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第85回(01.11.12)

 北海道の天気予報に雪マークが見られるようになりました。いよいよ「冬」です。皆さんこんにちは。ドンキーコング64も82%までたどりつきました。あとひと息です。これが終わったらゲーマー主婦仲間(←協調性のない”仲間”)からスーパーファミコンの「ドンキーコング3 謎のクレミス島」を貸してもらう予定です。引き続き更新は減りますが、どうぞよろしくお願いいたします。(←なぜそんなに堂々と?)

 さて、ゲームばっかりしていたのかと言えば、実はそうではなく、先月末から今月にかけて、実にいろいろなことがありました。悲しい知らせ、嬉しい知らせ、困った知らせ。そのそれぞれに「考え屋あつよ」としては、もちろん普段以上にいろいろと考えましたとも。

「夫婦というのは”ストレス時”にその絆が試される」

 平穏な時は誰だって機嫌がいいものです。誰とでも仲良く出来ます。しかしいったんストレスにさらされると人間というのはどうしても「悪い面」が出てくるものです。いつもはやさしい人が暴言を吐いたり、賢いと思われていた人がトラブルをすべて他人のせいにしてみたり、子供が出来るまではあてられるほど仲のよい夫婦だったのに、「子供」という強大なストレスによって夫婦仲がおかしくなったり。子供の世界ではもっとわかりやすいですね。友達を困らせることの多い子供はたいてい家庭でなんらかのストレスがあるものですし。

 しかしながら、どのように夫婦の「結び目」を固くしていけばいいか、と言えば、おそらくそれはその「ストレス」が必要不可欠なのだと思います。2人で一致協力して、トラブルに立ち向かい解決する。そんなことの積み重ねで、いつの間にかゆるぎない「信頼感」が2人の間に出来上がっているのでしょう。「子はかすがい」と言いますが、子供かわいさに夫婦別れを思いとどまる、という意味の他に、いろいろなことのある「子育て」を2人でやることに意義がある、という意味も見いだせると思います。

 さて最近しみじみ思うのは、

「”欠点”というのは誰かに補ってもらうものである」

ということです。「短所」は本人が努力して直すべきものですが、「欠点」はもともと「ない」のですから、直すもなにもないんじゃないかと。幸せな人生に必要な、あるいはあった方がいい要素が「欠けて」いる場合、それは誰かに補ってもらわなければ、生きていくのには困らないかも知れませんが、幸せになるのは難しいんじゃないかと思うのです。子供は「子供だから」で許されますが、大人になってしまった場合、その「誰か」は当然「縁あって一緒になった人」ということになるワケですね。

 「縁は異なもの味なもの」といいますが、自然と、あるいはなぜか、結婚することになった2人はきっとこの「補填関係」になっていることが多いのだと思います。ただその「補填するされる」を自覚しているのとしていないのとでは大違いで、そのあたりが夫婦でいられる時間を左右しているのかも知れません。相手の欠点とは、しょっちゅう指摘したり、改善を要求したり、イライラをぶつける対象ではなく、自分が補うべき部分である、という自覚。まあ自覚は難しいでしょうから、大抵の場合は「諦め」になるのかも知れませんが、これが夫婦の絆を作るエネルギーになるのだと思います。もちろんこれは「依存」ということではありません。どんなに経済的精神的に自立している人間でも「欠点」はあるものです。裏返せば、欠点のある相手であればこそ、夫婦の醍醐味を味わうことができる、ということでしょうか。「神はアダムの肋骨を1本取ってイブを造った」そうです。なんのために男と女がいるのか。それはいろんな意味ででっぱった部分をへこんだ部分にハメるためだったのです。

 さてそんなわけで皆さん。ここで自分のどうしようもない「欠点」を見つめてみましょう。「欠点」を自覚し受け入れると、人間はとたんに強くなれるものです。「私はこんなところがどうしようもなくてねえ」と明るく話す人の独特な輝きをご存じの方も多いでしょう。そんな人はきっとそこを埋めてくれている存在にも気付いているのだと思います。逆に自分の欠点から目をそらしたまま年を取ると、これまた悲惨なことになるのもご承知の通り。今現在「自分は幸せだ」と感じられない人は、そんなところからアプローチしてみるのはいかがでしょうか。

