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第79回(01.7.23)

 皆様こんにちは。都会の若い人たちはサンバイザーを首にぶらさげて歩いているそうですね。おばさんが若い頃には頭にかぶったものですがね。次は鼻の穴に緑色のスライムを詰め込んで、軽く垂らして歩くのが流行るといいですね。今日の常識へようこそ。

 祭りの夜店で子供達に「金魚すくい」のお手本を見せようとして一発で紙を破いてしまい、親の面目丸つぶれな今日この頃ですが、北海道は明らかな天候不順で雨ばっかり。このままだと「日照不足」ということになりそうですが、本州の方では例年以上のたまらん暑さだそうで困ったもんです。足して2で割って湿度を20パーセントほど差し引いてもらえないもんですかねえ>神様。

 海の日に「ふれあい地引き網」という海辺の地元色豊かなイベントに参加しました。老人と子供に囲まれながら「わーいわーい、一網打尽だぞー」などとはしゃいでいた私ですが、二網もしたのに「打尽」には遠く及ばない成果でちょっと拍子抜けしました。しかしなんとマボロシのカレイである「タカノハカレイ」(ヒラメよりも美味という)がひっかかり、「なんだー、いるんじゃん」と釣りゴゴロを燃え上がらせております。しかし投げ釣りは飛距離が足りず、サビキにはやたらとデカい外道のアカハラが来て280円もするシカケを一網打尽(←間違った用法)にしてくれる。もう秋のサケ釣りまで待とうかな、という気にもなります。イワシの大群でもまたドバーーーッと漁港に入れてくれませんかねえ>神様。

 とまあ、都合のいいことばっかり言いたい放題ですが、本当に「自然」というのは人間の事情など考えちゃあくれません。この「自然相手」の職業の方々が一種独特の「諦観」をお持ちなのも当然だなあ、と思います。

「なるようにしかならん」

 「努力はいつか必ず報われる」などと目を輝かせて声高らかに宣う輩も多いですが、この「いつか」の部分にやはり「なるようにしかならん」という真理がそれとなく謳われているわけです。漁業にも農業にも人間の英知は山ほど注ぎ込まれていますが、それでもおテントさまや潮の流れにはかないません。努力が報われないこともある、漁師さんやお百姓さんはそんな職業の筆頭に上げられると思います。今でこそ、不作の年には共済組合などである程度の保障はされますが、昔の日照りだとか水害などは本当に直接命にかかわることだったのです。にもかかわらず、自然が猛威を振るっている間、人間は己の無力をひしひしと感じながら神仏に祈ることしか出来ずにいました。きっと昔の農民たちは「諦めては立ち直り」を繰り返して一生を終えたのでしょう。

 昔は子供もよく死んだそうです。自然に任せていれば子供は「無事に生まれるかどうかわからず」、無事に生まれても「すぐに死ぬかもしれない」生き物なのですね。しかし農業漁業に組合という「救い」が出来たのと同じように、子供も医療の恩恵を受け、今の日本では「無事に生まれて当たり前」「無事に育って当たり前」な生き物になりました。しかしその分、「諦め」を忘れた母親達はうんざりするほどたくさんの「恐怖の対象」と戦わなくてはいけなくなりました。子供を奪っていく可能性のある、昔には存在しなかった多くの凶事。どんなに楽天的な女性でも、初めての子供を持つと「なにかあったら大変だから」と人が変わったように慎重に行動するようになります。特別神経質な人の場合は常に最悪の事態を想定するのがクセになってきます。しかしながら、子供が大きくなっていく過程で、また、2人3人と産むうちに、知らず知らず真理に近づいていけるのです。

「なにかあるのが人生」

 そう、万事が「なるようにしかならん」わけですね。いくら先回りをして、安全な道のみを選んでいるつもりでも思わぬところで足をすくわれたりします。気に病むだけ損というものです。もうつぶれてもおかしくないほどの赤字をかかえて、とりあえず北海道が資金援助することになるそうですが、それでもそんなにゴタゴタしててちゃんと整備できてるんかいな、と心配になるAIR DOの飛行機。しかし他社の飛行機だって落ちるときは落ちるんです。「安いから」という理由でAIR DOを選びましたが、それでいいんですよね>神様ぁ(←裏声)。

