っていますよ」

 札幌ドームでの日米野球の帰りだったそうです。長男にはこういう時のためにわざわざ巨人の野球帽をかぶらせているのですっ!(←さっきと言ってることが違いますよあつよさん)下着代わりのびろびろに伸びた55番のTシャツだって、こういう時のために着せているんです。先日見た「スーパーテレビ」によれば、原監督は決してサインを断らないとのこと。松井だって「巨人の野球帽をかぶった少年」にはいくら疲れていてもちょっとくらい笑顔を見せてくれるはず。ま、機内でくつろいでいる最中に「握手してください」というのはやはり気が引けますが、何てったってこっちは「巨人の野球帽をかぶった少年」という特権階級です。私だったら絶対にトイレを探すふりして前方のスーパーシートとの境目をウロウロしますし、それでダメなら降りる時に肩と肘と手首の関節が全部脱臼するくらい長男の手を引っぱって「ぜひとも握手を!(私と!)」と松井を探して人混みをかき分けまくったと思うのですが、もちろんウチのダンナはそんなことしないわけです。松井はもうメジャーに行ってしまうと言うのに「巨人の松井」はこれで最後なのに全くもう千載一遇のチャンスをもったいないったらぶつぶつぶつぶつ。

で、その晩ダンナへのイヤミを込めて長男に「松井と握手したかったねえええええ?」と言ったのですが、帰ってきた答えは、こともあろうに「誰それ?」でした。

「巨人の野球帽をかぶった少年本人が巨人ファンとは限らない」

足りてません。「洗脳」が全然足りてません。(激しく反省)

 さてすっかりご無沙汰しておりましたが、最近は毎晩のように外で用事があり、いろいろな人と関わり、いろいろな出来事を体験し、観察していますが、似たような出来事が重なり飽和状態になった時、ふと根本的な部分に考えが及ぶことがあります。最近私に訪れたのは、「楽しい思いをしたくて何かをしているのに、楽しくない時があるのはどうしてだろう?」というすっとぼけた疑問でした。時間もあり、衣食住にも困っていない今の私が自ら進んで何かをしようとするとき、その理由は「楽しそうだから、楽しめそうだから」という理由でしかありえません。しかし、それはもうごくごく当たり前のことですが、

「人生は楽しいことばかりではない」

というわけです。むろん、精神年齢が「中学生男子」であっても私は大人ですから、楽しいはずの場で、楽しくないことが起こっても、それはそれで「あたりまえのこと」として受け入れることが出来ますが、広い世の中にはその「原因」をこう結論づける人が少なくないようです。

「楽しくないのは“あの人”のせい」

 そう、確かに「事実関係」だけを考えれば、それは「あの人があそこであんな事を言ったから」とか「アイツがはっきり言わないから」とか「誰もヤツをとめなかったから」とか、そういう風に理由付けするしかない、ということもあるでしょう。事実、「人を傷つけるのが目的の発言や行動」を故意にする人というのはごく普通に世の中に存在していますし、また悪気なく言った一言が誰かのカンに触る、ということもよくあることだからです。しかしながら、こういう現象ひとつひとつを「誰かのせい」にしてしまう思考回路は、「幸せになりたくて生きているのに、どうして幸せじゃないのだろう?」という大変重大な疑問にさえ「誰かのせい」という答えを返してしまいかねません。

「自分の不幸を“誰かのせい”にしていると幸せは逃げてしまう」

 人間の「考え方」というのは明らかに「方向性」を持ち、それは対象がどんな人間や出来事であれほぼ同じ方角へ向かってしまうものです。「誰かのせい」という結論には物事を解決する力がまるでなく、ただただ同じ場所をひたすらぐるぐると回りつづけ、その「遠心力」で近づく幸せをすべて彼方へはじき返してしまう。本人は気付いていないでしょうが、なによりもその考え方そのものが「不幸」なのです。もちろん、納得いかない出来事を頭の中で「無害化」するためには「理由付け」が必要ですが、不愉快な出来事をすべて「誰かのせい」にしてしまう人というのは周囲に愚痴ることが多い。必然的に「愚痴られる人」というのも必要不可欠で、毎度毎度「はけ口」にされる人はたまったもんじゃない。こういう人ははっきりと「有害」なわけです。もしもこの文章を読んで(°o°)ハッ!!とした方がいらっしゃいましたら、「思考回路の組み直し」をご検討の上、ぜひとも実行していただきたいと思います。いっぺんに180度の変針は無理でも、「マイナーチェンジ」でしたらそれほど難しくないでしょう。「あの人のせい」を「あの人がB型のせい」(いつもすまん、B型)に変えただけでずいぶんと違うものです。悪いのは「あの人」ではなくて「B型」だということになるわけですから。 (重ね重ねすまん、B型)