 ただ「短所」と「欠点」の見極めも難しいですね。「酒を飲んで暴力を振るう」とか「仕事が長続きしない」なんつーのは明らかに「短所」で、本人の努力でなんとかなると思うし、なんとかしないのだったらそれは「見捨てる」ための十分な根拠になると思いますが、「協調性がない」とか「神経質」なんていうのは治らないんじゃないかなあ?根本的なところで「努力が出来ない」「やる気がない」という人も多いですが、そういう人にはうまくしたもので「腐れ縁」というのを神様が用意してくれていますね。相手の「短所」までむやみに補ってあげちゃう関係、「腐れ縁」。なんでも「腐る直前」というのは甘く美味しいものですが、この「腐れ縁」もなかなかイイものらしく、いったんハマると抜けられなくなるそうです。まあ我々は人間なので、なるべく「腐れ」たくはないものですが。

 さて、当然私も自分の「短所」と「欠点」を考えてみました。短所。うーん、「早とちり」というのがありますが、これはむしろ「かわいげがある」という「長所」じゃないかなあ?「周囲と足並みが揃えられない」というのは、最近努力して直そうとしてます。自分に言い聞かせている言葉は「能あるタカは爪を隠す」ですが、「バカのふり」って結構大変なんですよねえ。欠点?うーん、Nothingだな。

 こんな素晴らしい女房をもらったクセに、ウチのダンナは私を賛美も賞賛もしてくれません。誉めてくれればもっともっと「思い上がれる」のにぃ。(←補填関係)

 最近の世の中を見ていると、自分の欠点を「誰か」ではなく「何か」で補填してしまっている人間が増えてきているのではないか、そんな風に思えてきます。フツーの人が、芸術家のような生き方をしてしまう。それが「間違いのもと」になってるんじゃないかと。何が間違っているのかはともかく。
それでは今日はこのへんで。次回をお楽しみに。 


第86回(01.12.2)

 皆様こんにちは。寒いです。ついに「積雪」です。命拾いしたタウンエースも4WDに切り替え、いっそう動きがどんくさくなりました。今日の常識へようこそ。

 早いもので今年も残りわずかとなりました。クリスマスも近くなりましたが、長女に続いて次女も、妙にシニカルな口調で「本当はサンタさんなんかいないんだよ。みんな言ってたもん」などと言うようになりました。真実に気付いたはずの彼女たちではありますが、ちゃっかり「サンタさんへのリクエスト」はするようで、長女は「どうぶつのもり+(6000円くらいのゲームソフト)」次女は「ねりけし(100円くらいの消しゴム)」と言っております。本当にそれでいいんだな、次女よ。
 ちなみにまだダマされているらしい長男は「500系」(←オタク)、末っ子は「サンタさんこわい」だそうです。プレゼントいらないんだな、末っ子よ。

 さて、BBSの方にはちょっと書きましたが、群馬の義父が膵臓ガンのため他界しました。この出来事に関しては当然いろいろとあったので、後日ゆっくり(←どのくらい”ゆっくり”なのかなあ)エッセイとして書きたいと思っております。そんな事情で一週間弱、帰省していたわけですが、東京の実家で1年前のベストセラー「チーズはどこへ消えた?」を見つけました。ここ数年は翻訳調の文章がどうも読めなくなってきまして、翻訳本とは疎遠になっていました。なのでこの本も本屋でちょこっとめくったくらいで、その内容はほとんど把握しておりませんでした。が、目の前にあれば当然読んでやってもいいわけです。で、読んでやりましたよ、ガツンと。