 そゆワケで、26日から31日まで、「なつやすみのおもいで」を仕込みに実家に帰ります。飛行機が落ちなければ、29日には新宿でオフ会です。お暇な方は今からでもぜひご参加ください。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第80回(01.8.5)

 皆様こんにちは。猛暑を覚悟して上京した今回の里帰りですが、なんと東京に着いた日は最高気温28℃とえらく涼しい日でした。その後もしばらくしのぎやすい日が続き、私が北海道に帰ったとたんにまた猛暑。私って本当に日頃の行いがいいんだなあ、と確信を深めた夏休みでした。今日の常識へようこそ。

 実家の母が田舎(岩手県宮古市)の一番上のおばさんをハワイに連れていく計画を立てているようです。高卒後に就職した郵便局の仕事がつまらないからといってボーナスを貰った直後にさっさとやめ、ちゃらっと単身で東京に出てこられた六女の母と違い、長女のおばさんは婿さんをもらって家業の旅館を切り盛りし、夫に先立たれ、96歳まで采配を振るっていたおばあさんを看取り、やれやれと思ったらすでに自分がおばあさん。冥土のみやげにぜひ姉を海外旅行に、という母の気持ちもわかるような気がします。なぜなら、当の母は、

「こないだインドに行ったのよ。冥土のみやげにね」
「それから冥土のみやげにエジプトにも行きたいの。」
「あとは船で海外旅行。これも冥土のみやげ

とすでに「冥土のみやげリスト」を作成、消化に着手しています。若い頃父にさんざん苦労させられている母はそりゃあもうほれぼれするくらいぐいいいいっと開き直り、父の稼ぎで残りの人生を謳歌しようとしています。もちろん苦労の代償なのでしょうが、それにしてもうらやましい。

 ところで2、3日前に発表された「日本人の平均寿命」、

「男 77歳、女 84歳」

 これを見て「さて老後は何をするかな」と考えた方も多いでしょう。ずいぶんと長そうです、老後。母なんかまだ62歳なのにもう「冥土のみやげ」とか言ってますが、こりゃ今の時代ではどうみても早すぎますよね。彼女の「冥土のみやげリスト」は一体どのくらいのボリュームになってしまうのでしょうか、ちょっと空恐ろしい気もします。

 この「冥土のみやげ」ですが、フィクションの世界では、これから殺されそうになっている人間に殺人者が「ふっふっふ、冥土のみやげに教えてやろう。実はおまえの女房は‥‥」というのがお決まりですが、実際には「お金はあの世に持っていけない」と言いますし、要するに「印象に残る思い出」ということだと思うのです。実は私、ちょっと前の車の宣伝コピー「モノより思い出」という言葉にいたく感動し、ウチの家訓はこれだねこれしかないね、と決め込んでいました。よく小さい頃親に「みんな持ってるんだもん」とモノをねだって「ウチはウチ、よそはよそ!」ときっぱり言われたものですが、私もそういう「決め文句」にコレを使おうと思いました。「あれ買ってーー!!」とダダをこねる子供の前に立ちはだかり、両手を腰に当てて大きく息を吸い込み一言、

「モノより思い出っっ!!」
(↑これだから”パワフル”とか言われちゃうんだな)