 逆にすべてを「自分のせい」と考えてしまう人も時折お見受けしますが、これはこれでウザい。ましかし、第三者にそれほど迷惑が及ばない分まだつき合いやすいと思います。こういう人はいつも「落ち込み気味」なので、家族は迷惑かも知れませんけどね。

 さてところで、私が「このテの有害な人」をどう消化しているのか、ご参考までにお教えしましょう。私は基本的に誰かを嫌ったりしたくない「いい子ちゃん」なので、1度や2度では「疲れてるんだな」とか「よっぽど頭に来てるんだな」と好意的に解釈しますが、いいかげん続いてイヤになったとき、私は、

「この人には“動物霊”が憑いている」

と思うことにしています。延々と続く愚痴を聞き流しながら(キツネ・・・いや、やっぱり凶暴な犬か?)などと「憑いている動物」を推測するのです。これはなかなか楽しくさえあるのでお勧めします。「困ったちゃん」に迷惑している人はぜひともお試し下さい。

 話は変わりますが、この冬子供らと一緒にスノ〜ボ〜ド(←ちゃろん日記風)を始めることにいたしました。年喰ってからスノ〜ボ〜ドを始めて、面白い、すっかりハマった、やっぱりやめた、怪我をした、頭打って死んじゃった、という方、ぜひともBBSにてアドバイスお願いいたします。ちなみにアイススケートは得意、スキーは転ばずに滑れる程度です。よろしくお願いいたします。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第102回(02.12.16)

 皆様こんにちは。年の瀬が迫ってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。相次ぐ年末の会議、クリスチャンでもないのにクリスマス会の準備、そしてあちこちで忘年会。ああああ年賀状。誰しも忙しい時に限って「読書熱」とか「ゲーム熱」が出るものですが、私も例に漏れず、窓拭きとか年末調整とか更新とか借りっぱなしのハリー・ポッターなどを後回しにし、なぜかスーパーファミコンの「ドンキーコング3 謎のクレミス島」をわざわざ借りてきまして、ヒマをみては着々と進めたりしております。今「50%」まで来ました。あと半分。あー忙しい。

 そんなくそ忙しい最中、14、15とルスツに行きまして、若い人たちに混ざってスノーボードを教わってきました。経験者の皆さんは口を揃えて「一日で結構滑れるようになる」とおっしゃっておりましたが、確かにその通り、あっけないほど簡単に「とりあえず滑って降りてこられるように」はなりました。

「人間の体は自然とバランスを取るように出来ている」

 とりあえず私は三半規管に謝りたいと思いました。今までキミを軽んじて済まなかった、と。おわびにこれからは耳掃除の回数を増やします、と。雪の斜面で、両足を固定した板の片側のエッジだけに頼って、それで人間立っていられるのだから驚きます。私は「ウンコ座りが出来ないヤツ」なので、立ち上がるのに少し苦労しましたが、その後は若い連中に負けることなく!(←ここ、試験に出ます)、最後までレッスンについていくことが出来ました。いっぱい転び、2度ほどハデにもんどりうちましたが、雪質がいいのと、お尻と膝と頭にサポーターをしていたので、まるで痛くないのもラッキーでした。ただ、ほとんど止まった状態でしりもちを着いた時、本当にどうということのない状態で手を着いて親指を「突き指」しまして、「手首の骨折が多い」というのを実感しました。見てるとみんな転ぶときに手を着いてましたもんね。ま、次回は「ママさんバレー生命」を絶たれないように、指と手首にテーピングをして臨むことにいたしましょう。

 今回のスキー旅行では、初日の午後から私と子供全員スクールに入る予定でいたのですが、下2人の「キッズスキースクール」が満員だったので、上2人だけ先にボードレッスンを受けさせ、ダンナが長男、私は末っ子を受け持ち、それぞれスキーの基本を教えました。いきなり末っ子を抱えて斜面をどんどん登り、直滑降→ハの字ストップから教える私に対し、ダンナは「板の担ぎ方」「板の置き方」「板の履き方」「斜面の登り方」などから教えていました。