 おそらく読まれた方も大勢いらっしゃると思いますのでいまさらですが、この話は現状にやみくもに固執することの危険性と、自ら進んで変化することの大切さを説いた物語です。なんつったって「ベストセラー」ですから「分かっているようで忘れている大事なこと」に気付かせてくれる、という意味では非常に素晴らしい物語だと思いました。もともと生物というのは「環境に適応する」ことを最優先とするべくプログラミングされているもので、適応しきれないくらい環境の変化が大きかった場合にはいさぎよく(なのか?)「絶滅」してみたりしますが、そんな「最優先すべきこと」をわれわれ「人間」は普段すっかり忘れて生活しています。特に我が国日本ときた日にゃ完全に平和ボケで、いざというときでも悲しいくらい変わることができないでいます。

「”変化できるかどうか”はどんな生き物にとっても死活問題である」

 そう、「環境に適応できない」ということは本来命に関わることなのです。「変わることのできない人」は確かに心身共に病気になりやすいものですが、かといってそういう人に「変われ」といくら言ったところで、すぐに変わることは不可能でしょう。しかし長い時間をかけていけば、どんな人でも少しずつ変わっていけるようです。もちろん、いい方への変化には絶え間ない「いい刺激」が必要で、それを発する側には大変な信念と根気が必要になってくるわけですけれど。

 「変わることのできない人」とはどういう人であるか、という問いに対する答えも、この本にはしっかりと書いてあります。「チーズを手に入れた人」、すなわち「執着せずにはいられない何か」を手に入れてしまった人はいざ変化するべき時に来てもなかなか変わることができない。これは実に正しいと思います。「お金があるとロクなことにならない」とか「身分不相応な家を建てると不幸になる」などというのはそういうことだったのですね。もちろん、どんなチーズにも執着しない人もいます。そうなれれば一番いいのかも知れませんが、あまりに”そう”だと、女房から「亭主淡泊」 (←おばさんギャグ)とか言われてしまうこともあります。

 最近では「嫁にやる」という定義自体が薄れてきていますが、私は子育ての指標としまして、娘達は「どんな家にでも嫁に行ける娘」に育てよう、と思っておりました。休みのない農家でも、朝早い漁師でも、配達の大変な酒屋でも、うまいこと適応して生活できる人間に、と。そしてその本質とはまさに「変わることができる人間」を目指すものであったことに、私はこの本を読んで気付いたのでした。

 ご存じのように最近では「変われなかったから実家に帰ってきました」「相手が変わってくれないから実家に帰ってきました」というのが多いわけです。先輩夫婦を観察していると、結婚後の「先に変わる役」は、妊娠出産の影響か女性が担う場合が多いようで、それで「信仰」に走るのは女性が多いのかな、と思ったりもしますが、どうも我々の世代以降は「必要に応じて変わるための教育」を受けてないように思えます。人間本来の「カン」や「センス」を育てることを忘れた教育。しかしそれも大き過ぎる前頭葉を持って生まれた人間が行き着くべくして行き着いたところなのかも知れません。

 「目指せ!フレキシブル人間(←関節はずれてそう)!」
 そんな崇高な教育理念に基づき、私は母親として「まあいいや」とか「そんなもんだ」とか「いいじゃんべつに」などの「フレキシブル用語」を日常に多用する生活を心がけよう、と思ったのもつかの間、すでにそういう「いいかげん満載」な生活をしていました。いやあ、これで正解だったんだなあ。

「何事も”いいかげん”に限る」

 「いいかげん」=「良い加減」です。決してだらしないという意味ではないのです。「あんたはホントにいいかげんだよ」などと言われたことのある人。相手の思惑はどうあれ、それは確かに「誉め言葉」です。喜びましょう。

 こうしてみると、このテのベストセラーというのは非常に「ネタ」に富んでいるのですね。時期がずれてなければもっとよかったんですが、きっと今後もこういうタイミングは外しまくりだと思います。主婦だもん。映画はレンタル、本は図書館だもん。「ハリー・ポッター」って何?。
 それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第87回(01.12.17)

 「BOOWY LAST GIGS」のビデオをダンナが買ってきまして、ああ、すごいバンドだったんだなあ、とあらためて思いましたが、「松井が全然動かない」のが気になって気になってもう。
 皆様こんにちは。お寒うございます。今日の常識へようこそ。