もっとも今のところウチの子供達はダダをこねてモノをねだる、ということはほとんどないのですけども。

 さてそこで私は考えました。自分が子供の頃の思い出って、なにがあるかな、と。

 言うまでもなく、夏休みに大量のイトコ達と宮古の海で遊んだとか、長瀞でウンコを漏らしてノーパンで帰ったとか、大島のサマーキャンプで海流に流されそうになって外海の怖さを体験したとか、そういう「お出かけ系の思い出」はたくさんあります。しかしお出かけしなければ思い出は得られないのかというとそうではなく、私が「お出かけネタ」以上によーく覚えているのは、「母がリリアンセットを私だけに買ってきてくれた」とか「父が近所の喫茶店に私だけ連れてってくれてプリンアラモードを食べた」とか、そういう「自分だけ特別扱いされた日常のひとコマ」すなわち「両親の愛情が自分だけに向けられた瞬間」が非常に印象に残っているのに気付きました。1歳半で「おねえちゃん」になってしまった私はおとなしく指をしゃぶっている子供だったそうですが、そんな私だからこそ、そんな出来事が非常に嬉しかったのかもしれません。しかし「特別扱い」を当然と思っているフシのあるウチの末っ子なども「自分だけ病院に連れていってもらった」(←何か勘違いしている)と姉兄に自慢したりしていますから、やはりきょうだいのいる子供にとって「特別扱い」はとってもとっても嬉しいことのようです。

「きょうだいは常に平等に」

 そういうポリシーも結構ですが、たまにはそれぞれを特別扱いしてあげるのも「いい思い出」の素なのかも知れません。

 東京でオフ会をしてきました。あちこちから15人くらい集まりまして、楽しかったしネタ集め勉強にもなりました。都合で出席できなかった方、興味はあったけど今回出席しなかった方、次回があるかどうかは私にもわかりませんが、もしあればぜひご参加ください。もちろん「冥土のみやげ」に。
それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第81回(01.8.21)

 ご無沙汰しておりました。小学校アンド保育所がようやく始まり、早速更新しております。今日の常識へようこそ。いきなりですが「男性の魅力」をひとつ。

「栓を開けたばかりの一升ビンを片手で持ち、コップに酒をこぼさず注げる」

 私は子育て中に自分の意志に反して鍛え上げられてしまったたくましい上腕部を所有していますが、さすがにこれは出来ません。目の前で男性にこれをやられると「ああ、やっぱり殿方なのだわー」とうっかり既婚なのも忘れて惚れそうになってしまいます。案外と女性は男性が意識していない部分に男としての魅力を感じたりするものですね。私にとって「一升ビン片手注ぎ」は「これが出来ないヤツは男じゃない」という基準になっておりますのでひとつよろしく。恋人との結婚を考えている女性の方。決断の前に「一升ビン片手注ぎ」を彼に課してみるのも一興かと。

 さて、大人の夏休みと言えば要するに「お盆」ですね。私の住む厚賀にもたくさんの人たちが里帰りしてきたらしく人口が増えていたようです。お盆には都会に住む息子夫婦や孫と一緒にあの世に住むご先祖様も帰って来るということになっておりますが、私、10年以上前に大きな矛盾に気付いてしまったのです。以下、お盆の支度をしている実家の母と若かりし日の私の会話。

あ 「お盆には先祖の霊が帰ってくるんだよね?」
母 「そうね」
あ 「でもね、人間って死ぬと生まれ替わるんだよね?」
母 「そう言うわね」
あ 「じゃあ、先祖の霊も生まれ替わってるんだよね?」
母 「そうでしょうねえ」
あ 「じゃあお盆に帰ってこられないじゃん」
母  なぜか遠くを見ながら無言で立ち去る

 まあこんなテーマで激論になっても困りますけどね。

 さて最近また心霊ブームになっているようです。テレビ欄を見ていると「心霊写真特集」なんつーのがちらほらありますね。私も嫌いではないのでよく観ます。たけしの番組ではす向かいに住んでいそうな普通のおばさん霊能者に「あ、今そこにいますね」などと、まるで野良猫を指さすように虚空を指さされると「そうかー、いるのかー」とつい納得してしまいますし、心霊写真を見て「これは大丈夫ですね」などと力強く言われるとほっと一安心してしまいますが、子供の頃は無条件で信じ恐れていた「霊」の存在も大人になると「ホンマかいな」と疑わしく思えてくるものです。同時に夜中のトイレも怖くなくなり、何かが見えていた子供も何も見えない大人になってしまいます。もちろん「あっちの方向」に向かってまっすぐ大人になってしまう人も時々いるようですが。

 中学の時に祖父が亡くなったのですが、その時、家の入り口の階段に見たこともないような大きな蝶が止まっていました。母にそのことを言うと、母は振り返りもせず、当然、という口調で「あれはおじいちゃんよ」と答えました。人間は死ぬと蝶になって帰ってくるのだそうです。大きな仏壇のある家で毎朝手を合わせて育った私はいささかの疑問も持たずに納得し、しみじみとした感動を覚えました。