「夫婦というのは対照的である」

 末っ子の楽しそうな顔と長男のつまんなそうな顔を見比べつつしみじみと実感いたしましたが、「似たもの夫婦」という常識もあり、こっちはこっちで頷けるのですから不思議。我が夫婦の場合、軽率で行動的な私に対し、ダンナは何をするにもよく考えるし慎重です。しかし金銭感覚とか物事の割り切り方とか、そういうところは似ているなあとよく思います。しばらくこのあたりを考えてみましたが、きっとこういうことなんじゃないかなあ、と思いました。

「似ていなければ結婚できない。しかし対照的でなければそれを維持していけない」

 まるで価値観のかみ合わない相手とは結婚どころか、お付き合いもしないでしょうから、結婚までたどり着いた2人には、やはりどこかしら「似ている」ところがあるはずです。しかしながら人間というのは誰しもが「不完全な存在」。まっとうな方向に進みたければ、常に上下左右に逸れようとするベクトルを、反対方向へ引っ張る「軌道修正のための力」が必要になってくるのでしょう。たとえば、ダンナはギャンブルをライフワークとしています。結婚前は私もギャンブルが大好きで、そういう「趣味の一致」がダンナとつき合うきっかけでした。しかし結婚後、私はほとんどギャンブルをしなくなりました。夫婦2人でギャンブルをしていたら破滅するな、と意識して思ったわけではなく、なんとなく熱が醒めてしまったのです。

「夫婦も、自然とバランスを取るように出来ている」

 ダンナがだらしなくて困る、と言う人。それはあなたが「しっかりし過ぎているから」かも知れません。結婚前は相手と趣味が合って楽しかったのに、結婚後は徐々に話が合わなくなってしまったという人。それでこそ「順調な結婚生活」と言えるのかも知れません。もちろん、どんな2人でもバランスを取っていけるというわけではなく、別れてしまう人もたくさんいることを考えると、「結婚生活の三半規管」「人生の三半規管」にもそれぞれ機能の差があるのでしょう。

 似たような話ですが、子供の非行というのも「家族のバランスを保つため」なのだという説があります。夫婦仲が悪い時、子供は自分が問題を起こすことで夫婦別れを阻止しようとしているのだ、と。その証拠に、夫婦仲が回復すれば、子供の非行はおさまるのだそうです。

 さて、今回は実にうまいことまとまって満足なのですが、少し前にBBSの方で「次回の常識は“自分の事をどう呼ぶか”というテーマで」と約束していたのです。これは以前から興味があったテーマでして、少々調べたい部分もあったりしたのですが、あいにくと忙しい毎日だったので、また後日、いえ、あの、ちゃんと約束は守りますので、ごめんなさい。あーでもハリー・ポッターが先だな。それでは、今日はこのへんで。次回をお楽しみに。


第103回(03.1.23)

 とっくの昔に明けましておめでとうございます。ご無沙汰してしまいましたが本年もよろしくお願いいたします。新年早々、DK3を攻略本なしで103%クリアし、年末に始めたスノーボードも逆エッジぶっとび転倒の恐ろしさにくじけそうになりつつ、リフト乗り場のおじさんにまで励まされながら、少しずつではありますが上達してきました。ちなみに一緒に始めた長女と次女はもうスイスイ滑ってまして「お母さんのこと待ってなくてもいい?」とか言われちゃってます。やっぱり子供にはかなわないナア。(くそう今に見てろよ)

 正月明けてから東京と群馬に帰省し、「三鷹の森ジブリ美術館」にみんなで行きました「メイとこねこバス」はとっても面白かったです。長女がネコバスに入らないと言うので、あーもうお姉ちゃんなんだなあ、としみじみ。それなら代わりに私が とも思いましたが。帰り際になんと北海道の知り合いに遭ってしまいました。偶然にも程があるというかなんというか。これで今年の運?を使い果たしてなければいいんですけどね。