 最近ふと気付いたのですが、いつもばっちり化粧をしている人が素顔を見せてくれると、なんとなくほっとしませんか?ま、中にはすっぴんだと目を合わせてくれない、なんつー人もいるんですが、朝、10時前あたりにちょっとした用事で訪ねて行って、相手がまだ素顔で、それでもいつも通りの会話を交わすと、なんだか「心を許してくれた」ような気がして嬉しいのです。

化粧顔は「デジタル情報」、すっぴんは「アナログ情報」

こんな表現がぴったりかもしれません。いくら上手な化粧でも、素顔に比べたらやはり冷たい感じがしますもんね。私は毎朝子供を送っていく前にとりあえず薄化粧だけはしよう、と心がけてはいますが、時間がなかったりタルかったりすれば眉毛も描かずに外出します。そういう日は洗顔も楽でいいんですけどねえ。
 まあ、これは女同士の話であって、視覚優先生物である男性にとっては、親からもらって37年経過した素顔よりも、これでも少しは努力してるんですぅ〜、という化粧顔の方が好感を持ってもらえるのかもしれませんね。

 さて、今年春から保育所の会計係をやっていましたが、ついに「年末調整」の時期になりまして、仕方なくいろいろと勉強しました。まずは国税庁の出している「年末調整のしかた」などという冊子を読むところから入るわけですが、「給与所得控除後の給与の金額」とか「住宅借入金特別控除額」とか「給与所得者の扶養控除(異動)申告書」といった表記の「等」が気になって仕方ない。もともと「はっきりしない状態」というのがキライなもので、読み進むうちに「等」という漢字だけ浮き上がって見えてくるようになりまして、しまいにゃ

“等”って、なんじゃそりゃあああ!!」

と叫びながら「年末調整のしかた」を壁に投げつけ、踏みつけ、びりびりに破いて灯油をぶっかけて燃やしてしまいたいほどの衝動に駆られてしまいました。しかしそこは私もオトナ(←カタカナ)。すんでのところで自分を抑え、充血した目であれこれ過去の書類を比べたり、荒い鼻息でネット検索したり、卑屈な態度で税務署に電話してものすごく基本的な部分を教えてもらったりして、ようやくその意味やシステムを理解することができました。バラバラだったピースが組み合わさり、その全貌が目の前に突然現れた時の気分。それは「達成感」と「充実感」に満ちあふれていました。同時に、まず根本的な理解のための説明を、簡単な言葉でしてくれればこんなに苦労しないのになー、とも思いました。

「民間人に理解されて困ることは、わざと難しくしてある」

 いや、まあ年末調整ぐらいは誰にでもわかることですが、行政用語というのは画数の多い漢字がみっしりと詰まっていて、なんというかこう、禍々しくさえあり、取っつくのが非常に困難です。それでこそ「プロ」の存在価値もあるわけですが、保険契約なんかも、隅々まで理解されると会社の方が困ることがあるらしく、あの「約款」というのは極力わかりにくく書いてあるのだ、と郵便局の外交の人に聞いたことがあります。ある程度の年齢以降は、同条件の保障を継続するためにいきなり掛け金がハネあがるシステムがありますが、あれだって契約書に「わかりにくく」「小さな字で」書いてあります。保険のセールスの人もそういう部分はわざわざ口で説明しないそうです。で、いざとなったら「ここに書いてあります」と言われちゃう、とこういうわけで。だから本当は「約款」というのを自分で読んどかないとイカンのですが、ケッ!誰が読むかい、あんなモン。ま、どの保険が一番トクか、なんてことを解明しちゃうと、きっと周囲の人にも「奥さん、その保険はダメよ」なんて言いたくなっちゃって、「あそこの奥さん、ホントしっっっっかりしてんだからぁ」てことになっちゃうだろうから、謎は謎のままでいいのかもしれませんね。(←負け惜しみ)