 そう、先祖の霊がどうしたこうした、というのは確かに素晴らしい日本文化ですし、人によってはそういうものを拠り所として精神的に満たされて生きています。ですから文化としては全く否定はしませんが、これが「あそこに霊がいる」とか「霊の仕業だ」などということになると話は別です。果たして人によって見えたり見えなかったりするものが物理的に存在すると言えるのでしょうか?言えるわけがありません。(なんだか大槻教授みたいになってきたぞ)

 心霊現象も同様です。霊が憑いた、などという現象はすべて「なんらかの精神病」もしくは「脳の異常」で説明出来うるはずですし、子供のひきこもりや家庭内暴力などは霊のせいにするような親が悪いのであって決して自殺した先祖なんかのせいではないはずです。「祟り」などは完全に本人の解釈オンリーです。車で猫を轢き殺してしまったとか身ごもった子供を中絶したという「後ろ暗い」経験のある人に何か好ましくない事態が降りかかった場合、それとこれとを結びつけて考えてしまうとそれはその人の心の中でだけ「祟り」になってしまうだけのことであって、あたりまえですが明確な因果関係を立証することは不可能です。

 なーのーにっっ!これだけ曖昧で非科学的極まりない現象を多くの人は「なんとなく」信じて生きているのですね。

「人間は”見えないものを信じることができる”唯一の動物である」

 「霊はいる」と考えた方が人生楽しい(←間違ってないか?)のは確かです。

修学旅行の就寝時間後に友達とする怪談や、夏の合宿でのきもだめし。
大流行したこっくりさん。
学生時代の仲間とドライブした鎌倉の心霊スポット。
華厳の滝ではフィルム1本使い果たしてしまったっけ。(←?)

「心霊現象は人生における嗜好品である」

  節度を守って適度に楽しみたいところですね。
 ところで、デジカメで撮った心霊写真って存在するのでしょうか?その方面に詳しい方、ご存じでしたら教えてください。
 それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第82回(01.9.25)

 お久しぶりです。分厚い上下巻の小説を読んでいるウチにいつのまにか1ヶ月も空いてしまいました。前回ハイハイしていた赤ちゃんもどどどどっと前のめりに歩くようになったことでしょう(←あながち大げさでもない)。秋風吹く北海道からお送りいたします「今日の常識」、お相手は36歳4児の母、竿の扱いまかせて安心、隠れ獣医のあつよでございます。

 鮭釣りが始まり、河口で1年ぶりに常連オヤジ達と再会しました。なんというかこの場合の再会は「お互い好きですなあ」というニュアンスがありまして、たいてい意味ありげに「ニヤッ」と笑い合うものです。きっと「特殊な風俗店でたびたび会う常連同士」もこんな心温まる交流を楽しんでいるのだろうなあ、と思いました。去年は1匹しか釣れませんでしたが、今年も目標は「1匹」です。人間、謙虚さがなくなったらオシマイですし。

 先日某大手カー用品店にスタッドレスタイヤを予約しに行きましたら、その数日前に見積りをしてくれたおねえちゃんが、「先日お話ししたタイヤでよろしいですか?」と言うので、わ、覚えているのか、と驚きましたが、見ると彼女は手元に今まで営業した相手とその内容をメモした「アンチョコ」を持ち、それをカンニングしながら話しているのでした。見た目は金髪で舌切りスズメなしゃべりのイマドキのおねえちゃんですが、その「営業魂」に感心させられました。しかしもっとも感動したのは私のことを「女の人」と書いてくれていたことです。私は心の中でひそかに快哉を叫びました。ホレ見ろ、私はまだ「おばさん」じゃないんだ〜〜い、と。(←誇大解釈)
 しかしカー用品店に来る女性は少数派でしょうから「女の人」で済みますが、男性の場合はやはり対象が多いですから「バーコード」とか「オタク」とか「指名手配」とか「胃潰瘍」とか「フランケン」とか「松野(整形前)」とかいう「一目瞭然」な夏目漱石風の表現で書いているはず。ああ、あのアンチョコゆっくり見して欲しい。