 さて今回は昨年からお約束しておりました「自分のことをどう称するか」というテーマでお送りしたいと思います。このテーマは「最近の子供は自分のことを“わたし”“ボク”と言わないなあ」と妙な違和感を感じた数年前から暖めていたものでして、その後なんかの本に「普遍的な一人称を使うようになるのは人間として非常に大切な成長の証である」とかなんとか書いてあるのを読み、私の感じた疑問はやはり正しいのだなあ、と確信したものの、どこを切ってどう詰めていけばいいものかわからずほったらかしていたものです。我が子にも「“わたし”と言え!」とたびたび指導しておりますが、「みんなそうだから」という理由でまるで改善する気がないようです。ネコバスには入らないクセに。かろうじて長男だけは「てっちゃん」(←こりゃあんまりだし)から「ボク」へ変わろうとする意志が感じられるのがせめてもの救いです。皆様も感じておられるでしょうが、今は小学生のみならず、中高生でも自分を指す場合に名前やニックネームを使っている子が目立ちます。女子ならまだしも、男子でもたまにいるから驚いちゃいますよ、ホントに。時代の風潮と言ってしまえばそれまでですが、やはりこれはオカシイし、見た目以上にゆゆしき事態なのかもしれません。具体的に何がどう変なのか、これは非常に検証するのが難しく思えますが、うまくまとまるかどうか挑戦してみました。

 子供が育つ過程を身近で見ている親の方々はお分かりでしょうが、しゃべりだしていきなり自分のことを「ぼく」「わたし」という子供はいません。最初は「あーちゃん」とか「まーちゃん」とか、周囲の人間が自分を呼ぶのと同じ名前で呼びます。周囲の大人が自分を「○○ちゃん」と呼ぶ、だから私は「○○ちゃん」なんだ、と要するに自分を「周りから見た自分」=「お父さんとお母さんの子供で、おじいちゃんとおばあちゃんの孫としての自分」として認識しているわけです。これはもちろん、幼児としては当然で自然なことです。いい年こいて自分のことを舌っ足らずな声で「○○ちゃんはねー」などと言っている阿呆女も同じだと考えると、彼女は年齢不相応に「わたしはわたし!」という自我に乏しく「仲間内での○○ちゃん」や「カレシにとっての○○ちゃん」、要するに「○○ちゃん」というキャラとして自分を認識してしまっているのかなあ、と思いました。仲間やカレシがいないと自分の存在が危うくなる。確かにそういう人も若い人に限らずいます。で、仲間以外の人にはちゃんと「わたし」と言えるのであれば、それはただちょっとみっともないだけで、人としては全く問題ないのかもしれません。

 ここで「ハタ」と気付きました。なんと私自身も「アタシ」「わたし」以外の呼称を用いているのです。そう、我が子に対しては自分のことを世間一般の慣習に従って「お母さん」と言っていました。もちろん私は確かに「お母さん」で、自分で自分を「あっちゃん」とか呼んでいるのとは大違いではありますが、ここでちょっとした実験を試みました。子供に対してもすべて「アタシ」で会話をするようにしてみたのです。驚いたことに、たったそれだけのことなのに予想外のインパクトが自分に返って来ました。

「妻であり母である前に、ひとりの人間である」

 「お母さんはね」と言う出だしで何かを言うする場合と、「アタシはね」と言う場合では、明らかにニュアンスが変わってしまうのです。「パパ」や「ママ」もぜひ試してみてください。言葉にするのは難しいのですが、「お母さん」という立場での発言のなんと楽なこと。「アタシ」で話し始めると子供と対等な、人間対人間という関係で話しているような感じがするし、自分の発言に「責任」が生ずるような気がして、ここ10年「お母さん」でいた私は結構なプレッシャーを感じました。学校の先生も自分のことを「先生」と言いますが、これにもおそらく同種の「魔力」が潜んでいるとニラみました。「先生」や「お母さん」の発言だから、正しいのだ、言うことを聞きなさい、という言外の権力は、発言する側にある種の「免罪符」を提供してくれているように思います。もちろん「先生」も「お母さん」も、子供にとって絶対に必要な「キャラ」ですが、「社長」や「大臣」などの肩書きが一人称にはなり得ないことを考えると、子供と大人の関わりというのは根本的に対等ではないのだなあ、と思いました。
 しかし「お母さん」や「先生」も本来は「わたし」であるわけで、家庭や職場以外の、「わたし」として発言する場がない、という状況は確固たる自我をもった人間には非常な欲求不満をもたらすわけで、膨大な数の主婦サイトというのはおそらくそのほとんどが「“わたし”に戻れる場」として存在しているんじゃないかと思います。