 ボーナスで32インチのテレビとホームシアターセットとPS2とCANONのPIXUS F890PDを買いました。PS2はまだ届きませんが、これで我が家もようやくDVD環境が整うことになります。ダンナはメタルギアソリッド2をサラウンドでプレイするのを楽しみにしているようです。ああいう姑息なゲーム人間としていかがなものかと思うのですが、困ったことに男性というのはああいうのが好きなんですかねえ。(←負け惜しみ)
さて、次回の更新はは年末か年明けか。はたまた2月以降か。それも含めて、お楽しみに〜。


第88回(01.12.31)

 「BOOWY 1224」のDVD(←進歩)をダンナが買ってきまして、ああ、布袋ってやっぱりすごいなあ、とあらためて思いましたが、松井の名前は「常松」なのか「恒松」なのかが気になって気になってもう。
 皆様こんにちは。明日(元旦)から帰省予定のあつよです。換気扇とレンジ周りだけは掃除しました。今日の常識へようこそ。

 尿モレ対策用の「はくパンツ」という、まあ要するに「紙おむつ」のCMを見た長女が、
“はくパンツ”って、あたりまえだ」
と鋭い指摘をカマしました。しかし考えてみると「履く以外の用途に供されるパンツ」というのも確かにあるわけで、ライフリーさんにはぜひ姉妹品として、大ブレイク必至の「かぶるパンツ」というのを発売していただきたいな、と強く強く希望しておる次第でございます。(←風呂掃除しろ)もちろん第3段は「かぐパンツ」で決定済みでございます。(←窓拭きしろ)

 さて私と長女もついに「ハリー・ポッター」を読み始めました。もちろん買いません。近所の人に借りました。以前にもちょこっと書きましたが、私は「翻訳文」が苦手です。学術文献なんかは本当に「直訳」でも用は足りますが、小説のたぐいの翻訳本を読んでいると、なんだか登り坂を上っているような感じがしてなりません。要するに「読むのにエネルギーが必要」なわけで、たぶん多くの方も同じように感じられていることと思います。逆に、よく練られた日本語の文章というのは、急な下り坂のようなもんで、するするするとストレスを感じないで読めてしまいます。たいした内容でもないのに自然とページをめくってしまう文章って確かにありますよね。小説の面白さとはまた別なのだと思いますが。

 かの有名なシドニイ・シェルダン氏の著作などは「超訳」と謳われた、かなり読みやすい「下り坂の」文章で訳されていますが、翻訳としては「訳しすぎ」であると批評されていると小耳に挟んだ記憶があります。英語のニュアンスを正確に掴み、それを極力読みやすい日本語に訳すのが優秀な翻訳者であるのかと思ってましたが、どうやらそうではないようです。というか、それ以前に、

「英語を日本語に変換するのは無理」

こう思います。ですから、それができりゃあ苦労はしないし、すんげえイヤミな発言ではありますが、本当は英語の本は英語のまま読むべきなのだと思います。私の勤めていた動物病院にはチェコに長いこと滞在していた獣医さんがいたのですが、彼は「翻訳本なんかお話にならん」とシドニイ・シェルダンの原書を読んでいました。獣医関係の本なんかも洋書だとえらく安い上に正確なので、「やっぱり英語は必要だ」と痛感した私は、当時院長の英語の先生だったジム先生に英会話を習ったり、結婚してから翻訳の通信教育を受けたりしましたが、文献を訳すくらいは出来るものの、小説は無理でした。一文一文訳しながらの「読書」に力つき、原書の「赤毛のアン」(←選択ミス?)を放り投げ、「ケッ!あたしゃ日本人だい!」と英語の原書だけでなく、翻訳本とも密かに決別したという過去があります。かっこわり。

 しかし私も「付和雷同」を旨とする日本人。決別したはずの翻訳本も「なんか、みんな読んでるから」という理由で、買わないけど借りて読み始めるわけですね。さて「ハリー・ポッター」ですが、これはやはり「登り」の訳文で書かれています。しかし内容が面白いので、「次はどうなるのだろう?」という好奇心でぐいぐい登っていける坂です。ファンタジー好きにはたまらないアイテムが次から次に出てくるので、「メリーポピンズ」に心躍らせた過去を持つ人には間違いなくお勧めですが、映画はともかく、この小説が万人に受け入れられるとは思えません。なんでこんなに売れちゃってるんでしょう?とりあえず買った/借りたけど結局読めなかったという人、正直に挙手。