 とまあ、私の周りはいたってのどかなもんですが、地球上は大変なことになっております。私は「一生ふざけて暮らす」が人生の指標なので、こういう深刻な話題には触れないのを基本姿勢としております。もっとも、世界情勢となるとバカな主婦には語りたくても語れないのですけどね。ただただ「子供を失った母親」「夫を失った妻」に同調してちょっと涙ぐんでみるくらいですか。
 しかしながらバカな主婦も、ブッシュ大統領の支持率が9割を超えた、というのにはぶったまげました。アッチの人たちの宗教観とか、国家間の確執なんかはそれこそさっぱりわかりませんが、報復攻撃をして、一体どこの誰が幸せになるのだろう?と考えていたので国民のほとんどが「仕返し=戦争」を望んでいる、という事実には心底驚きました。アメリカはキリスト教の国ではなかったでしょうか。子供の頃日曜学校で「右の頬を打たれたら左も差し出せ」とか習ったように記憶していますが、そのへんのところはどうなっているのでしょうか。いやもちろん、一方的にあんなことされて逆上しない当事者なんかいやしませんが、「正義」という名を借りたアメリカの「意地」が、報復によって今後さらに失われるかもしれない「人命」よりも優先されているのが驚きだし怖いと思います。でも考えてみれば人間ってもともとそういう「命より大事なもの」を持っている生き物なのでしたね。

 さて、結構前の話ですが「意地の心理」という本を読みました。離婚を扱っている弁護士さんの書いた本で、非常に面白かったです。この場合の意地というのは「相手に対する」という意味での意地です。著者はたくさんの離婚劇を見てきて、離婚の一番の障害はこの「意地」である、と述べています。もうとっくに夫婦関係が壊れているのに、「絶対に別れない」と言い張る人がいるようです。私は個人的にはそういう人を知りませんが、そりゃいるだろうなあ、と思います。そういういざこざは周りを巻き込み、なにより自分自身が不幸なのではないか、と思うのですが、本人はどうしてもおさまりがつかないのでしょう。たとえ理路整然とした「別れない理由」をいくつも並べたところで、結局は「意地」という感情に収束するはずです。このテの「意地」ほど不毛なものもないと思いますが、このテの「意地」ほど大きな負のエネルギーを生むものもないのだとも思います。「意地」で一生の大半を台無しにする人も少なからずいるようです。余談ですが、国会議員なんかは「意地を張りにくい人」を揃えればもうちょっと「政治」が出来るようになるんじゃないかとも思います。

「”意地”は”甘え”から生ずる」

 「意地」というやっかいな感情の発生機序を探ってみると、そこには必ず「相手に対する甘え」があるはずだ、と著者は書いています。「あなたが〜したから、私は〜せざるをえない」あるいは「あなたが〜してくれないから、私は〜せざるをえない」という一見論理的な理屈によって「意地に凝り固まった人間」が作られるのだという論に私は大きく頷き納得しました。もちろん「だから〜せざるをえない」という部分が勘違いであり妄想であるのですが、意地になっている本人はそれに気付く余裕がないし、気付いたとしても気付いていないフリさえします。あなたの周りにいる「意地っ張りさん」を思い浮かべてみてください。多かれ少なかれ「相手に何かを期待する」傾向が感じられないでしょうか。本物の「プライド」は決して無駄な「意地」を生まないはずなのに、こういう人は「意地」を「プライド」にすり替えて解釈したりします。その根底には「自分は人に気遣われるべき人間である」という自己万能感に基づく甘えか、あるいは「気遣って欲しい」というある種の欠乏感に起因する甘えがあるのではないかと思います。小さい子供の多くが意地っ張りであるのもこれで納得できます。もちろん、そのまま大人になってもらっては困るので、そのあたりを責任持ってなんとかするのが親の役割でもあるわけですが。