 さて、話を子供に戻しますと、「○○ちゃん」は無条件で親の庇護を受けていられる非常に楽な立場ですが、昔は親も周りもしつけの一環として「わたし」への脱皮を促したし、自分としても自立しなければ居場所がなくなってしまうので小学校低学年から「わたし」として生きていかざるを得ませんでした。しかし今では親の方が「いつまでもかわいい“○○ちゃん”でいてね」と本気で思っていたりするわけですから、子供が自分で「○○ちゃん」を拒否するまで「わたし」が生まれてこないケースも増えているのでしょう。成人式は30歳にしろ、と本気で思えるような世の中ですから、もうすぐ5年生になる長女が「わたし」になるのはまだまだ先の話なのかも知れません。

 一人称が「I(アイ)」しかない、わかりやすいけれども表現のキツい英語文化と比べ、古来から様々な一人称を操ってきた日本という国はこういった「甘え」や「建前」を重んじ、それを「義」や「仁」という「芯」が支えて、一本ぴっと筋の通った独特の見目よい文化を作ってきました。しかしそれもいまや見る影もなく「甘え」だけがだらしなく拡大解釈され、幼稚でみっともない文化ばかりが育つ国になってしまったようにも思えますが、そんな荒れ野のまっただ中でも、ある程度まともに育てば人間の自我というのはたくましく芽吹くはずで、我が子の成長を信じて待つしかないのかなあ、と「アタシは」思っております。ま実際は、

「付和雷同の国、ニッポン」

 ですから、わが子達が「わたし」へと進化する、その理由は「みんなそう言うようになったから」、これしかないような気もします。ま、みんな「せーの」で成長できる機会というのもそうないことで、これはこれでいいんでしょうけどね。あー、いまいちまとまらなかったです。残念。

 さて、先週うっかり「ICO」というアドベンチャーゲームを買ってきてしまいました。まだ始めてませんが、更新したのでこれから心おきなく始めようと思います。またしばらくご無沙汰してしまうかもしれませんがごめんなさい。

「あっちゃんはゲーマーなんだもーん」

 だからごめんなさいってば。 


第104回(03.2.18)

 皆様こんにちは。ゲーマーあっちゃんです。早いものでもう2月も後半です。今年は独身主義者の一人息子が1年生になるので、紺のランドセルをYahoo!オークションにて1300円で落札しました。送られてきた品は大変キレイ、というか「ほぼ新品」で大満足です。今の小学生は3,4年生になると「リュック」で通学したがるので、2万も3万もする新品購入の必要を全く感じません。6年生まで絶対に使わせるというのも教育上好ましいかも知れませんが、成長の早い今のガキどもは高学年になるとランドセルがまるで似合わなくなっちゃうのですね。「ブラジャーしながらランドセル」とか「ランドセルの中に生理用品」いう状況は、それはそれでお好きな方にはたまらんでしょうけれどやっぱりどっか間違ってると思います。男の子は女の子に比べると成長が遅いですが、中には「ヒゲ生やしてランドセル」とか「勃(以下自粛)」という状況に陥る子もいるでしょう。しかしこれは笑えるので推奨推奨(←お好きな方)。そんなわけでこれから準備されるお父さんお母さんは「中古品」というのも視野に入れてはいかがでしょう。ジジババが買ってくれるというのなら、「その分現金で!」と交渉して、そっちの方がずーっと賢いと思います。もちろん日本経済の今後を真剣に考える方は新品を買って(もらって)ください。 現金でもらった賢い親御さんは、「しめしめ」とか言ってそのお金で自分のスノーボードなどを購入したりしないように。もちろん私もそんなことしてません。ちょっと借りてるだけです。

 年末から隣町で開催されたゴスペルのワークショップに参加してました。最後は人前で発表しワークショップは終わりましたが、人数も集まり盛り上がったのでそのままサークルとして活動することになりました。わざわざ「歌が好き」と主張することはありませんでしたが、小学校の音楽の先生が素晴らしい指導をしてくださったおかげで(くだらない教科書は全く使わなかった)、歌うのも合唱も大好きで、特にゴスペルには2年ほど前から興味を抱いておりました(t@kuさん、その節はどうもでした)。酔っぱらってないのに人前で大声で歌う、というのは本当に久しぶりで、大変気持ちがいいものです。「ゴスペル」というのは本来魂の叫びから生まれた音楽なのでなんとなくこっぱずかしい部分もありますが、私の場合そのあたりは実際に歌ってみたらあっという間に突き抜けられるものでした。もちろん日本人に「本物のゴスペル」はハナっから無理ですし、クリスチャンでもないのに、という引っかかりもあるかも知れませんが、その辺はまあこだわらず、興味のある方はぜひ飛び込んでみてください。面白いです。太鼓判。