 最後に近況をひとつ。ゲーム機本体は値引きがないため、どこで買っても一緒ですが、「ポイント」で実質値引きを狙ったセコい我が家は「PS2」を「bicbic.com」に注文しました。で、さんざん時間かかってクリスマスイブに届いた荷物には、なんと「PS2」が2台入っていたのです。納品書には確かに「数量1」と印刷されており、どうやら出品ミスである模様。「サンタさんからの贈り物だ〜〜」と喜ぶ私でしたが、子供に「返さないの?」「返せば?」とケーベツのまなざしを向けられ、一度は「いいのよ、あっちが悪いんだし、誰かにあげれば喜ばれるよ」とは言ったものの、ここで「道徳教育」をせずにいつするのだ、というシチュエーションであるのに気づき、泣く泣くサポートセンターに電話をし、着払いで返品しました。親になるのは簡単ですが、親であろうとするのは面倒くさいことです。我ながら中途半端な対応だったし、かえって悪影響だったんじゃないかとも思えるし。しかも近所の「母親」連中はみな口を揃えて「ウチにくれればよかったのに〜」と私を責めるんです。えーん、誰か誉めて〜。

 えーそういうわけで、東京でフグ鍋を食べ、群馬で義父の納骨を済ませ、高校の同級生と集まり、大学の同級生んとこと茅ヶ崎の動物病院に遊びに行って、こっちに戻ってくる日はまだ未定なのですが、13日に子供のカルタ大会があるので、それまでには戻ってくる予定です。北海道の百人一首は「下の句カルタ」といって、下の句しか読みません。せっかちの道産子らしいですね。それでは皆様よいお年を。


第89回(02.1.22)

 皆様こんにちは。ご無沙汰しておりました。本年もこの人生哲学サイト(←そうだったのか)をどうぞよろしくお願いいたします。今日の常識へようこそ。

 里帰り中に練馬の光が丘に住む友達のところへ遊びに行きました。初めて見ましたが、いやーあの巨大団地、すっごいですね〜〜。ありゃあ「巣」です。人間の作る「巣」の究極形です。「Tower」や「シムシティ」を彷彿とさせるその「密々しさ」(←今作った形容詞)に開いた口がふさがらずヨダレ垂れ流し状態。各建物に保育所。「光が丘第5小学校」って、5つもあんのかよ、おい。いったい人口密度はどのくらいなんでしょうか。確かに子育てには便利そうでしたが、イナカ暮らしの私には何かがどこかが間違っているような気もしました。でも仕事をしながら子供を育てようと思ったら、ジジババに頼るか、文明の恩恵に頼るか、どちらかしかないのですよね。

 先日のディナータイム(おかずはシャケと野菜炒め)に、5歳の長男が分数を正確に把握していることが判明。常日頃長男のことを「おバカに見えるが実は賢い」と思いこんでいる私は、いつもののんびりした口調で「さんぶんのいち」の説明をする長男に「ほうらやっぱり私の子」(←バカかおまえ)とニンマリしたのですが、よく考えればなんでも「1/4」だもんなあ、となんか納得。

「きょうだいのいる子供は分数の理解が早い」

ホンマかいな。

 さて正月は日頃会わない人たちと顔を合わせる機会が多いもので、私は密かに「人間観察強化週間」と銘打っています。いろんなステージまっただ中のいろんな人を短期間に集中して観察していますと、なんとなく「ああ人間って‥‥‥」と「何か」に気付くことが多いのですが、今回は、