 意地は意地でも「自分に対する意地」は向上の糧ですし、あっても困らないと思います。しかし「相手に対する意地」は、全部が全部というわけではありませんが、どうもエネルギーの無駄使いだという気がしてなりません。肉親や恋愛関係にある男女、夫婦といった間柄にはある程度の「甘え」が必要悪(?)であるため、その分「意地になりやすい」関係なのでしょう。私は「人生マイペースなヤツの勝ち」だと思っていますが、その根拠をあらためて考えてみると、マイペースな、自立した、本当の意味での個人主義を実践している人間は、たとえ「人生の墓場」である結婚に足を踏み入れたとしてもこういった無駄な感情にとらわれて苦しむことがないように見えるからなのだと思います。まあ、あまりに超然としているのも非生産的な気がしますけどね。

「意地を張っている人間には、何も見えないし何も聞こえない」

 「離婚調停はお互いが意地の張り合いをすることで長引き、解決不可能になる」とこの本の著者は書いています。日本には今のところアメリカに対する「義理」があるだけです。頼むからこれ以上妙な「意地」が発生するような事態になりませんように、と願うばかりです。そして一刻も早い「調停」が為されますように、と祈るばかりです。
 それでは今日はこの辺で。次回をお楽しみに。


第83回(01.10.2)

 皆さんこんにちは。またもや腰が変になり、本当は寝ていなければいけないあつよです。ついにストーブに火が入りました。北海道はこれから長ーい冬の始まりです、えーん。今日の常識へようこそ。
 BBSの方にはちらりと書きましたが、任天堂ゲームキューブの「ルイージマンション」を攻略中でございます。データが3つセーブできますので、私とダンナと長女で、それぞれがそれぞれを牽制し合いながらゲームを進めております。

「子は親を越えていくものだ」

 私も早晩思春期を迎える我が子達にとって、そりゃあもうひとまたぎでひょいと越えられるような親であるべく、日々自分優先な生活を心がけてまいりました。しかし小学生3年生の長女は私に似て賢い娘なもので、ゲームに関してはすでに娘に優位に立たれてしまいました。私が発見できなかったオバケを長女が発見した時の長女の誇らしげな顔!早くも子供に越えられる時が来たか、と、悟りの境地に‥‥‥入れるワケがありません。子供だと思ってヒントを出したりしてあげてたのですが、もうそういう甘やかしは一切ヤメました。長女が私より先に進むと、すかさず「早く寝なさい」攻撃、さらにちょこっと行き詰まるとさっさとネットでカンニング、とこのような「オトナの手段」を使って長女に負けじとゴンゴン進むわたくし。だいたいですねー、長女ってば私が「ここの鍵、どこにあった?」などという質問をしても、全部「忘れた」と返事しやがるんですよ。腹立つ悲しいじゃないですか。ですから母親としては、そうやって人をケ落とすようなマネをしていると、いつかそれが自分に返ってくるのだよ、ということをここで教えとくべきではないか、と、このように考えておるわけですよ、はい。

 先日トリマーの元同僚からこともあろうにSMAPのコンサートに誘われました。しかし冷静に考えると、別にSMAPは嫌いじゃないし、元同僚にも会いたいし、札幌ドームは一度見ておきたかったし、一度「アイドルのコンサート」という異次元空間を見ておくのもいいな、と思い、長女を連れて行くことにしました。
「吾郎ちゃんがいないから5人だな」という認識で出かけたら、ははは、4人でした。いえ、もちろんずっと前の森くん脱退も知ってますし、それぞれのメンバーも一人一人認識していますが、わざわざ数える、ということがなかったのですね。意外な盲点というヤツですか。

 さて当日。いろいろ迷ったあげく、車を新千歳空港に駐車し、JRと地下鉄でドームに向かうことにしました。札幌の地下鉄は初めて乗りましたが、東西線という線には「南郷18丁目」と「南郷13丁目」という駅が続けて存在しているのです。この駅名はあんまりなんじゃないか、もうちょっと考えられなかったもんかいな、とそんなことを思いつつ、南郷18丁目で下車。大規模イベントの時はそこからドームまでシャトルバスが出るのです。
 バスに乗ると、そこは当然女だらけの空間。もちろん私は「観察モード」に入っております。「SMAPのコンサートに行く人々」は若い女の子に混じってめかしこんだ主婦若作りが痛々しいおばさん(←オマエだろ)が意外に多くて安心しました。さらに安心したのは、白い襟にラインが入っていて、その襟が小さいボタンで取り外せるようになってる紺のトレーナーなんかを着た素のおばさんが時折いることでした。こりゃヘタすると「ジャージおばさん」もいるかも知らんな、と探しましたが、残念ながら発見出来ませんでした。