 さて、「桃鉄11」のさくまを出し抜くのに日夜忙しい私が、なぜ今更新しているのかと言いますと、昨日、ちょっと、いやかなりびっくりする出来事があったからです。私を一瞬にして異次元に誘ったそれは「鈴木淳代さんからのメール」でした。私は10年前まで、この名前で生きていました。子供の頃からずっと、私以外にこの名前で生きている人がいるとは思いませんでした。この1670万色の表現力を誇る私ですら、何と表現していいかわからない不思議な気持ちでそのメールに目を通し、返事を書きました。

 ワープロを打つとデフォルトで正しい漢字が出てくる名前をお持ちの方にはきっと分からない感覚だと思いますが、個性的な名前を背負った人間はおそらく、その「人に正しく読んでもらえない名前」に特別の、まずは反発を、そして愛着を持ってしまうような気がします。私より2歳年上の鈴木淳代さんはメールに「名前には人並みのアイデンティティを持っています」と書かれていましたが、小さい頃から「変な名前」を意識することが多かったはずで(私もそうでしたから)、おそらくその名前に対するこだわりのようなものは「人並み以上」であろうと推測されます。東京でご主人と一緒に法律関係のお仕事をされているというこの方に、私はいずれ絶対にお会いしてみたい、と強烈に思いました。きっと私と同じく、聡明で、気高く、理想に燃え、酔っぱらっても騒いだりしない、決して飲み屋のマスターに「静かにしてください」とか叱られることのない、トイレットペーパーの端っこは必ず三角に折る、素晴らしい女性であろうと確信しております。なにしろ「淳代」を乗り越えて生きていらっしゃる方なのです。「恭子」とか「浩子」とか「素子」などというなんのヒネリもない名前でのうのうと育っている人間にはわからない苦悩を、我々「淳代」は幼少時から背負い、消化してきたのですっっ!!(←魂の叫び)。

 まあいずれと言っても、東京には実家があるので、近いうちに確実にお会いできるでしょう。「淳代対決」を観戦したい方はチケットをお譲りしてもいいですが、値段を釣り上げるために自動延長を設定するのでプラチナチケットになる可能性が高いです。覚悟しておいてください。さらにこれを読んでいらっしゃる方の中に「淳代」さんがいらっしゃれば、これを機会にご連絡ください。「淳代の会」を発足しましょう。主な活動は年間通じての飲み会と、春はバレーボール、夏は釣り、秋はゴスペルで冬はスノーボードです。苗字が「鈴木」「安藤」の人はVIP待遇。飲み屋のマスターに叱られた人は除名です。

 それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。

 追伸、今日の常識。 「さくまズル過ぎ」


第105回(03.4.10)

 

ご無沙汰っ!!!

というワケで、お久しぶりです。日々アクセスし、さらに広告をクリックしてくださっている方には本当にごめんなさい。 新学期も始まり、我が家のキトキトの1年生(←ちょっと生臭い)も5年生と3年生の姉貴連合軍にステレオで世話を焼かれながら中古で1300円の「地球にやさしいランドセル」を背負って登校しています。私もようやく痛い腰が上がりました。いや、ここんとこずっと腰が痛いのね。

 我が家の春休みは3種類の伝染性疾患に6人の家族が順番に罹るという、のべ病人数13人の非常に楽しいお休みでした。しまいには誰がどれを済ませたのかわかんなくなりましたもんね。私も胃腸炎が長引く中の看病で、どうやらその疲れが腰にきたようです。しかし極めて強力な伝染力を持つはずのインフルエンザにひとりだけ罹らなかった次女よ、キミって一体。

 ここんとこ毎日、遠い外国で人が死に、傷つく映像やニュースが流れていましたが、子供達に「あんたたち“血だらけの人間”なんて見たことないでしょ?」と言ったところ、「前にお父さん血だらけで帰って来た」という返事が。もちろん手術かなんかの返り血なはずですが、時々血だらけで帰ってくる父親って一体。いえ、私は男らしくて素敵だと思いますが。