「人間は“当事者”と“傍観者”に大別できる」

こういう託宣を受けました。単語がちょっと不適切かも知れませんが、便宜上こういうことにしときましょう。当事者。行動的なのはいいけれどその分考えが浅く、しょっ中なにかしらやらかしては周囲の失笑/顰蹙を買う人。傍観者。何事にも慎重で、自分では決して責任を負わず、でも口だけは出すという人。身の回りにいる人をちょっと思い浮かべ、どちらかに分類してみてください。たぶん「どっちとも言えない」という人はそんなに多くないはずです。 どんなグループも社会生活を円滑に営むためにはこの2種類の人間が必ず必要で、たぶん夫婦なんかはきっちりこの組み合わせになっている、もしくはなっていくんじゃないでしょうか。 要するに「ボケ」と「ツッコミ」がいてこそ完璧な会話のキャッチボールが成立する、と、こういうことなんじゃないかと思うのですが。

 もちろん相対的な要素も多分に含んでいて、「会社では傍観者だけど友達グループでは当事者」という人もたくさんいるでしょう。私自身も、基本的には傍観者でありたいのだけれどなんか当事者になってしまうことも多いです。ものすごい“当事者体質”の人(要するに“目立ちたがり”)と行動すると傍観者に徹することができるのですが、酒癖が悪いので酔っぱらうと立場が逆転してしまいます。夫婦間でもダンナが根っからの「傍観オトコ」なのでしかたなく当事者のポストを受け持っております。おっちょこちょいとか思われてます、きっと。心外です。

 さてこの2者間での確執を考えてみましたところ、日常的な対人関係の不満はこの公式にあてはまることが非常に多いことに気付きました。

当事者→傍観者 「じゃあオメーがやれよ」
傍観者→当事者 「人を振り回さないでくださいっ」

 特に「何かを一緒にやる」というシチュエーションでは、必ずこういう不満を抱える人がいます。そう、必ず。「必ず」なのですから、あなたが会社で上司とか同僚とか後輩に腹が立つのは当然だし自然なことだと言えます。繁栄し存続している組織のトップはこの二つの要素を高濃度に兼ね備えている場合もありそうですが、おそらくは優秀な補佐に恵まれているのでしょう。そうでなければ組織というものは人間関係面で必ず破綻してしまうはずだからです。夫婦というのも「補い合う関係」に他ならないし、こう考えると人間はひとりではあまりにも不完全なのだ、とつくづく思います。

「ムカつく相手ほど、あなたに必要な人かも知れない」

 しかしこの関係は往々にして不公平なのだと思います。無口なあるいは何も言えない傍観者というのが多く存在するからです。当事者はつけあがり、傍観者はストレスをため続けて病気になる。日本の家庭や社会にはよくある構図です。病気になる前にきちんと「キレる」ことが出来ればまだ幸せです。妻子持ちにとってはこのご時世不可能なことです。あとは「生ける屍」になるしか道はないのかも知れません。まあ「屍」でも生きているだけいいんじゃないかと。

 最近「町民スケートリンク」に通っています。私は小学生の時、なぜかいきなりスケート靴を買い与えられ、妹と一緒に後楽園黄色いビル6Fのリンクに通い、大学で体育の先生をしているイトコにフィギュアを中途半端に教わるという釈然としない体験をしました。今思うと父(←完璧な当事者)のふとした思いつきだったに違いないと思いますが、まあそのおかげで今はガラ空きの町民リンクでくる〜り(くるくるではない)と優雅にまわりつつ娘2人に中途半端な指導などしておるわけです。しかし北海道に限らず、屋外リンクというのは完全に「スピードスケート文化」でして、フィギュア派は肩身が狭い。しかも北海道では「スピードスケートがどうしても出来ない子供がフィギュアを履く」という情報が。

「白いスケート靴。それは落ちこぼれの証」

 まあ世の母親なら、娘がスケートでオリンピックに出るなら、ぜひスピードではなくフィギュアでと願うと思いますが。いえ、ウチの娘は出ませんけどね。出ない方に全財産。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第90回(02.2.8)

 皆様こんにちは。北海道は暖かい日が続いています。「となりのトトロ」のDVDを入手しまして、久々に観るとやはりものすごく面白くて感心しますが、これを観ると以前妹がぽつりと言った一言が思い出されてなりません。

「トトロとかネコバスって、クサそう

確かに。今日の常識へようこそ