 ほどなくバスはぴかぴかの札幌ドームに到着。降りたところに「新千歳空港行き臨時バス」の看板があったので、「これで帰ろう」と時間と場所をチェックし、元同僚との、非常に難易度の高い待ち合わせを携帯電話を駆使してクリアいたしました。ダンナの携帯電話を借りて行ったのですが、これ持ってなかったら絶対に会えなかったな、と確信しました。5万人を侮ってはいけません。なんてたって私の住む門別町の人口の4倍弱なのですから。何年かぶりに会った同い年の元同僚は、少し痩せていましたがりっぱなおばさんになっていました(←オマエもな)。

 そんなこんなで長女が飽きてきたので早々にコンサートは途中退場し、一番に臨時バスに乗り込んで座っていたのですが、要するにこのバスには最終便で東京に帰る人々、要するに「そこまでしてSMAPに会いたいか??」という人々が乗ってくるワケですよ。まあ、確かにツアーの最終日で、ファンの間では「吾郎ちゃんが来るかも」というウワサも飛び交っていたようではあるのですが。
 その「気合いの入った人々」にもなんと「おばさん」が混じっているのですね。びっくりしました。私の並びには思いっきり「素」の、白髪も染めてないような小柄なおばさんが1人で!、長蛇の列に並んでゲットしたのであろうSMAPグッズを袋から出して眺めていましたし、その後ろには揃いも揃って「巨体」の、40代半ばとおぼしき2人連れが、興奮さめやらぬ様子でガーガーとうるさくくっちゃべっているのでした。

 こういうシチュエーションでは、当然のように「仲間意識」が芽生えるのでしょう、その「巨体一号」は通路を挟んだ隣の席に座っている若い女の子と会話を始めました。

若「明日お仕事なんですかあ?」
巨「ううん、休み取ったわよ〜」
若「ええ〜?じゃあ泊まればよかったのにぃ」
巨「子供3匹、学校に出さなきゃいけないしねえ」(この日は日曜日)
若「大丈夫ですよ、お父さんいるじゃないですか」
巨「ダメダメ!お父さんなんか頼りにならないのよ、全然」

この言葉を聞いて、私はちょっと悲しくなりました。

「日本の男はまだまだダメ」

 しかしながら、そう言っている巨体一号自身は、なんとなく嬉しそうな、誇らしげな様子なのです。私は宝物のような家族を持っている。私は家族の中心である。だからこの程度の制約は当然だ。言外にそう言っているような感じがしました。子供を持った母親というのはやはり、幾重もの「気がかり」で縛られてしまっていますが、でもそれでこそ母親なんだろうなあ、とも思いました。しかしそういうことを「男から」言われるとなんかすげえ腹が立つんだよなあ、とも思いました。
 しかしそれにしても、恐るべし熟年SMAPファン。見習うべきところも、ある?かなあ?

 そういうわけで、ゲーム中にもかかわらず更新したのは、仕事が休みのダンナにゲーム機を乗っ取られてしまったからです。子供に先行されるのもヤだけど、ダンナに先行されるのもヤだ。
なんだかただの近況報告でしたが、今日はこの辺で。ゲーム以外にもいろいろ忙しい時期なので、次回は当分先になるかも。すいません。


第84回(01.10.26)

 皆さんこんにちは。ご無沙汰しておりました。おかげさまで50万ヒットを超えました。不定期極まりない更新にも関わらず日々チェックしてくださる方々、ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。「ルイージマンション」があまりにあっけなかったもので、その後「ドンキーコング64」をやり始めてしまいました。まだ半分なのでもうしばらくは更新頻度が落ちるかと思いますが、(いつものことですし)よろしくお付き合いくださいませ。