 「だらけ」といえば我が家の猫又ジュリちゃんが、22歳を目前にしてもきっちりと冬毛から夏毛に替わる「換毛期」を迎えまして、ああ、こんな棺桶にしっぽの先を突っ込んでるような猫でもその体内ではちゃんと季節の変わり目を感知しているんだなあ、と生命の不思議に感動を覚えたのも束の間。おそらくはボケが進んでいるのでしょう、ヤツはまるで「料理は作るけど後かたづけはしない料理好きなお父さん」のように、「換毛はするけど毛づくろいはしない猫」になってしまったのです。そういえば食後に顔だけは洗ってますが、体をなめているのを最近ずっと見てませんでした。撫でて、とすり寄ってくるので撫でると手の平に大量の毛が。これはダメだ、と決死の覚悟でブラッシングをしたところ、子猫1匹分くらいの冬毛が取れました。カタマリ部分は捨てましたが、かなりの毛が空中に舞ったようで、今の我が家は「恐怖!猫の毛屋敷(冬毛バージョン)」と化しております。遊びに来る方はガムテープ持参のこと。(←掃除しろよ)

 さて前述したように春休み中はてんてこ舞いでして、ついうっかりピルを飲み忘れてしまいました。飲み忘れが一日でしたら、気付いた時点であわてて飲めばOKらしい(それでもちょこっと出血したりしますが)のですが、2日以上飲み忘れた場合は、そこで服用を中止し、次の生理を待ってから新たに飲み始めることになっております。そんなわけで、先日久々にしたくもない排卵をしました。ずっと以前にここでも書きましたが、私の体は次女を生んでから、徐々に「排卵痛」というのを起こすようになりまして、それの治療も兼ねて低容量ピルを飲んでいるわけです。まだまだ若い私の下腹部は久々の今回もきっちりと「排卵痛」を起こしました。排卵痛とは、ま、生理痛に似てるのですが、私の場合は生理痛よりもずっと鋭角な「響く痛み」でして、椅子に腰掛ける時の衝撃が腹部に響いたりします。今回は腰の痛み止めを飲んでいたので、少しは痛みが和らいでいるはずなのですが、それでも「絶対にエッチは無理」というような痛みが4日ほど続きました。

ここでハタと気づきました。

「排卵痛=避妊」である

 排卵前後に痛くてエッチができないのですから、これはもう神様が仕組んだとしか思えない、自然な避妊と言えるでしょう。未婚女性にも排卵痛はあるそうですが、それでも私の経験では出産を経験するたびに痛みが増してきたように思えますし、4人授かった今思えば、この痛みは確実に「打ち止め」のサインであろうと解釈できちゃうわけですね。とまあ、産み終わった私などはのんきに考えたりできるわけですが、中には「子供が欲しいのに排卵痛でそれどころじゃない」という方もいらっしゃるようで、これは本当に大変で切実であろうと思います。夫婦一致協力して「子宮に響かないエッチ」を開拓すればなんとか可能になるのではないかとは思いますけど、ま、余計なお世話です。

 昔の、たくさん子供を産んだお母さん達にもこの痛みはあったのでしょうか。あまり子供を産まない今の女性特有の現代病という可能性もありますが、もし昔からあったのだとしても、女性の立場は今とは比べ物にならないくらい低かったので、ガマンして夫に応じるということが普通だったのかも知れません。うわあ、信じらんない。私だったら痛みのあまり蹴っ飛ばしてますね、絶対。

 もちろんいまだに「横暴な亭主」という生き物はそこここに棲息していますが、少なくともこれを読んでいる常識男性は「お腹が痛いから」という理由で拒む女性に無理強いしたりはしませんよね。そしてこれを読んでいる「ダンナとは金輪際したくない奥様」は、ぜひともこの「排卵痛」を口実にお使いください。さらに「排卵痛」を理由に家事を押しつけてもいいですし、「排卵痛」を理由にダンナの小遣いで寿司の出前などとるのも一興かと。(←横暴な女房)

 とまあ、偏ったフェミニストを自称しておりましたが、先日ダンナの職場で「男性職員が女性職員の胸を触る」というセクハラ事件がありまして、大問題になっちゃったらしいのですが、その話を聞いた私は思わず「触りたくなるくらい胸があるんだからいいじゃん」と思ってしまいました。なんだ、私って全然フェミニストじゃないや、ははは、と自覚した一瞬でありました。それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。

続きへ

トップページへ戻る