 一般に疲れている時に見ると言われる「もどかしい夢」というのがあります。私は「電話番号を何度も間違える」というのと「試験に遅れそう」というパターンが多いのですが、先日「氷あずきを頼んでいるのに、どうしてもイカゲソが出てくる」という新たなパターンの夢を見ました。一体これはどういう暗示なのでしょうか。私は一体何に疲れているのでしょうか。夢に詳しい方がいらしたらぜひともご意見を伺いたいところです。

 さて、天気予報などでよく「天気のいい平日」を「お洗濯日和」と表現しますが、私はこの言葉を聞くたびにちょっとした違和感を感じていました。たいていの子持ち主婦は曇りだろうと雨だろうと暴風波浪大雨洪水高波警報が出ていようと毎日洗濯するものです。子供が靴をドロドロにするのは雨の日ですし、寝小便をタレやがるのは狙いすましたように天気の悪い日です。そもそもルーチンワークに日和なんか関係ないぞ、とこのように思ってしまうわけですね。

 「日和」という言葉を辞書で引いてみますと、「天気」というそのものズバリな意味の他に「ことのなりゆき、形勢」という比喩的な意味も載っています。「日和る」などという表現はかなり高度な日本語表現ですね。医学用語では「日和見感染」という言葉があります。ある種のウイルスは、普段はおとなしくしていて、宿主の体力が落ちるやいなや「それっ!」とばかりに悪さを始める、という感染形態をとりますが、この場合「日和見」をしているのはウイルスの方だという解釈になってるところがどうも気持ち悪いです。「今日は発症日和だな。よおし」などと毒素を出し始めるウイルス。なんだか知能を持ってるみたいで怖いじゃないですか。

 とまあこんなことを考えていまして、ウチの子供達で一番「日和見能力」があるのは誰かなあ、などと考えてみたわけですよ。「日和る」という言葉にはあまりいいイメージがありませんが、要するに「状況判断力」を備えていなければ「日和る」ことは出来ないわけですから、これもりっぱな「才能」でしょう。

 おそらく皆さんの予想どおりでしょうが、やはり「末っ子」というのは非常に対人能力が高いようです。ウチの末っ子を観察していて、思わず「対人反射神経」という新語が思い浮かんでしまったほどです。自分から他人に積極的に働きかけるし、会話のレスポンスも早い。自分の現時点での立場をトータルで解釈する能力に秀でているので、かけひきも上手です。生まれた時から否応なく人の輪の中に放り込まれてしまった子供が自然と身に付けた「生きるための知恵」とでも言うべきものなのでしょうか。

 さてそれとは別に「人の気持ちを読みとる能力」というのも個人差があるものです。ちょうど昨日「スパスパ」でやってましたが、これについては以前非常に面白い説を本で読んだことがあります。

「情緒の安定しない親に育てられた子供は”Mind Reader”になることが多い」

 子供にとって最も大きな存在である親、特に母親の精神状態というのは、子供にとってはある意味「死活問題」であると言えます。イライラしていることが多く、いつ暴発するかわからない母親ほど子供にとって気持ちの休まらない存在もないでしょう。母親が今どんな気分でいるのか、それを気にしながら生きざるを得なかった幼き「Mind Reader」達は、おそらく長じてからも「人の気持ちを読もうとする」習慣が抜けないのでしょう。ただしこの悲しき習性も社会に出ると「気が利く」などと重宝がられる場合も多いので一概に不幸とも言えないのですが、やはりそれに振り回されてしまうと大きな精神的ストレスになりうるでしょう。

 かつて私は就職した動物病院で「商売屋の娘」として高い評価を受けました。サラリーマン家庭で育った人間と商売の家で育った人間とは、サービス業をやらせてみるとやはり「違う」のだそうです。もちろんガソリンスタンドの手伝いもしましたが、私がもし本当に「気が利く」のであれば、それは大人の事情がそのままの状態で入ってくる家庭で培われた「Mind Reader」としての能力なのだという気がします。父親も母親も、忙しいのでそれは当然のことなのですが、日々あまり穏やかな精神状態ではなかったと記憶します。特に父などはイライラしながら店から戻ってくることも多かったです。